第17話
階段を降り、路地に入り、まるまった猫がうたたねする角をまっすぐのしっぽに気をつけていくつか曲がったさき、つかれきった住宅地にとけこむ簡素な喫茶室があった。意味ありげに「男の隠れ家」と呼ぶその店のしろい壁にケーブルまるだしで後付けされたチャイムを鳴らしながら、ふるいわりにドアノブまでぴかぴかに磨かれた扉をくぐれば、彼がこの店に連れてきたがった理由はすぐにわかった。
「あれ、ガッツくん? ガッツくんでしょ!」
カウンターに立つやせたエプロンの女性に見覚えがあった。化粧っ気がなく、むかしより目元にシミが目立つけれど、癖のないながい黒髪はかわってなくて、二三度だけ見たことのある私服の落ち着いた雰囲気だとか、放課後ひっそり行われた人気投票で一位をとるなど、あいかわらず美人といって差し支えないはっきりした目鼻立ちをよく覚えていた。当時、あまり笑っていた記憶はなく、ほほの柔和なしわは歳月をかんじさせた。
「覚えてる? 委員長。俺、大学のとき、ちょっとだけ付き合ってたんだよ。というか初めての彼女で、ぜんぜんうまくやれなかったし、『釣った魚に餌をやらない』とかケータイぶん投げられてさ。あいつはあいつで束縛きつかったし、メール一本で喧嘩別れしたけど、それでふたりともせいせいしたというか、いまはすげえ仲いいよ。呑みにいったりはなくなったけど、お互いおない年のときに結婚して、式では嫌味ったらしくスピーチしあったし、子どもも年がちかいから、高校受験が終わってからはふたりでコナンの映画いったり、遅くまでバスケやってる」
彼は耳もとでそう囁き、フリースローの真似をした。どう思えばいいか複雑ながら、いまも彼女を「委員長」と呼んでいるのはなんだかうれしかった。目をしろくろさせているのは、夏美とイミのほうだ。
「ガッチャンとお知り合いなんですか?」
夏美がひくい声でようやくそう切り出した。バス旅行でとなりの子に吐瀉物の袋を差し出したり、察しのいい委員長が、ひとりぶんのデカフェを夏美のまえに置くと、猫舌なはずの夏美はたっぷり供されたミルクも入れず口につけようとして、弾かれたようにくちびるを離す。
「ガッチャン? ああいまは、ガッチャンなんだ。うんうん」
勉強以外のこと、たとえば植木鉢を割った言い訳を教師にうったえるときなどは、よくいえば頭がまわった、わるくいえば疑いしらずだった彼は、うれしそうにそう頷いて、
「ガッチャンというか、ガッツくんは、あんまり昔のはなし、されたくないでしょ。ねえ?」
と、木製のカウンターを人差し指でとんとん叩きながら、わざとらしくキッチンをのぞきこんだ。剥いたバナナと牛乳を入れたジューサーを丁寧な所作でいじる委員長は、いつもきつく締めていた記憶のある口元をふっとゆるめた。
そこからさきは、あまり話は広がらなかった。彼はなんのために呼び止めたのか、ふといストローでミックスジュースを音をたててすすりながら、テレビで放送される巨人戦を見あげながらときどき「いまのは振れよー」とあきらかなボール球に注文をつけるだけだった。彼はむかし、妙に頑固なところがあって、家に遊びにいっても、宿題が終わるまでは口ひとつきいてくれない。背中をまるめて机にかじりつく彼のうしろ、やたらふかふかしたベッドに寝転がり、壁とのあいだに宝物みたくぎっしり並ぶ週刊少年ジャンプの日焼けした古本をもう何度目か開きながら、「特大のパチンがきたのだ」なんかの抑揚がない教科書読みに耳をかたむけて、あくびを噛み殺す時間が幸せだった。いったん宿題が終われば、「ガッツくん、野球しよ」と、読んでいる途中のジョジョが第三部の終盤だろうとかまわず叩き起こそうとする様も、身勝手で好きだった。
「あのね」
と、しびれを切らしたように、午睡をさそう眠気も吹っ飛ぶようなおおきな声を、夏美がひびかせた。
「いま、探してるひとがいるんです」
早口で言い、イミを肘でついてうながすと、机のうえにバインダーを広げさせた。
すっかり要領を得た言い回しで、イミとは恋人同士なこと、インスタでだけつながった「彼氏」がいること、イミとは子どもをつくれないから精子バンクをたより「彼氏」の子を孕んだこと、あと三か月で生まれること、子の父親に会いたいと思ったこと、かつて子の父親がこの町で暮らしていたこと、この町には彼が愛していたひとがいること、などを、説明しすぎというかもはや冗長なかたくるしい口調ではあったけれど、すらすらと話した。
「どうしてお父さんに会いたいのかな」
ひとしきり聞き終えたタイミングを、大人の余裕みたいに待ち、つめたい声をナイフで刺すように尋ねてきたのは委員長だった。
「あんまりよくないと思うな。そういうの。精子バンクを選んだ時点で、そのことはわかってたはずだよ。イミちゃんって言ったかな、彼女とふたりで世帯をもち、子を育てていこうと決めた。すばらしいと思う。思うからこそなおさら、知らないほうがいい。知ってはいけないこともあるんじゃない?」
委員長らしい、苛烈な言葉だった。いつかの学級会、檀上に立ってやんちゃな男子たちをいさめる彼女の凜とした顔つきを思い出した。いつかのように、腕まくりしたほそい腕を組み(あのころ持っていたチョークの代わり、いまはよっぽど尖った菜箸を握っていた)、困った顔のおじいさん先生によくそうしたように、ときおりこちらに挑発的な目線を配ってきた。
「わたしは……」
夏美ははっとしたように顔をあげ、それからうつむいて、膝のうえに広げた手をふるわせた。ぴんと張った睫毛のさきには使っていない角砂糖が銀色のスプーンのうえできれいな立方体をしていた。
委員長の言ったことは正しいと思う。いつも正しいことを言うのが委員長だった。そしてあのころ、彼女に反発するたび、「正しいことが全てではないんじゃないか」と思いながら、それを言葉にできず、教室ではやしたてられながら、とっくみあいの喧嘩をしたこともあった。いつも口を酸っぱくして押しつけてきた平和主義はなんとやら、意外とサッカーではハットトリックを決めたこともあるフォワードで、他の子よりながいスカートがめくれるのも厭わず脇腹に打ちつける強烈な蹴りが彼女の必殺技だった。風呂に入ったとき、青あざが沁みて泣いた。だって正しいことが全てなら、彼を好きな気持ちすら、否定されてしまうんじゃないか。自分のすべて、否定されてしまうんじゃないか……。
「震災があったんです」
夏美の肩を持とうと口を開いた瞬間、よっぽどつよい、当事者の言葉が沈黙をやぶった。昼さがりの喫茶室、豆を挽いた匂いがただよって、頭上のろうそくを模したシャンデリアは消え、出窓からさしこんでくる春のひかりが格子の平行四辺形にゆがんだ影をむらさき色のカーペットにひく。向こうでは荷台にからっぽのきいろいビールケースをみっつピラミッド型に括りつけたジャイロキャノピーが、くろいゴムエプロンに野球帽のおじさんの片手放しで、音もなく通りすぎていった。
「この子はfatherを震災で失ってるんです」
イミが話したかったのはなんだったのか、一転、自分の話ばかりをして、どうして夏美の子の父親に会いたいと思ったのか、彼女にもあったはずの切実さを見誤っている。もともと、そのぐらいの格好で子の父親には会いたかったのかもしれなかった。それは圧倒的に正しくなく、その正しくなさが、ながく、脈絡のない話にあらわれていて、あくびしたくなるようなそれが、ひだまりに包まれているように心地よかった。
「What kind of feeling do you have for father?」
委員長は組んだ腕をほどいて香ばしい匂いをぐつぐつ立てる鍋にむきなおり、たしか大学では教育学部だったか、いかにも日本人らしくrで舌を巻かない発音でそう尋ねた。背中を向けたままの、あきれたような口調は、とっくにそれが分かっているようにも聞こえた。
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