第10話

 山奥のきゅうな斜面にぽつぽつと朽ちた平屋をちらす寒村は、昔からずいぶん様相を変えていた。ひとつあった病院も、当時すでに眉毛が雪でも積もったようにまっしろで、喉に「甘いチョコレートだよ」といいながら嘔吐くほどにがい薬を塗る手つきもあやしかった院長は亡くなったのだろう、ひびわれたコンクリートの壁にびっしりと網を張ったような濃緑の蔦が生え、かたむいた看板は診療時間の数字がコンマだけのこして落ち、いまは医療を受けるには週イチの往診をたよるか、ハイエースでこしらえた村のタクシーを利用するなど数時間かけて山をおりないといけないらしい。なつかしい小学校は二宮金次郎の銅像こそ雨で泣いたようにあせた跡が目立つものの、体育館やプールなどは記憶にある姿のままのこっていたが、はたして生徒はいるのか、草野球が二面あそべたひろい校庭ではゲートボール大会がひらかれている有様である。とはいえ、いわゆる「限界集落」かといえばそうでもなく、地域おこし協力隊に代表される昨今の移住ブームもあり、都会のモノ好きが越してくるかたちで人口はV字回復をはじめ、いまは住人の半分が移住者だという。町家を改造した喫茶店の引き戸を開ければ、三和土でしゅんしゅん鈍色の薬缶がうなる石油ストーブの向こう、畳のうえの炬燵に載った葉っぱつきのささやかなみかんが顔文字みたいなマジック書きの笑顔をむけて出迎えてくれるなど、手さぐりの観光事業は、「ふるいニッポンを体験できる」とインバウンドでおとずれる外国人からの人気をはくしているらしく、ブロークンな英語ばかりならぶ星いつつのGoogleレビューにも窺い知る。いまは石積みの堤防がくずれかけた小川ぞいの梅花ぐらいしか見どころがないが、しばらくするとそこかしこで卒業式にまにあうぐらい早かった山桜がささやかな花弁をひろげ、田植えの時期になれば集落でいちばんおおきな柿の木のうえからみおろす鏡張りの棚田をながれる綿雲がフィルム映画のように美しいはずだ。

 小学校のひろい砂地の駐車場でフロントシートをたおし、標高があるから多少さむいものの、エンジンをかけてエアコンを効かせることもなく、グローブボックスに入っていた原書の「The Catcher in the Rye」のペーパーバックを顔のうえにひろげ寝転がり、どうにもかんばしくない眠気をまぎらわせていると、春の陽気をあびて次第に熱気がこもりはじめた車内でわきのしたに汗がにじみはじめたころ、うなだれた夏美とイミが帰ってきて、後部座席でちいさくなり、聞き込みの顛末を教えてくれた。

 やはり夏美の子の父がここに住んでいるのは間違いないらしい。が、正確には「住民票がある」といういいかたが正しく、住所に充てられていたのはとっくに打ち捨てられた廃墟だった。いわく、この土地の物件は値段がフルオプションのミニバンよりよっぽど安いそうで、維持費も修繕をするのでなければ、固定資産税も安く抑えられるため、とりあえずの住所を得るべくここで住民票を取っている人間は少なくないらしい。ということはつまり、夏美の子の父は、脛に疵がある輩の可能性がたかいということで、夏美ももとは中島らもとダウンタウンで名のとおった関西の下町そだち、ものしらずな顔ながら「アイス手押し」の意味がわかるぐらい、裏社会に鼻がきくし、あるいはいじわるを言われたのか、そのことを話す声色は暗かった。

「わたし、やっぱもうちょっと調べてくる!」

 夏美はそう言うやいなや、おおきく開けっ放しにしたドアを揺らしたまま、ころがるように坂を登っていってしまった。

「夏美!」

 イミの叫びがむなしく山村にこだまし、電動化した郵政カブの甲高いクラクションに混じって消えたあと、とおくから砂をこぼすように流れる小川の音だけが聞こえてきた。

「……ちょっと歩く?」

 近所で火事があればスマホ片手に飛びだしていくときよりよっぽど勇ましい夏美のあの勢いなら、しばらく帰ってこないだろう。そう促すと、ルームミラーごしでもわかるぐらい眉間にはっきりしわを寄せたイミが、こくんと頷いた。

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