第15話

 ミニは西にむかって爆走した。制限速度の誤差で追い越し車線を並走するトラックをパッシングで煽り、じぐざぐ走行ののち急ハンドルで左からぶち抜き、登坂車線でパドルシフトのギアをふたつ落とすとアクセルをべた踏みにする。運転するのは夏美であった。ときおり聞こえよがしに「ありえない」「マタニティーブルーやわ」「信頼とは」と遮音性にすぐれた車室にもなお響くやかましいエンジン音に負けない声をはりあげ、たからかな舌打ちをして、まっすぐなトンネルに先行車両もいないくせいたずらなクラクションをひびかせる。陽があがったころ、イミと部屋に戻れば、板張りの窓辺に向かい合わせでならぶ籐の椅子に腰かけてむきだしのしろい足を組み、コンビニで買ってきたらしいライム色をしたクリームの北海道メロンパンを食べつつ、片手でスマホを打っていた夏美は、「おかえりー」となんでもないふうだったが、いつもとちがいダラダラすることもなく目にも止まらぬ手さばきで荷物をまとめると、そのわりにスマホの充電器は壁のコンセントに挿したままだったし、宿を出るやいなや置いてけぼりにするぐらいの早足で歩いたあげく、なにもいわず座高をさげて背もたれを寝かせたレーサーのようなドライビングポジションで運転席に座ったさまは、思うところがあったに違いなかった。

 対岸の鳥居をみおろせるサービスエリアでもみじ饅頭ソフトをおごるとようやく口を開いてくれた夏美の報告によれば、早朝、部屋の卓電が鳴って女将に呼び出されたところ、昨日のラーメン屋の小母さんが清楚なパンツスーツの白シャツにネイビーブルーのネクタイをウィンザー・ノットできっちり整えた女性を連れて宿をたずねてきてくれたのだという。夏美の子の父親の生家は、ずいぶんまえに取り壊され、いまはカフェに変わっているとのことだったが、急峻な坂のうえ、対岸とのあいだに展けた水道をカメラに収まりきらないぐらいのパノラマにみわたせる眺望と、軽妙にカタタンと電車の鉄輪が枕木をたたく音がすばらしい代わり、七佛めぐりのコースから外れているため志賀直哉旧居などとちがいほとんど観光客がよりつかない穴場カフェは、よくある移住者がクラウド・ファンディングで建てた華々しいものではなく、もとから地元にいた女性が昔ながらの景色をのこすために銀行員時代かせいだわずかな貯金をはたいて拵えたささやかなもので、オーナーは夏美の子の父親と幼馴染らしいということだった。しかも、夏美の子の父親は、なんどかそのカフェに遊びにきたうえ、帳簿のエクセルをマクロ化する仕事を引き受けてくれたのだという。「すごくいいひとだったよ」と、その幼馴染も声をそろえた。いっぽう、「傷つきやすいひとだったし、子どもができたことは、知らないほうがいいかもね」と懸念も口にした。幼稚園と小学校がおなじで、転校するまでは、いつも公園のトロイメライが鳴り終わっても遊び、黒と赤のランドセルを宿題ごとふくろうを模して絵の具で塗られた小石がならぶあやしい路地裏あたりに置き忘れ、そろって親に叱られていたのだそうだ。彼は男子よりも女子と仲よく、発足したばかりのJリーグに燃える男子たちにサッカーを誘われても、ながい階段で女子たちと猫を追いかけたり、ままごとでシロツメクサの花冠を作ることが多かったらしい。バレンタインにはらぺこあおむしのハンカチを渡したけれど、春休みが明ければあいさつすることもなく転校していた彼に、ひどくわるいことをした気がして心のこりだったから、また帰ってきてくれてうれしい、と幼馴染は紅を塗っていないちいさな口から八重歯をのぞかせたそうだ。

「その方は、彼のことを好きだったんじゃないですか?」

 話のとちゅうでイミが結論をいそぐように口をはさんだ。小学一年生である。好きだったとしても、大人の恋とはまた様相がちがうように思うけれど。

「好きだった、というより、いまも好きなんだと思うよ。ちょっとしか話せなかったけど、こんなショートカットでさ、ちっちゃな耳からあおい珊瑚みたいなかっこいいピアスぶらさげて、わたしより全然きれいで、そのわりに化粧してないし、そう高くなさそうなスーツなのに着こなしがいけてるし、話しっぷりからして聡明で、なんか妬けちゃったな。しかも、謙虚でね。『告白したらあのひとは困ると思うから、なにも言えない』ってさびしそうに言ってた。でもなんか、あのお姉さんが惚れるひとなら、きっとすてきだろうなって」

 夏美は手できのこみたいな髪のかたちの真似をしながら、目を伏せてそう言い、ついたひじにあごをのせると、ためいきを吐き、もう片方の手でソフトクリームの包み紙をくしゃくしゃにした。二羽のきょとんとした鳩が首をゆさぶりつつ足元にちかづき、ずうずうしく零れおちたコーンの欠片をついばんだ。

「夏美の子のお父さんは、結婚してないんですよね」

 あたりまえのことを尋ねるように語尾をかすれさせ、イミが言った。ということは、つづく言葉があるはずだった。

「どうなんだろうね。アメリカの、わたしもイミに調べてもらうまでしらなかった民間がやってる精子バンクだし、金さえ払えばオールオッケーというか、規約もそんなになくて、まあそこがよかったんだけど、たしか未婚が条件にあるわけじゃなかったと思う。ていうかそうだったよね。よく考えたら、イミのほうがくわしいじゃん。でもお姉さんはけっこう確信的に言ってたよ。あのひとは、誰のことも好きになれないって。うん、目は真剣だったけど、フラれた女の意地ってかんじの言い方じゃなかった」

 春らしい、気持ちのいい陽気だった。髪のさきを人差し指に巻く夏美があくびを噛み殺しながらそう答えると、イミが含蓄ありげな一呼吸をおいて言った。

「じゃあなんで、精子バンクに登録したんでしょうか」

 夏美は叱られた子どもみたいにむずかしい顔を俯かせたまま、ピンク映画の誘いを断わればそうしたようにくちびるを尖らせて、だまりこむ。答えはここになかったし、だす必要もなかった。すくなくとも、彼に会うことができれば、その端緒にふれることができるかもしれなかった。しかしそれは、夏美とイミが求めるようなそれとは違うかもしれない。たとえば産むのをあきらめたくなるような答えが与えられたとしても、選択肢として取りようがないいま、子の父親と会う価値があるのかと考える。あるいはその価値は、子の父親こそが必要としているのかもしれない。夏美とイミだけではない。彼にだって、彼にとっての「復興」があるのかもしれない。

 彼の幼馴染いわく、彼にはもうひとつ大事な思い出の場所があるという。小学校のわずかな一時期をすごした場所ということだったが、その町には、彼が生涯でもっとも愛した相手がいるらしかった。その相手の住所を教えてもらい、もはや子の父親を探すというよりは、たとえば産む理由を探すというような様相で、とにかく結論自体は出ているからか、見た目はそれほど悲壮でも切実でもなく、道なりの百キロメートル先をしめすナビの指示にしたがって車を走らせる。名物の牡蠣や穴子を盛ったはぶて焼き丼でおなかいっぱいになったのか、夏美は後部座席でイミの肩に頭をあずけ、だらしなく口をひらいてアヒルみたいないびきを立てはじめた。ルームミラーごしにイミと目があえば、彼女は気まずそうにほほえんだ。

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