第13話

 やはりそれほど寝心地はよくなく、周りのトラックがいつのまにか消えて東の空をみとおせば、すじをひいた雲がまだ薄紫に染まっており、やがて起きてきた夏美が「ここの朝ごはん美味しいらしいよ」とまだ判然としない口調で訴えたため、しりとりの「る」の字がためをすりぬけて時間をつぶしてから、けっきょく見たものをすぐほしがる幼児みたいな夏美の心がわりに引きずられてスターバックスのほうれんそうキッシュをまた食べ、ヴェンティサイズのコーヒーフラペチーノを紙のストローで減らしつつ、走行車線につらなるトラック以外はまだ車のすくない道を西に走った。県境を越えてすぐのインターチェンジで降りれば、海に面する崖にへばりついているのが「坂」と「路地」でしられた目的の町である。向かいには海辺にきりんのようなクレーンをならべるおおきな島があり、あいだに横たわる川のような通称「水道」を粗野な渡し船が行き交うさまがのどかで、昔のようなポンポンという音は聞こえないけれど、なつかしかった。スマホで調べてくれたイミによれば、ご当地の魚で出汁をとった醤油ラーメンが名物だという。行列ができる名店の当てがないではなかったが、スマホに顔をよせグルメサイトにきゃんきゃん騒ぐふたりの様子をみれば言い出しにくく、それに風の噂によればいまは閉店したのだったか、けっきょく帆布のかばん屋にぶらさがる大人用のかわいいランドセルに気をひかれながら商店街をそぞろ歩いたすえ、西日本で屈指のながさを誇るアーケードに疲れたのだろう、「もうここでいいじゃん」とまっさきに夏美が音をあげ、駅前のそう有名でもないらしい店に引きずりこまれた。駅舎はきれいに建替えられて、むかしのようなレトロの風情ではない。かつて雁木に大小さまざまな漁船がもやいで括られていた駅前の風景も、自転車で四国にわたれる橋が開通してから、一日がかりのながいサイクリングをたのしむ観光客の拠点となったようで、かつての煙草くさい純喫茶にかわり、いかにもリベラルな禁煙とフリーWiFiを英語でうたうsafe spaceなるオーガニックカフェがにぎわっていた。すくなくともこの町のみっつの顔をしっている。ひとつは時代もそのまま昭和であったふるい町並み。ふたつめは、この町を舞台にした映画三部作が「失われた三十年」の懐古ブームを風靡して以降、昭和らしい町並みを求めて観光客が集まるようになった時代で、これは和暦でいえば平成前半にあたる。そしてみっつめが現在、くだんの映画のリバイバルのさい、ここにベタ惚れしたはずの監督がロケ地に選ばれなかったことで明白なとおり、かつてのノスタルジーという色合いはまったく失われてしまった、平成後半または令和の、すくなくとも集客という意味で魅力はおおいにある観光の町である。田舎のまちおこしにもしも「復興」という言葉をいいあてるのであれば、ここは「成功した」と評しても間違ってないんじゃないか。時代それぞれに尺を当てたとき、ふたつめの時代がいちばんまずしく感じられた。レトロな町並みを守ろうとする人々と、現代的な町並みを進めようとする人々が、市議会や商工会議所や黎明期のインターネット掲示板上に入り乱れ、「世界遺産」がどうのこうのMS Pゴシックで絡まれれば「逝ってよし」と猫のアスキーアートに白目をむかせて喧嘩を買った時代である。前者のノスタルジーは究極的なところ、個人の自己満足にすぎない。宅配便もろくに運べないような崖沿いにいまにも崩れそうな廃墟がたちならび、いくら保全したところで、ブルーシートだらけのトタン屋根なんかどれほどのメシの種にもならないどころか、トイレですら夏場には蛆がわくようなボットンの、今時でない不便な生活だけが取り残され、あやしい観光客には軒先に干した子どもの下着の写真すらぎょうぎょうしい一眼レフに収められる。その肌感覚を知る身からすれば、いまこのようにして独り立ちした町に、それこそノスタルジーは覚えなかったものの、誇らしかった。同時にうしろぐらく、いまの自分の身を重ねてみた。すなわちロッコク堂で成し遂げようとした「復興」は、結局のところ、「忘れたくない」個人の自己満足に依存したものでしかなかったんじゃないかと、店内をところせましと占めた津波の写真や、避難所の資料、原発事故の進展をあらわした新聞記事の切り抜きを思い出す。ロッコク堂にたいする地元の反応は、好意的なものばかりではなかった。人が多くいればそれだけの意見がある、という向きは、いちおう十年以上「復興」に関わった生身でわかってはいるけれど、それでも、ロッコク堂を開いてすぐ、原発事故の避難が解除されるとともに他県ナンバーのまあたらしいジムニーでこの地をおとずれた老夫婦が、にこにこと扉をあけて外に出るさい、憑きものが取れたような顔をみあわせてつぶやいた言葉をいまも耳に焼きつかせて覚えている。いわく「やっぱり帰ってくるのは止めよう。こんな場所が残ってるようじゃ、いつまで経っても元通りになんてならない」。

「すごく美味しいですね。この味の秘密はなんですか?」

 ちゃいろいスープをしろいメラミン樹脂にあかい雷文がえがかれた丼ごと飲み干そうとしたところをイミに止められた夏美が、カウンター席にまえのめりの、下品にもれんげを差し出すグルメリポーターみたいな食いつきで、店をひとりで切り盛りしていると思われる小母さんにそう尋ねていた。正直、それほど美味しいようには思えなかったが、素材をいかす常磐ものに慣れた舌からすれば、瀬戸内の凝った味つけは珍しいのかもしれない。由緒ただしい魚出汁ラーメンの味で、いりこの焦げたような塩っ気がいささかなつかしくはあった。

「教えらんないよ」

 ぎょうざのほそながい皿を泡だらけのスポンジで磨いていた小母さんが照れ臭そうに言う。この地方らしい訛りがあった。この町もとりわけアーティストゆかりの移住者がすっかり増えたはずだが、むかしから住んでいる人なのかもしれない。そうひろい町でもないし、額にめだつ毛の生えたほくろもどこかで見たような、まさか知り合いではないだろうかと、つい顔をふせてしまう。

 夏美いわく「乙女のラーメン道」たるよくわからないものについて、小母さんとかしましい言い合いをしているあいだ、いつもなら漫才コンビのボケとツッコミよろしく取りなすイミがそっぽを向いているので、彼女の茫洋とした目線のさきを追いかけると、音は切ったまま野球の試合を中継していた。この土地らしいといおうか、片方は赤いメットにユニフォームである。マウンドに立つ左腕の投手は背番号こそ立派だが高校生みたいに線がほそいし、ホームの見晴らしがいいスタンド席ですら観客はまばらで、オープン戦かもしれない。もともと窮屈な路地を通り抜ければそこかしこの開いた窓から実況中継と野次が漏れ聞こえてくるぐらい、野球熱のたかい町で、球場の建て替えにつづくリーグの三連覇を前後しわかい女性を中心にいっそうファンは増えたと聞いている。初球は振りかぶったオーバースローから、入れにいったスローカーブ。ノーストライクからの変化球は見てくるアマチュアとちがい、狙っていたのだろう、打者のバットがヘッドを走らせる小気味いいゴルフスイングで動くとどうじに、イミの背中がびくんと跳ねた。

「あんた、野球、好きなんかい?」

 小母さんが、いよいよ刺し箸で面倒くさい夏美の絡みから逃れるように、イミに麦茶を注いだラムネ色のコップを差し出してきた。

 きゅうに話しかけられたイミはおどろいて、小母さんと俊足のバッターランナーが一塁ベースを回ったテレビと交互に目をくばったのち、

「あ、いや、この町にもbaseballがあるんだと思って」

 と、詰まりながら答えた。

 日本に来てからはチームもないし、すっかりご無沙汰になってしまったようだが、アメリカにいたころ、イミはたかく足をあげて女性らしからぬ速い球を投げるエースだった。たしか夏美と知り合ったのも、さいしょは野球場じゃなかったか。原発の事故で漁業が壊滅的な被害を受けたイミの町は、北方にあり、夏場も涼しいのを追い風にして、野球による「復興」、彼女の言葉にしたがえば「reconstruction」をはかったのだという。「かつてはbaseballがreconstructionだったこともあった」とイミが教えてくれたときの気まずそうな口調を思い出す。いまは彼女自身、べつの復興を探したいとの弁だったけれど、野球がいまも彼女のなかでおおきなウェイトを占めているのは、メロドラマを観たがる夏美に遠慮しているわけでもないだろうけれど、あまり野球の中継を観ようとはしなかったものの、まさにいまのフルカウントから決め球を投げるときのような眼差しから感じた。

 イミの容姿は多少彫りがふかいアジア人に見えなくもないし、日本語も流ちょうだから、前提がわからなければ妙ちきりんにも聞こえる返答だったが、小母さんはネイティブらしい「baseball」の発音に頓着することもなく、地域の野球愛について教えてくれた。原爆によりなにもなくなった町で、野球ができるということこそ平和であり、「復興」だった、と語られるくだり、じっと噛みつくように小母さんを見つめるイミの表情は真剣だった。毎月の給料もその日のくしゃくしゃの入場料からひねりだすぐらいひどく貧乏で、弱かった球団が、すこしずつ強くなっていく様も、また「復興」の道筋であり、大怪我から奇跡的に復活したサブマリンの速球投手が、両打ちのラストバッターを気合いのレフトフライに打ち取り、念願の初優勝を成し遂げたとき、その球団を作りあげたのは憎むべきはずのアメリカ人だった、と教えられた途端、イミは丸椅子を蹴飛ばして立ち上がり、テーブルに両手をついて、めずらしく声を張り上げた。

「探しているひとがいるんです」

 イミはぱんぱんに膨らんだリュックサックを背中から下ろすとバインダーに挟んだ資料をカウンターにひろげ、彼女が調べ上げた「夏美の子の父」について説明した。状況からすれば不審に思えるかもしれない彼女の言動も、真に迫る様子に気圧されたのか、小母さんはチャーシューを切り落とすおおきな包丁を止め、しきりにうなずきながら耳をかたむけてくれた。

「この子とfamilyになることが、私たちのとってのreconstructionなんです」

 アメリカで夏美と出会ったことや、夏美としたいくつもの草野球を話し、さいごの試合でキャッチャーを務めたという夏美がラストボールに出したサインの指のクエスチョンみたいなかたちまで真似をしながら、どうして日本に来ようと思ったのか、かつての被災地でなにを成し遂げたいか言い切って、日焼けした頬をりんごみたいに紅潮させながら、夏美の張ったおなかを触れるとともに、結末の言葉を置くと、小母さんもかつて野球選手だったんじゃないかというほど、みごとな外角低め直球で見逃し三振に取られたような表情で、花柄のアームカバーに彩られたほそい腕を組み、父親さがしの協力を約束してくれた。

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