第16話

 よく凪いだビロードの海をみおろしながら、ながいトンネルをいくつか貫くと、まぶしいぐらいの空があらわれた。右手には頂に紅白の電波塔をかぶるおおきな山がそびえ、左手には背のひくい町並みがひろがって、そのうえを飛行機が滑空する。這うように飛ぶくせ手を払えばつぶせそうな小バエのようにちいさい。自衛隊機だろうか。

「空の町ですね」

 イミの言葉にうなずきつつ、ナビの指示にしたがいインターチェンジで降りた。夏には蛍が舞う一級河川にかかる、うすい水色のこじゃれたトラス橋を段差で跳ねながら越えれば、片側一車線の道がひろく、まっすぐで、背高の軽がおおい駐車場以外はこぢんまりとしたチェーン店ばかり両わきにカラフルな看板をめだたせる。回転ずし、ファミレス、牛丼屋、コンビニ、回転ずし。

「なんか、なんもない町ってかんじ」

 夏美の声もかすれていた。津波にさらわれた被災地だって、なにもなくなった点ではおなじだが、つまり元々はなにかがあった。またすくなくとも津波はあった。この町は、「なにもない」すらなかったのだと、思い出した。

 人口が少なくもないが、わずかな右肩さがりの傾向をあらわす、日本の平均的な地方都市である。税収をふくむ市民の生活は、海沿いにつらなる工場地帯に支えられていたが、リーマンや政権交代などにともなう数度の円高に深刻なダメージを喰らい、海外生産移転で全国的に衰退する第二次産業のあおりをもろに受けた。かつて西では赤穂とならぶ塩の名産地としてしられた干拓地がおおきな平野をなし、対共産圏の戦略において地政学的な要衝に位置するため、自衛隊の基地もひろがっているが、おもに教育機能が配置されていたはずで、練習機が空を駆けるぶんだけ、耳鳴りのような音のみなもとをさがし見上げればいつもそこに鋏のような機影があったかもしれない。戦後ずっと自民が圧勝をつづけている日本有数の「自民王国」だったが、右翼という言葉に表象されるような思想があったわけでもなく、保守的という言葉もそぐわないぐらい保守的な、とにかく変わろうとしない風土があった。つまり左寄りではないけれど、平和教育と部落教育はさかんだった。平和教育のほうは、原爆の被災地がほどちかいという土地柄だろう、読書感想文では空爆でガラス細工のうさぎが溶けるような本を大人の漫画よりよっぽど緊張しながら読んだり、修学旅行でも京都などをさしおいて平和記念公園にバスで行き、たのしみにしていた海軍カレーものどを通らぬ沈鬱な面持ちで帰ってくることがめずらしくない。また部落教育がさかんな点については、すなわち市区に部落が点在したということである。クラスにも部落出身者がおり、誰がそうなのか、みなうっすら知っていたけれど、その点にふれる当てこすりや、いじめは皆無で、ありふれた学級会をにぎわす男女の「ブス」「バカ」「バカって言うやつがバカ」ぐらいの担任が耳垢をほじくるような言い争いをのぞけば、差別的であった印象はうすい。どちらかというと「この町全体が部落みたいなもん」という過疎化した町BBSに名無しの誰かがのこした諦めたような書き込みばかり記憶されている。

 あまり停まることがない信号の交差点をいくつか越え、就活では勝ち組だと称されるぐらいこの県下でだけ有名な地銀のとなり、口をひらいたうすぐらいシャッターだらけの商店街とは逆方向に曲がると、石畳のなだらかな坂道をのぼり、あかんべえのようにだらしなく垂れるあかいのれんの下で、老人がいまどきめずらしい紙巻き煙草を吹かしながら欠伸をしたり、ハタキで腰のはいっていないゴルフスイングをたしかめている店をいくつか通りすぎた。やがて正面には石でできた鳥居のむこうに灯籠と巨大な階段があらわれる。嘘かまことか「日本最初の天神さん」をうたう、菅原道真に由来する神さまの町でもあった。

 最大料金が地元と比較してもずいぶんひくく設定されたフラップ板なしのコインパーキングに車を慎重なバックでおさめ、スマホをにらみながら先導してくれるイミの猫背を追った。また自衛隊機がいくつか空をすべっていった。夏美はそれを見あげ、おなかに手を当てて、ぽつりと呟いた。

「……この町に、この子の父親の、最愛のひとがいるんだよね」

 返事を言い淀んだのは、なにか間違っているようにも感じたから。そもそもこの旅の目的は、夏美の子の父親と会うことだったはずだ。それがいつのまにかすり替わり、あるいはそのほうがよっぽど正しかったんじゃないかと、夏美の求めていることがわからないでいる。産むための理由をさがしているように思ったこともあった。子を育てていくよすがを求めているように感じたこともあった。「そんな単純な話じゃないよ」とにやり笑ったのは、いつの、どの文脈であっただろう。もっともこの旅は、夏美のためではない。イミのためでも、自分のためでもない。主体をむすぶ三角形のまんなかにあるそれのためであり、あるいは、三人で子を育てていく理由というよりは、子が産まれてくる理由を見つけるためではなかったか。小学校の算数だったか自由研究だったか、しけたマッチ棒に教えられたのだ。三角形より四角形のほうが不安定なのだと。およそ不安定なあたらしい家族のかたちに際し、消えるのが正しくないならば、正しさなんてものは無意味かもしれない。たとえばこの世界が正しければ、ぴったりの線がひかれたあみだくじみたいに、自分は産まれてくることがなかったように思うのだ。

 神さまがでたらめに積んだように隙間のおおい石垣から露草がおいしげり、うすくにごる蛇のぬけがらが散らかった坂を上がっていくと、しかくい貯水池のそばに、二階を増築したような一軒家があった。片足のカーポートが二台ぶんある庭先の、「電力会社から金をもらってる」が初めて行ったときの自慢だった電柱のかげに隠れながら見守っていると、やがて焦げ茶色のニスでぬれた木の扉がライオンの顔をしたドアノッカーの音をひびかせながらわずかにひらき、ぴんと張ったチェーンごしに夏美とイミがやりとりをしているようだったが、ふたりともぺこぺこ頭を下げる様子から察するに、応対してくれたのはPTAでも気がつよいことで知られていた母親だったのだろう、勢いよく扉が閉まれば、ほどなく項垂れて帰ってきたのち、「あのひと、いなかった」と夏美がふてくされつつ報告した。当然といおうか、まともに取り合ってもらえなかったようで、彼がいまどこで何をしてるのかも教えてもらえなかったらしい。行く宛てのない旅もいよいよ頓挫したかたちになるわけだった。

 お茶でも飲むか、と落胆した夏美をさそって、ながい石段を先導した。おなじ系列の神社がそうであるとおり、学問と梅花でしられた社である。ふだん人はそう多くないはずだが、参拝客でにぎわい、出店が焼きそばのあまじょっぱい匂いを漂わせるほか、レストランを兼ねた土産物屋の店先では、さかんに雲のような湯気をたたせる金粉いりの梅こぶ茶をふるまってもらった。

 梅花を背景にスマホで写真をとりあっている夏美とイミを置き去りに、受験合格をいのる絵馬のへたくそなみみず文字をポケットに手をつっこんだまま細めた目で流し見し「がんばれよ」とつぶやいて、春の強風で落ちたおみくじがちらばる境内をそぞろあるくことにした。足をひきずるたびジャリジャリと音が鳴る。正月に凶をみごと引き当て爆笑されたことは覚えている。あのころは子どもだった。あまり思い出はないが、写生大会があった。たしかいまとおなじ時期だから、来てすぐか、出ていく直前だったはずだ。みなが体のわりにおおきなカンバスをひざのうえにのせて絵筆をあかくそめ、片目をつぶり親指をたてて梅の木を囲むいっぽう、地面に寝転がり、あおい絵の具をチューブいっぱい画用紙にぶちまけたのが彼だった。きびしかった教頭先生に「あなたにとっての神はこれか」と烈火のごとく怒られてたっけ。彼自身、そうした理由をわかっていなかったのか、憮然と鼻水をすすりながらまっさおな画用紙をまっさおな手でにぎった砂消しゴムでこすり、そのあと描いたちいさな梅花も端正だったけれど、モチーフにおおきな空を選んだところが好きだった。醤油顔の奥二重だったけれど、うれしいときだけビー玉みたいにおおきな瞳はきっとそこに神をうつしていた。そんなところが、とても好きだった……。

「ガッツくん!」

 叫びごえがして、とっさに振り返ると、楼門から五円玉を放り投げても入ったほど幅広い賽銭箱の正面、おどろいたような顔の彼がいた。おなじ顔をしていたのかもしれない、見合わせたのち、彼がえびす様みたいににっこり笑ったのは、自分もおなじ顔をしていたのかもしれなかった。ひさしぶりにこんな顔をした。そうだ、あのころ、自分はこんなふうに笑うことができたのだ。

「ガッツくんだろ、なんでこんなとこにいんの? いまなにしてんだよ!」

 ほかに遊ぶところがなかった町の、かびくさい古本屋を思い出す。彼はあのころ、ゲームの攻略本を広げていた背中を見つけたときのように、無邪気にかけよってきて、あのころよくそうしたように、両の肘のうらを痛いぐらい叩いてきた。いまなにしてんだよ。そう問われ、足をすくわれたような思いがした。そうだ、いまなにをしてるんだろう。それは彼と会えなかった三十年ぶんの問いを含んでいるように思った。

「え、なになに、どうしたの?」

 よほど彼の声が大きかったのだろう。まわりの注目があつまるなか、夏美とイミが興味ぶかそうに近づいてきた。夏美の手元にはミルクの、イミの手元には抹茶のソフトクリームが、買ったばかりなのか形のいいとぐろを巻いたままにぎられていた。

「ガッツくんの娘さん? でも、ふたりともあんまり似てないね」

 目尻を垂れさせた彼は声をひそめてそう言い、自分の背中ごしに、夏美とイミに会釈をする。

「いや、お前と俺、おないどしだろ。なんで大学生の娘がいんだよ。老け顔いじってんじゃねーよ!」

 ようやくひっくり返った声でそう言い返すことができた。言いながら眼鏡がかたむくぐらいふるえ、あのころのようなやりとりに、泣きそうにもなった。しかし昔よくツッコむときにそうしたとおり、彼の石みたいにかたい尻を軽快に叩くことはできなかったし、あのころとそう変わらないはずの坊主頭をしたたか打ってくれることもなかった。それに彼も結婚して高校生の娘がいると聞かされ、左手の薬指のささやかなダイヤモンドも、そっちでよっぽど声をしぼりだして泣きたかった。

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