第8話

「聞いてる? ガッチャン」

 その日も夏美とイミが呑みに来ていた。といっても夏美が飲むのはもちろんジュースだが、「あんたたちの酔いがわたしの酔いだから」と杯を注がれるかたちで、呑む量はいっそう増えた。夏美の服装がミニのタイトスカートからワンピースなどゆったりしたものに変わり、おなかはイミが貼った黒白パンダのアップリケもわらってみえるぐらい、すこし膨らんできた気がする。もう七ヶ月。震災からは十五年が経ち、いよいよ復興が本格化した駅前の桜並木で、撮ったばかりのスナップ写真が壁にピン留めされている。記録にのこそうと、震災直後、撮りはじめたころはバリケードで封鎖され、背景にはあおい空とカラスすら止まらない電線しかなかったが、BEVに進化したプリウスが行儀よくフロントグリルにふといケーブルをつながれて充電中のアパートだとか、ひろい駐車場でおしゃれなニット帽の若者が缶ビール片手に積み木みたいなおでんを手づから食むコンビニも映りこむようになってきた。

 酔いがまわった頭で、夏美のいつもより要点がさだまった話を聞く。卒業論文についてだった。一年前にひらかれた社会学のゼミでは、彼女が望んでこの被災した地に越してきたとおり、「復興」を学んでいるのだという。新学期がはじまれば、すぐに卒業論文の課題を設定しないといけないらしいが、夏美のなかでは迷いがあり、それの解決に春休みを充てたいらしかった。これまで単位が取れていなかったため、「家ではイミがかわいすぎて捗らない」と目をハートにしてうったえ泊まりでうちの卓袱台に本をつみあげるなど、お菓子の空箱でふくらんだゴミ袋からして一杯一杯だったテスト期間も、卒業論文をのぞけば必要な単位をひとつのこらず取ってしまうという完勝におわり、もともと医薬系以外なら旧帝大が視野に入っておりこんな田舎の大学を受けたのが不思議なぐらい優秀な子だから、休みのあいだも開館から閉館までみっちり大学だとか震災関係の資料が充実した町の図書館に通いつめていたが、いわく「なにも成果が得られない」と頭を抱えおおきく溜息を漏らすままながい春休みも半分をすぎ、暖房がいらなくなった晴れの日は窓をあければ春嵐がむせるような花の香りを立ち上らせる。院にすすむイミとちがって、就職する夏美のばあい、「卒論は出せばかたちだけの諮問があってさよなら」らしいけれど、真面目に取り組むのはさすが、「不真面目に震災と向き合いたい」が来てすぐの口癖だった彼女らしい。

「まあ、復興なんてやり尽くされてるからな」

 判然としない舌先でそう答えた。答えられてしまうほどに、それは当たりまえの事実だった。津波に被災した場所にはあたらしい家が建ちならび、見あげるぐらいたかい防潮堤がそびえ、ひろびろとした防災緑地に植わる水墨画で描いたようなクロマツも負けじと背を伸ばしている。原発の被害だって、廃炉となれば三十年だか四十年だかまともな見通しが立たないけれど、避難指示はほぼ解除され、線量がのこる土地は中間貯蔵施設として有効利用されているし、それに線量自体、原発の敷地内でもいまだ燃料デブリが残る一号機と二号機の原子炉建屋内を除けば防護服なしで歩けてしまう。ALPSでトリチウム以外を除去した処理水の海洋放出はとっくに始まり、最初こそ政治的な緊迫状態にある隣国を中心に輸入制限などの反発があったものの、もとよりポジショントークでありIAEAお墨付きの科学的な信頼性をうたがうものは多くなかっただろう、風評被害の影響は限定的で、むしろ数字が厳密にモニタリングされているこの地の海の魚はよっぽど安全である事実が周知されたことや、しばらく漁が行われていないうちに海洋資源が豊かになったこともあり、通常操業がはじまるとさっそく芸能人がグルメ番組の収録で魚市場の食べあるきに訪れたり、豊洲を経由する高級料亭からの注文に引きずられるかたちで「常磐もの」ブランドは震災前より高い値がつくようになった。なるほど、かつての避難指示区域には、いまも住人が戻っておらず、廃屋が並んでいるのもわかる。が、それは勾配のきつい賃金格差にひきずられ都市圏への人口集中が加速しているいま、日本の田舎がどこも抱えている問題が顕在化しただけで、いまさら震災の影響を唱えるのは理にあわない。総括すれば、「復興はすでに終わっている」という見方もそれほど的を外れてはいないだろう。もちろん、新たな問題はいくつもある。しかし、それは復興とべつの文脈で捉えるべきアプローチがすでに主流となっており、まだ夏美にもイミにも言っていないけれど、自分だってそうとおくなくロッコク堂を畳むことを考えはじめている。もういいのではないか。

 夏美は紙巻きストローで百パーセントのオレンジジュースをこくんと飲み干したあと、ぬれたくちびるを三日月のかたちにゆるめ、すずらんが刺繍された裾がめくれないようそっと片膝をたてて壁に背中をあずけると、うんうん頷いた。

「ここに来てもう五年になるけど、年々、復興とはなんなのか、捉えるのがむずかしくなってる。やりがいあるよ」

 もえるような目に気圧されそうになる。父の海晴は荒天に変わった船上ですらいつもやわらかい眼差しで、こんな目をしたことがなかった。愁香だ。自分の知るかぎり、愁香は夏美を産むことに後ろ向きだった。妊娠がわかり、いくつもの夜を一緒にすごし、泣いたり、怒ったり、おなかに夏美がいるにもかかわらずコップ一杯のビールを煽った刹那、加減しながらも愁香の頬を張って「俺だって海晴との子が欲しかった」と自分勝手な告白を呑み込めば、わかったのかわかってないのか「ごめんね」と産むことを決意したときの愁香のうるんだ目が、ちょうどこんな色合いではなかったか。

「夏美にはわかる? 復興ってなんなのか」

 そう尋ねた。ずるい質問だと思った。

 夏美は切り揃えた髪の束を指先でいじりながら、なかなか答えなかった。答えが決まっていながら言い出せないときにみせる仕草だった。対戦型の野球ゲームをあそんだとき、夏美が全力のストレートを投げるまえにみせる癖だからわかりやすく、そんなときはいまはカンザスシティにいる朗希の高め速球だろうと覚醒した根尾の強振でバンテリンドームのライトスタンド上段に放りこんでやった。

「お待たせ、夏美、ガッチャン」

 おもい沈黙をきりさくような声が聞こえ、イミが皿いっぱいに切り落とした小麦色のいぶりがっこを、鼻歌とともにもこもこのスリッパを滑らせるかろやかな足取りで運んできた。大吟醸なんかのあまい酒とあわせて呑むときはコンビニで買ったちょっと高いクリームチーズなんかを入道雲みたいに盛ったりもするのだが、夏美が好む地酒は飲みやすいかわり辛めであったため、ツマミは濃い味のほうが相性がいい。

「イミはわかる? 復興ってなんなのか」

 夏美がさっそくいぶりがっこを素手でつまみながら、もう片方の手でドンキのあかいハート型をしたクッションを抱えると正座をととのえて、そう水を向けた。

「廃炉のことですよ」

 理系のイミはあっさりそう答え、なれた手酌でお猪口をみたした。ロボティクスを専攻しており、大学のシミュレーションでは燃料デブリを採取する実験を行ったこともあるという。大学と密接な関係のあるイノベーション・コースト構想では、「廃炉」が最終的な目標として挙げられているため、このままイミが院だとか研究機関にすすめば、彼女のいうとおり、「廃炉」を人生の仕事として取り組むことになる。

 夏美は、うなずいているとも、首をかしげているとも、とれない仕草でかたちのいい頭をゆさぶったのち、

「廃炉を卒論のテーマにしたらいいのかな?」

 と、いつも器用なわりにイミが急いで切ったのか、いぶりがっこの特大のひときれを咥えさせてきた。

「夏美の復興と、私の復興は、違うと思いますよ」

 いぶりがっこを奥歯で噛みしめているうち、イミが夏美のちいさな頭を犬みたいになでまわしながら、代わりにそう答えた。自分でもおなじように答えただろうと思うが、おそらくイミのそれとニュアンスが変わる。すなわちいまとなっては、たしなめるようにそう口にしたイミのほうがよっぽど当事者だった。

 六畳ぐらいの狭い部屋の、万年床がしかれた片隅に、いぶりがっこを噛む音と、ときおり酒をすする音だけがひくく響いた。おそらくそれぞれがそれぞれの「復興」に思いを馳せていた。自分にとってのそれだけが、逃げたくなるぐらい不誠実だった。いま思う、自分にとっての「復興」は、「海晴が帰ってくること」だ。その思いつきを酔いのせいにして、逃げだしたかった。

「ガッチャン、あした時間ある?」

 肉感のある太もものうえでぎゅっと両手の人差し指をからめた夏美が、おもむろに視線をなげ、そう尋ねてきた。どこかで見たような、やさしい眼差しだった。

「あるよ」

 即座にそう答えた。ロッコク堂の定休日は土日である。あしたが何曜だったか、にわかに思い出せないが、どっちにしろ休みにするつもりだった。滞納した家賃の支払いを迫られていたため、できれば銀行の開いていない土日であってほしい、ぐらいの願いはあったけれど。

「あしたのあしたは?」

 夏美は卓袱台のうえに身を乗り出し、さらに追いすがる。

「あるけど」

 ゆさりと載ったメロンのような乳房も心なしか大きくなったんじゃないか、部屋ではシャツに乳首が浮くのも気にしないまま過ごすことも多かったが、ちゃんとブラジャーを着けるようになったぶん目立つ白桃色の谷間に見ないふりをしながら、めんどうくさそうに答えると、夏美の、

「あしたのあしたのあしたのあしたのあしたは?」

 と、どこか焦っているような早口がつづいた。

「夏美」

 とがめるように、イミが言い、夏美の手首をかたく掴んだ。ふたりの間ではすでに示し合わせた事項らしかった。

「ごめん、イミ。もう決めた」

 夏美がぐいとあごをあげて、はねつけるような口調で言う。ファミレスでは「トゥービーオアノットトゥービー」と唱えながら優柔不断にメニューをころころ変えるし、将棋をすれば「今のなし!」と王手飛車取りの角打ちを戻させるくせ、大事な局面になると、いちど決めたことはけして譲らないのが夏美だ。彼女の父も、母も、そうだった。

「なに?」

 うつろな目で、そう尋ね、困ったような下がり眉のイミと、口元をぎゅっと結んだ夏美を、見比べる。

 夏美は床からスマホをひろい、こちらからよく見えるよう卓袱台のうえに置いて、妊娠前まではキキララのパステルカラーだったネイルのおちている人差し指で指紋認証したのち地図のアプリを起動させた。すぐにGPS取得の現在地が表示されたが、たしたしと数タップしてお気に入り登録された地点が選択されると、ズームアウトした地図は名古屋あたりから伊勢湾をはさんで本州の南端に移動し、ふたたびズームインして、県境から内陸に奥まった場所にまぬけなピンが立った。しらない場所ではなかった。

「ガッチャン、ここに連れてって」

 断われるはずもなかった。断ったところで夏美が聞く耳を持っていないことも、これまでどおり彼女の意思をいかんともしがたいことも、わかっていたが、それ以上、そこに行く責任が自分に課せられていることを、誰より自分がいちばんわかっていた。

「ここはどこなの?」

 知りたいのはほんとうにそれだったか、無垢をよそおってたずねれば、夏美は呑んでいないにもかかわらず、しろい頬を紅潮させ、おおきくうなずくと、唾をとばしながら言った。

「イミに調べてもらったの。ここに、おなかの子どもの父親がいるんだって」

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