第18話

 かつて国府があったという石塁の遺跡がわずかのこる以外だだっぴろい空き地は、むかしよく草野球を遊んだけれど、いまは時代といおうか「球技とバーベキュー禁止」の看板がフリー素材っぽいアニメ絵つきでそこかしこに立てられていた。しかし彼は構うことなく、ボールを投げてきた。「いやいや、硬球かよ」とぼやきながら、まだ手のひらに馴染んでいないグローブをひろげ、シュートがかったそれを受け止め、山なりのボールを手首のスナップだけでイミに投げた。グローブはあきらかに子ども用で、オイルで手入れされてないだろうし乾ききってずいぶん堅く、指がぎちぎちだったが、ボールがしたたか叩く感触と、日焼けした革の匂いがなつかしかった。

 イミがアメリカで野球をしていたと知るやいなや、「メジャー級の球を打ってみたい」と彼が例のかるいノリで言い出し、彼と委員長の子どもが自転車のふたりのりで帰ってくるなり、肩にのせた金属バットのさきにグローブを括りつけ出かけた。彼の子は女子、委員長の子は男子で、どっちも親によく似ている。ふたりとも高校生で年はひとつしか離れていないらしく、冗談をかわし肩を叩きあうさまはずいぶん仲がいいように見えたが、いわく「姉弟みたいなもの」らしい。「弟よりお姉ちゃんがほしかった」とまんざらでもなさそうに呟く彼の娘が、夏美につきまとう年のわりにあまえた態度はほほえましかった。委員長の息子のほうは秘めた恋心がありそうだけれど、さておきアメリカ留学に興味があるらしく、いまどきの子らしいといおうか、前のめりでイミに話しかける英語の「you know」も見事なものである。

 遊びだから、それほど本気で投げる必要はないと思ったが、「肩を作りたい」とイミが言い出したので、すこしずつ距離をとりながらキャッチボールに付き合った。なるほど「しばらく投げてないうちに球が速くなった」というだけあり、かるく放ってもよく伸びるし、弓をしならせるように体をねじると女子にしてはかなりのスピードが出ている。「捕球の音が気持ちいい」と褒められるまま、座るよううながされ、フォーシーム・シンカー・スイーパー・ナックルカーブ・スプリットチェンジのサインを教えられた。いかにも大味なアメリカンスタイル、シンカーはむかし見たそれと違い、変化はすくない代わり速球とほとんどスピードが変わらず、カーブも縦に落ちるくせずいぶん速く、スイーパーという球種は聞いたことがない(さっするに、おおきく逃げるぶん落差のないスライダーのことで、一発を狙われる場面、外角低めの空振りを誘うため使えそうだ)。また、あさく挟みこんで投げるスプリットチェンジは、自分の感覚では横変化が控えめなぶん対右でも対左でもつかえるフォークボールに近いが、よりスピードがあるためストレートをねらう打者からは消えたように見えるだろう、ベース手前ですとんとバウンドするぐらい落ちる軌道は、スカウトがみれば食指ならぬペン先を動かしそうな逸品だった。

「しゃあーッ! ばっちこーい!」

 やがて彼はあひるみたいに尻をふりながらバットの先端で草のはげた砂地のうえにへたくそなベースのかたちを描き、おおげさにバットを両手でかかげて伸びをしながら打席に入ると、おおよその目方でマウンドぐらい離れたところに立つイミに向かい合った。なにやらメジャー流を気取っているらしく、舶来の助っ人さながら、クラウチングスタイルにかまえ、バットをおもいきり長く持っている。そのくせ立ち位置はおおいかぶさるようなベースぎりぎりで、後ろからみると、悲しいかな、いよいよ中年太りがはじまろうとしていた。フォーシームのサインを出し、どうみてもバットが出ないだろう、彼のふくらんだ下腹部ちかくにミットを構える。イミも企図を察したのか、ハーフスピードに抑えればコントロールはゾーンを九分割できるぐらい抜群で、タイミングもミートポイントもまったくあっていない、注文どおりの空振りみっつだった。

「お願いします!」

 つづいてたかく飛び跳ねるたび靴の底を叩きあわせながら元気よく打席に入ってきたのは、彼の娘だった。セーラー服のままで、まさかこの短いスカートでバットを振るつもりなのか、スパッツを穿いているわけでもないし、ましろい下着がへそまで見えるのを気にすることもなく、お父さんそっくりのフルスイングで(多少マシではあった)、空振り三振を喫した。

「おてやわらかに」

 頭をていねいに下げつつ、ちゃんとベースをまたがずに、委員長の息子が打席に入ってきた。高校はどちらかというと勉学に力をいれている公立校とはいえ、一年生にしてバスケ部のレギュラーらしく、ポイントガードだそうだが、胸板のあたり筋肉質で、ずいぶん背が高い。あるスポーツに卓越したプレイヤーがほかの競技でもパフォーマンスを発揮するように、左打ちの、イチローを思わせるような、なかなか堂に入ったスタンスである。速球を遊撃手の頭を越えるように当てるのは上手そうに見えたのと、イミのスピード以上に重い球をキャッチャーミットでもない子ども用のグローブで受けつづけると手が痛くなったこともあり、そろそろ変化球を混ぜることにした。対左の教科書どおり、初球のカーブと、後ろ足のふくらはぎをねらうスライダー(あ、スイーパーか)で追いこんだ。そのあとの空振りを取りにいった高めへのフォーシームは、よっぽど目がいいのか、はたまた張られていたか、微動だにせず見送られたが、その反応はこっちからすれば掌のうえで転がすようなもので、あごをあげさせてから外角低めへのスプリットチェンジで、みたび三振を奪った。

「手かげんしなよお、メジャーリーガー」

 なだらかな芝生に腰かける夏美が手でメガホンのかたちを作りうれしそうに声をはりあげた。彼女がアメリカにいたとき、イミとはよく野球を遊んでいたらしく、この日も打席に立ちたがったが、さすがに慌てて止めた。

「ガッツくんは打たないのー?」

 砂のついたボールを手のひらで拭ってからイミに投げかえし、これで終わりとばかりに屈伸しながら立ちあがると、委員長が言った。いつかのいたずらっぽい口調だった。

「お。そうだ。覚えてるよ、ヒーロー」

 おもいだす。この町に一年だけいたときの、一度きりの球技大会。相手の投手はアマチュア野球でならしたエース。不良にからまれて利き手の人差し指が折れていたため、打席に立つつもりはなかった。しかし決め球のチェンジアップを引きつけつつ右に流すイメージはあった。志願して「一打が出れば」という最終回裏のツーアウト、打席にたち、速球をバックネットに当たるファウルで粘りつづけた。相手エースは何度も首をふり、速球だけを投げつづけた。さいご、四球を選び、息が切れたのだろうつづくあまい球を、次打者がみごとにとらえたホームランを打ち、劇的なサヨナラ勝利を得るのだが、ほんとうは打ちたかった。いまもあの壁に当たったかのように落ちるチェンジアップの、追いかければ追いかけるほど逃げていくような軌跡を覚えている……。

「ガッツ! ガッツ! ガッツ!」

 彼が、委員長が、つづいて子どもたち、いよいよ夏美も、急かすようにリズムを早めながら、足で地面をふみ、はげしく手を打ちならす。けっきょく、「勝負してみたいです」と訳ありげにわらうイミにうながされ、打席に立った。

 キャッチャーは彼。審判は夏美が手をあげた。「危ないよ」といちおう忠告したものの「ガッツくんが前に飛ばせばいいでしょ」と意に介さない。というか、その名前で呼ばないでほしい。

「頭いくぞ頭いくぞ」

 彼がぶつぶつとそう脅しながらサインを出した。初球は様子見といったところか、真ん中あたりへのシンカー。女子にしては速いとはいえ、男子ならアマチュア野球でも打ちごろのスピードである。が、シュートと見まがうぐらい手元で内角に食い込んでくるのと、久しぶりのスイングに慣れていないこともあり、三塁線へのファウルになった。火の出るような弾丸ライナーが派手な音とともに金網で跳ねかえる。わるくない。むしろ思ったよりスイングが速い。

「すげー」

 背後から声変わりまえの男子のしらない声がとぶ。女性の本格派投手が面白かったのか、野球がさかんな土地でもあるし、気づけば、配達中らしきウーバーイーツや、おさない柴犬の散歩をさせていたわかいカップルなど、まわりに物好きの観客が集まりだしていた。

 二球目はスイーパー。むかしから外角低めに逃げる変化球の見極めには自信があったため、バットが止まった。あきらかに手首が返っていなかったので、セルフジャッジでイミが人差し指のばってんをつくり「no swing」を宣告した。三球目もスイーパーだが、これは頭に当たるような軌道で上半身をのけぞらせれば、内角高めにすっと入ってきて、ストライクが声高にコールされる。スリークォーター気味に腕を振ってきたので、そうかなと思ったが、なるほど、指のかかりで回転数を制御しているのか、ひとつ前の球より変化がおおきい。四球目、考えがまとまるまえにカウントを取ろうと考えたのだろう、かなりはやい手投げのクイックモーションで放ってきた高めへのシンカーを、カット気味のファウル。野球の練習の帰りらしい砂まみれのユニフォームを着た中学生ぐらいの子が道路に転がったボールを拾ってくれたのち、観客にまじった。五球目のナックルカーブは抜けたボール球が体に向かってきたため素手でキャッチし、投げかえした。六球目、外角は捨てていることがバレたのか、首をなんどか振り、内角高めぎりぎりに決めにきたと思われる今日いちばん速いフォーシームがぎゅんと伸びた。ばしん、というミットの弾けるような音が消えたあと、夏美はあごに手を添えしばらく唸ったが、「空があおいからボール!」と叫ぶ。ほほを風船のように膨らませ、おなかから力いっぱい息を吐くと、客席から歓声がとどろく。心臓がばくばく唸る。イミはボールを受けとると、グローブのなかで指になじませながら苦笑いを浮かべ、肩を落とし、ためいきをつきながらうえを見た。雲ひとつない空を自衛隊機がきりさいていった。

「つぎ、フォーシームのサイン出すぞ」

 うしろからささやき声がした。目線だけで彼をみた。左手でピースサインのような二本指を、右手で親指をふくむ三本指を立て、失敗したバルタン星人みたいにフルカウントであることをしめす夏美には聞こえていないようだった。

「打ってくれ」

 どういうつもりなのか。それでも、彼がいちども嘘をつかなかったことを覚えている。そんなところがとても好きだった。引っ越しのとき、馬鹿みたいにトラックを追いかけてきてくれた。「バックしますって、ガッツ石松に聞こえるよな」とつぶやき気まずさをごまかすようにあごをしゃくると、馬鹿みたいに腹をかかえて笑ってくれた。初めて「ガッツくん」に、べつの意味を与えてくれた……。

 イミがグローブで口元をかくしたまま、すっかり火の点いた目でサインにうなずき、足をたかく上げ、ひときわおおきく振りかぶる。七球目、予想どおりのスプリットチェンジは、内角低めのひざ元にふかく沈みこむ。バウンドする手前をさいごは片手持ちながらバットの芯で拾った。かあん、と鼓膜が腫れあがるような音がこだまして、ライト方向にスライスしながら尾をひく彗星のように打球が遠のいていく。東の空はうっすら暮れはじめていた。うなだれた国旗のうえを高く越え、シルエットと化した木々に、しろいボールが吸いこまれる。子どものころは、夜が更けるまでボールを探したっけ。いまはそんなことをしない。失くしたものは二度と手に入らないと知っているからだ。

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