第12話

 あさがえりの日に脈絡なく「吐け!」と問い詰められたのを思い出させるような、夏美の執拗な聞き込みによれば、移住者には警察への通報をちらつかされるなど冷淡な対応を受けるかと思えばとんだ偏見で、ほとんどの相手には煙たがられることなく、わずか残るふるくからの住人を紹介してもらえたうえ、縁側にあげてあつい枇杷茶と月餅をふるまい「はちみつとシナモンパウダーもいかが?」と勧めてくれるぐらい、親切だったという。夏美の子の父は、ここに住民票があるとのことだったが、ほかのならず者とは違い、籍を置くために利用しているのではなく、たしかに住んでいたことがあるらしい。じっさい、委員会(正確には地域振興推進委員会という)の要職らしき老婆の許可を得て鍵のかかっていない勝手口からかびくさい廃墟のなかにすべりこむと、彼の名前がひらがなで記してある埃まみれの学習帳が見つかった。つまり、どうやら彼がここに住んでいたのは、雨漏りでふやけたページに二の段と五の段だけうすく鉛筆書きされた九九がのこっているとおり、子どものころらしく、当時の彼を知る者は、ほとんどが都会に出てしまっていたものの、小学校にあった同窓会の名簿と地元出身だという校長などわずかな縁をたより、「いちばんの親友だった」という相手に電話をつないでもらった。くろい卓上電話の受話器をにぎりしめ、カールコードを逆の手で人差し指にからめながら、夏美がたどたどしく事の仔細を話すと、六本木の名がとおった大企業に勤めている彼は、思えば勤務中に電話に出てもらったわけで、さいしょはネットビジネスの売り込みを断るかのごとく「はあ」を迷惑そうな小声で連呼するか他人行儀な丁寧語だったけれど、子どもができたと教えれば、「え、あいつ、父親になるん? うそお」とうれしそうな声が電話を持ちかえたのか一瞬とおのいたのちむこうではじけた。彼がむかしどういう子だったかも教えてもらった、というより、相手がまくしたてて来たらしい。

「小学校の二年の春だったかな。越してきたんだよね。で、その学年が終わったころに出てったから、けっきょく一年ぐらいの付き合いだったんだけど。でもよく覚えてるよ。すげえいいやつだった。いまでもときどきあいつどうしてんのかな、なんて、終電でくたくたなとき、電車の窓に映る自分見たら、なぜかふっと思い出しちゃったりするんだよね。おかしいでしょ。あいつ、足がとにかく速くて、野球が得意でさ、でも勉強はできなくって、遊びに誘っても女とつるんでばっかだし、なんか不器用なやつだった。だからさ、いまどこにいても、うまくやってないとは思うんだけど、そんなとこが好きだったし、もし会えなくても、それこそ子どもとかできて、いい感じに生きててくれてたらいいなと思ってた……」

 標準語ではじまった思い出話は、ときどき興奮まじりでハスキーに嗄れた方言をふくみながら、つまることなく三十分ぐらい続いたという。一方的に聞かされたらしい夏美は、「でも、この子のお父さんが、存在するんだって分かってよかった」と、神妙な顔つきを窓の外に向けた。会話のさいご、夏美の子の父がいるかもしれない場所を教えてもらったという。彼が転校してくるまえに住んでいた場所で、産まれた土地でもあり、電話口の旧友がなつかしそうにかたるには夏休みに連れていってもらったこともあるらしく、「あいつはあそこに思い入れがあるから、いまも住んでるかもしれないね」と、いったん切って確認したのち、手帖に記録していたというかつての住所まで教えてくれた。「そこまでしてくれる友だちが彼にいたことがわかって、それだけでうれしかった」と、話すあいだ、ずっとむずかしかった表情を、夏美はやっとほころばせた。一転、「なにか伝えておいたほうがいいことはありますか?」と住所をスマホに片手で打ちおえ復唱で確認したついでに夏美が尋ねたところ、肩にはさんだ受話器のむこうでしばし耳が痛いぐらいの沈黙があり、「ごめんねって伝えておいて」という陽気な声色が一転、消え入るような返事の意味ははかりかねた。

 教えてもらった住所をナビに入力すると、車では入れない旨のエラーがまた表示され、「あいつ、どんなとこに住んでんだよ」と夏美がつくったような毒々しい声色で苦笑しつつ、身をのりだしてナビをいじり、最寄りの駅を行き先にセットした。目的地までおよそ八時間かかるらしい。休憩をふくめてもなんとかその日のうちに着くと思われ、造船所ゆかりで駅前にいまも点在するはずのビジネスホテルを検索するよう夏美にたのんだが、「それより車中泊のがよくない? 昨夜すごいたのしかった。またあれやりたい」との返答があって、反駁しようと暖簾に腕押し、結局、懲りずに連日の車中泊を張ることになった。中国地方を東西にむすぶ大動脈である山陽自動車道で、平日だったことも関係しているのか、バラ園で知られるおおきなサービスエリアの駐車場は普通車用の区画まではみだした長距離トラックで埋まり、重厚なエンジン音がフェリーの車両甲板のなかにいるようにぐわんぐわん轟いている。やっとトラックの隙間にテトリスのごとく忍びこめばわずか駐車できる場所を見つけたものの、骨までひびくようなやかましさが堪えがたく、眠ることができるのか、何度もせまいフロントシートで寝返りを打ちながらロングドライブの疲れを持て余していたところ、買い物に出かけていたらしい夏美が自分のぶんだけはっさくソフトクリームを舐めながらふてくされた表情で帰ってきた。アメリカ仕込みの中指をびっと立てていわく「とんだヘタレばかりだ。酒がノンアルしか売ってなかった」とのことである。「運転手が呑めないんだから、あるわけないだろ」と呆れながら言えば、「同乗者が呑むかもしれないじゃん」と口をとがらせたが、「いや、イミしか呑めないじゃん」と伝えたところ、「あ、そうか、わたし、妊婦だったわ!」とあっけらかんと笑うあたり、おなかは目立つくせ、どのぐらい本気なのかわからない。とにかく夏美は寝転がるなり、いつもみたいに愚にもつかない雑談を交わすことなく、すぐに地獄の釜を開けたようないびきを立てはじめた。

「気が張ってたんでしょうね」

 と、街灯がトラックのコンテナでさえぎられうすぐらい車室に、イミのひそめた笑い声がした。

 夏美は爆睡しているし、ちょうどいいタイミングだろうと、昼間イミに訊こうと思っていたことを尋ねてみた。

「イミはどのぐらいわかってるの?」

 子どもを持つこととか、子どもの父親に会いたいとか、夏美の意思はわかる。いきおいそのまま、猪突猛進なのが、夏美のいいところだ。一方イミは見るからに冷静沈着で、石橋を叩いて渡るタイプだから、石橋が崩れるよりまえに走って渡るふるいジブリ映画みたいなタイプの夏美に、よくもわるくも、押し切られているのは感じていた。もとをただせばろくに準備もできないうちから日本に来たことすら、イミの本意ではないといわないまでも、自分にだけ「the Statesに帰りたい」とアラスカの犬ぞりを観ていたときぽつりと漏らしたことがあって、あまり深刻そうでもない口調のわりにそろそろ寝ようと照明を落としていた部屋のなか、ちいさなテレビの茫漠としたひかりが瞳のしめりけを暴いて、フラストレーションを抱えていたし、いるのだろう。彼女はほんとうに子どもを持ちたいのか、子どもの父親に会いたいのか、あるいはそれ以上、この機会にたしかめておきたかった。

「それは夏美についてですか? それとも、ガッチャンについてですか?」

 イミの声は、聞きとれないぐらい低く、まさか夏美に聞こえないよう遠慮したわけでもないだろうけれど、このまま聞こえなかった振りを決めこもうと試みる。

 どこまでも卑怯なのだ。その卑怯さは転校で各地を転々とするたび熟成されたことは分かっていた。さいしょの挨拶で身をのりだした壇上から興味ぶかそうにこちらを見つめるみなに視線をかえし「僕のことはガッツくんと呼んでください。なぜなら」と咳払いとともに切り出したとき、もうすでに転校でいつか町を離れるかもしれないことは、わっと笑いをとれることとおなじぐらい分かっていた。名前と顔を一致させることと、忘れることばかり巧くなり、いいなと思う男子がいたところで、気持ちをふさぎ、誰のことも好きになれないし、誰からも好かれないことは、初恋の子に「ガッツくん」と名づけられたときから分かっていた。高校で「ガッツくんというより、ガッチャンってかんじだよね」と愁香に拾ってもらえたとき、ずっとそんなふうに言ってほしくて、ここが居場所かもしれないと感じた。愁香のあこがれるような目線のさきに海晴を見つけたとき、いつか背よりもたかい鉄棒に足を引っかけてぶらさがったときの気がとおのくようなここちよさを思い出した。だから、津波を、震災を言い訳にした自分は、とんでもなく卑怯だった。言えばよかった。震災ののち、ほんの数分だけケータイが通じていた時間がある。数分もいらなかった。秒でよかった。たった一言、愛するひとに伝えるべきだった「あ」からはじまる五文字を、なぜ口に出せなかったのか、後悔よりよっぽど、たとえ女に生まれ変わってもきっとおなじようにするくせ、それをしようがなく思ういとしい気持ちとおなじぐらい、いまも分からないでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る