第14話

 小母さんが近所つながりで手配してくれたふるい洋館めいた宿は、風呂はシャワーのない共同というかそのまま自宅のそれで湯の温度が調整しにくいし、鴨居でおもわず頭をさげるほど各階の背がひくい三階建ての手狭なものながら、仕立てがいい着物の若女将はいろじろの洛中そだちらしい小顔で、夜食に梅干しいりのおにぎりを握ってくれたり毛布がいるか尋ねてくれるなど行き届いているし、いかにも昭和の建築といったぐあいで雰囲気がよく、潮風でくすんだ飾り窓のむこうに海と対岸の島をみとおすことができた。戦前からの造船業に由来するクレーンが、まぶしい投光器に照らされ、地から伸びる指のような影が不気味にゆれている。いっぽう町明かりはあわく畳敷きの部屋にひろがって、夏美のくうくうという小動物みたいな寝息が聞こえるなか、そっと戸をひく音が聞こえた。すこし待って、オイルヒーターがちからづよいためおなかにだけ掛けていた布団をはねとばし、枕元の丸眼鏡を整えると、間口の全身鏡にうつりこむ坊主頭と浴衣をくみあわせた姿の胡散臭さに苦笑し、ふたりぶん残されていたスリッパの片方を引きずった。

 足元のコンセントから生えたほのかな保安灯をたよりながら、紅のじゅうたんと手すりの薔薇が絡むような意匠がいかした螺旋階段をあがると、壊れているらしい掃除機や二槽式の洗濯機が埃を帯びてちらかった踊り場をすりぬければ、建て付けのわるいサッシ戸に体をあずけてひらき、そうたかくない屋上に出ることができた。瀬戸内の潮風も春のつとめてはそれなりにさむいことを思い出した。ぼんやりと消えそうな影をひく物干し台のむこう、ほそい柵から身を乗り出した彼女のつややかな黒髪が風にあおられ、浴衣がめくれれば肉づきのいい太腿があらわになった。

 話しかけようと一呼吸おいたところ、下半身にたちのぼる寒気がこらえきれず、年をおうごとに派手になるくしゃみが飛びだしてしまった。イミがはっとふりかえり、はだけた襟元をなおす。スポーツ向きといおうか、胸は谷間がわからないほど平べったい。月あかりがグラデーションをもたらす肢体の陰翳は芸術の町をいろどるにふさわしく美しかった。

「眠れないの?」

 鼻水をすすり眼鏡を持ちあげたのち、イミのとなりでひえきった柵に手をあずけ、入り組んだ路地に沿ってぽつぽつ点るオレンジ色の街灯以外はうすぐらい町をみおろして、そう語りかけてみた。夏美との関係にくらべれば、イミとの関係はむずかしくない。「異性と友人になれるか」という学生のころ弁当を囲んでよく訊かれた問いがあるが、あかいウインナーを得意げにかじりながら、友人の定義を「勃起しないこと」と表現すれば、男子に「お前、最高」と肩をたたいてわらわれ、女子には「きっしょ」とさげすまれたけれど、同性愛者の自分にとっては迷いなく「Yes」だった。年の差こそあれ、イミとは遠すぎず近すぎずほどよい距離感の友人である。イミが日本に来てしばらくは、挨拶しただけで「sexual harassment」だとアメリカ流の訴訟をにおわせるか、いってん「ハンガー・ゲーム」ゆかりでマチズモへの反発を示すらしい三本指を掲げるほど警戒していたが、どうも当時から買い物のときは手をつなぐぐらい仲がよかった夏美との関係をうたがわれていたらしいということで、同性愛者だとわかると疑いは晴れ、夏美としょうもないアイスの奪い合いで喧嘩したときは、コンビニで買ったワンカップふたつとチーズかまぼこを手土産に乗りこんできて、「好きすぎて困る」と文脈をえない相談も没交渉のうち、スマホの対戦格闘ゲームで「負ければイッキ」するノリは夏美に仕込まれたのか、さすがに「負けるたび一枚脱ぐ」ルールは丁重にお断りしたけれど、朝までだらしなく酔い潰れるぐらいには打ち解けた。

「ラーメン屋で大立ち回りを演じたことが、いきなり恥ずかしくなって」

 よわよわしい声でそう言うと、イミは、ほんのり耳のさきが火照る顔をふせてはにかんだ。

 彼女が語ったことの多くは知っていた。すなわち彼女が日本に来た理由だ。「復興」を学ぶことがその主題でありながら、それ以上、夏美への個人的な好意がイミの背中を押したことだとか、語られなかったことも知っている。ただしイミが子どもを受け入れようとした理由だとか、夏美の子の父親と会いたい理由は判然としない。それすら包含してしまうのが「個人的好意」だというまとめ方は、あまりに信頼としてナイーブすぎる気がした。もともと、彼女は来客に観光案内を頼まれれば小一時間でも相談につきあうぐらい気立てがいい子ではあったけれど、マニュアルに載っていなかったり頼んでいなかった仕事についてはことさらに主張したとおり「not my business」なのだ。にも関わらず、昼間の、小母さんにつよく迫った様だとか、いまそれを持て余している格好は、彼女自身、その理由をわかっていないのかもしれなかった。

「そういうのって、あるよね」

 自分の抱える重みとまた違うだろうが、できるだけ軽薄なふうに言って、子どものころのいま思えばどうでもいいような失敗のいくつかを話した。その夜、ねむれなかったことも。あるいは、友だちに何気なくいった言葉が予想外にどかんとウケたのち、布団をかぶったなかでそばがらの枕をだいて体をちいさくまるめ、なんども舌先の感触をたしかめた夜のゆたかさが近いのかもしれなかった。子どものころは繊細だった。そして子どものような繊細さをいまも持っているのがイミだった。

「嫉妬してるとか、そういうんじゃないんです。ガッチャンにたいしても」

 イミは言いにくそうに、またふっと息を吐いて、それからいまさらなようだが、会ってすぐの非礼をわびた。振り返っても、嫉妬としか受け止められなかったので、話半分に聞いた。さておき、夏美の子の父親についてはまた別の感情があるらしく、そちらは嫉妬ではないんだろう。

 夜明けまえの風はさわやかな匂いを連れてきた。日当たりがいい瀬戸内はレモンの産地であることを思わせるような、さかんにはじけるサイダーのようにすっきりした風が吹いた。匂いが消えたあとに漂うのは、いつかどこかでおなじものを感じたような、なつかしさだった。町がどれだけあたらしくなっても、かつて「ノスタルジー」を謳歌した坂の町は、いきかうロープウェイのした、お寺にいたるながい階段ですきな子と遊んだ「グリコ」が幸せだったことを思い出すかのごとく、来客に過去を語らせてしまうものらしい。

 あのとき言えなくてごめんなさい、と前置きしながら、イミは、彼女がじつは同性愛者でないことを話してくれた。それから中学生のころ、すきな男子がいて、子どもを孕み、abortしたこともあるのだと教えてくれた。そのことをずっと後悔しているのだという。当時イミは、子どもを堕ろした理由を「放射能汚染で奇形のbabyが生まれるのが怖いから」だと考えていたらしく、あのころの自分をspankしてやりたい、と、たおれた巨人の肋骨みたいなアーケードの屋上に目線をあずけ、いかった肩がふるえる背中をむけたまま、つよい破裂音のアクセントで吐き捨てた。

 震災の年に産んだ母の話はなんにんか聞いている。とおくに避難したのち産むかたちが一般的だったかもしれない。放射能汚染についてもよく語られた。どころか、いまだに「あそこで産まれた子だと知られたら差別されるんじゃないか」という懸念は女子であれば嫁ぎ先を気に病むぐらいつづいているという。が、すくなくとも数字のうえでは、産みびかえの傾向はなかったらしい。どころか、被災した水族館でアザラシの赤ちゃんが生まれたとき付けられた名のように、産まれてくる子らは「きぼう」だったのだ。とどうじに、いまや十歳を越えている「震災の年に産まれた子たち」が、「産んでくれてありがとう」と感謝をならべたことも知っている。ありていな感謝の言葉があそこではとりわけ重い。産むことがありていではなかったのだ。重いおなかを抱えてあちこちに避難し、子に栄養を与えるため物資の成分表示をにらんですこしでもいいものを食いつなぎ、劣悪な避難環境で体調をわるくする老人たちにはばかりながらわずかな医療をたより、ようやく産んだあとも困難はつづいた。あの日、津波から逃げる車のなかで産まれた子すらいる。そこにはほとんど意地のような母の思い入れがあった。そして原発事故に当てはめれば、かつてここいら、原爆の被災地でうたわれた「産ましめんかな」という詩を思わせる、町全体で子を支えようという思い入れのような意地があった。じっさい、原発事故からの避難に見舞われた県下は、ほかの土地とくらべて災害関連死の人数が突出している。子が産まれるのを見守りながら、避難所で息をひきとるお年寄りが多くいたのだ。

 それは日本のほうの話で、イミのいる対岸では、町をおしての支えを得られなかっただろうことも想像はつく。そのなかで子を抱えたイミの辛さだとか、誇り高さは察せられたし、そのとおりに言った。

「ずっと誰かにそう言ってほしかったんです」

 おなじ海のある町に、くぐもった泣き声がひびいた。胸にあずけられたイミのきれいなたまご形をした頭をだきしめる。つむじからは、おなじシャンプーの匂いがして、自分のほうこそ崩れおちそうになった。手前味噌だけれど、たぶん誰でもよかったわけじゃない。この子は自分かもしれない。そんなことを思った。震災に翻弄され、そして子を持つことができなかった。あの町の彼岸にいた自分のことを、イミのおかげでいとおしいと思えたし、イミにもそう思ってほしかった。涙をぬぐい、夏美のいじわるでサランラップごしにさせられたときよりちっとも性的でないくちづけをして、手をつなぎ、朝まではだざむい屋上に寝転がった。まるで違和感のない手のぬくもりにたしかめたかったのは、浮気したもの同士だけが翌朝に分け合えるあさましい羞恥心とも似ているようで、子をもつ夢を好きな相手に託すくすぐったい気高さを、かがみうつしの誰かに認めてほしかった。

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