第6話

「精子バンク?」

 耳慣れない言葉ではなかったけれど、韓流アイドルの話からどうしてそこに不時着するのか、いつもの脈絡のなさとはいえ、拍子ぬかれて声を荒げてしまった。手元にあった酒を口につけようとしたが、夏美とイミを車で送っていく必要があったことを思い出し、すんでのところで堪える。その仕草がおかしかったようで、日焼けした頬をほんのりさくらんぼ色に染めたイミが横座りで「そういうの、藪からstickって言うんですよね」とひらいた手で口元をかくしカラカラ笑った。この子は電子書籍でBLの二次創作を読めば「解釈の不一致」とかまびすしく批評をならべるぐらい日本語が達者なくせ、ときどき英語の混じり方が雛壇の外国人芸人みたいにおかしい。パジャマ用に置いてあるねずみ色のジャージをスカートのしたに履くと正面にあぐらを組んだ夏美はうれしそうに微笑んで、ぐい呑み一杯をほとんど秒で飲み干したのち、なにかまぎらすかのごとく卓袱台に叩きつけると、満ち足りたようなふかい吐息とともに頷いた。顔があかくなるのはてれくさいときの癖で、酔ったわけではないらしい。知るかぎり、夏美が酔いつぶれたことは一度もなく、母の愁香からも「酔わせていいことをしようとした大学のチャラ男をサークルの一気飲み合戦で病院おくりにしポコチンに管をとおさせた武勇伝」などを宝島社あたりから本を出せそうなぐらいいくつか聞かされている。いわく、「あの子は父親をはやくに亡くしたからか、男を理想化しすぎというか、ちょっとミサンドリーの気がある」とそう深刻そうにでもなく聞かされた言葉を、「精子バンク」の告白に重ねてみたりした。

「うん、そろそろ、子どもが欲しいな、と思って」

 誕生日にクロエのイアリングをねだってきたときのような、あかるい口調のいっぽう、夏美のおおきな栗色の瞳は、思いつめたかのように据わっていた。そろそろという年でもないだろう、お前まだ大学生だろ、という返事を日本酒がわりのジンジャエールごと呑み込むが、いかにも理解のないおじさんだし、イミが持ってきてくれたアラスカ由来の琥珀水は舌の根がいたくなるぐらい辛く、あるいは口に合わなかったのは別のなんだろう、嘔吐きそうになった。

 一本気なところは父の海晴に似たのか。奔放なところは母の愁香に似たのか。どっちも好きだったことを思い出せば、かれらにたいしそうであったように、とことん愛着ばかり受容をうながして、いよいよいえる言葉もない。

 円安が下り階段の踊り場という小康状態にあるいま、左寄りの野党第一党がLGBTをイシュー化した国会で、すったもんだの議論がされている同性婚が法制化されたとしても、たしかに、生物学的な「同性カップルがいかに子どもを持つか」という問題はのこる。男性カップルならば、自分自身がまだ若く前向きだったころ、しろい犬がはねまわる庭付き一戸建てのしあわせな家族を妄想したこともあるとおり、子どもの人権の根拠を「まともな」父と母に求める社会が許すかはさておき、養子一択だろう。なるほど女性カップルであれば、精子の入手先さえどうにかすれば、片方が孕むというレシピはよっぽど自然にまな板をかざる。相方の親族の精子をもらって血縁的にはそう遠くない子を産む話は聞いたことがあったし、「精子バンク」という手段についても、海外では意識のたかい国なら、ベンディングマシーンでコーラを買うぐらい、とまでは言わないにしても、事情が許せば婦人科でカトリックの堕胎よりもすんなり話がとおるだろう。政権与党からして選択的夫婦別姓にすら後ろ向きであり、リベラル的に後進国である日本の、とりわけ田舎では、いまだ家父長制のねづよい世間の理解ふくめ、少々ハードルが高いようにも思うけれど、震災だとか原発の影響といえばよくもわるくも、ソーラーパネルが空き地を埋める一丁目一番地は先進的な考えをした住人が多く、個人的な思い入れがある自分より、ずっと素直に受け入れてもらえるのかもしれない。

「どっちが産むつもり?」

 ずいぶんセンシティブな話題だな、と舌を針金でも入ったようにこわばらせつつ、腹をわった会話をするのはふたりの性感帯を聞いてもないのに教えられたぐらい珍しくないので、酔ってもいないけれど酔ったような勢いのまま、尋ねてみた。「ふたりとも産む」選択もなくはないだろうが、まだ学生であり仕送りを断って奨学金とともにバイトで自活しているふたりの経済状況からみても、産みの母になるのは片方だけだろう。それは関係の非対称性をあらわしているように感じられた。自身も男性の同性愛者として、旅先のゲイタウンで行きずりの情事にふけったときなど、あらい息でギンギンのそれにコンドームを着けながら、蠱惑的に収縮するくろずんだアスタリスクを見つめ、つまり行為における肉体の非対称性をおもんぱかったことがある。どういうふうにするのか、夏美とイミが酒席でおふざけ半分に着衣のまま真似をしてくれたことがあり、女性の行為は凹凸がないんだな、といやはや腑に落ちてうなずけばバリタチなのに切り落としたくなるぐらい、まっとうに向かい合える関係がうらやましかったこともあった。が、いま、「子を持つ」という肉体的な行為においては、男性より女性のほうがよっぽど非対称なのだと知る。禁欲的な宗教の文脈で禁じられるぐらい、ときに自由で奔放なイメージを持たれることもある同性愛だが、「ゲイ」の語源からして間違ってないのだろうけども、けっきょくのところ、愛が愛である以上、異性的でしかありえない落胆は、酔い潰れて皮をかぶった下半身をはだけたまま便器にすがりつくぐらい、ずいぶんまえからひとり酒のまずい肴だった。

「わたしが産むよ。だって彼氏にもらう精子だし」

 人差し指と中指の間からえびぞりの親指を立てて「いえーい」と元気いっぱいの夏美の返答に、しびれをきらして座りなおした正座のまま跳ねそうになるぐらい、ぎくりとする。こっちに来るずっとまえから続いている「彼氏」の話は耳が腫れるんじゃないかというほど聞かされていた。とはいえイミと付き合っているわけだし、夏美は見た目からして「チョロい」と誤解されやすいが、わずかにいる男ともだちとふたりきりの呑みはもちろんカフェに入ることもないなど、両親に似て、身が堅く古風なところがあり、ポリアモリーなんてはやりの概念も「なにそれアボリジニーの仲間?」と小気味いいブーメランの仕草で意に介さない。つまり「彼氏」は同い年の女子大生がブランド物のかばんを指して得意げに口にするようなわかりやすい意味での「彼氏」ではないのである。「インスタグラム」(彼女らは略して「インスタ」と呼ぶ。三文字ぐらい略さずに発声すればいいのにと思うこともある)という、画像媒体の投稿をメインにした今どきのSNSがあり、そこで繋がっている相手ということらしかった。酒がはいるとだいたい彼の話題になるので、暑いぐらいしなだれかかってくる夏美にスマホを握らされ、彼の投稿をとくいげに見せつけられたことも数え切れないぐらいある。旅をしながら各地で写真を撮るアマチュア写真家らしく、白抜きの手書き文字で添えたへたくそな英語は鼻につくし、しょせんスマホのカメラで収めた写真もあざとい加工ばかり巧く、教科書どおりのわかりやすすぎる構図だとか、目を惹くように思わなかったが、「このひとがわたしの誇り」と夏美は嬉々としてかたり、アカウントをフォローするよう、夏美の誕生日にパスワードを設定させられたスマホを奪われかけたが、「インスタグラムはやってない」と慌ててらんぼうな手を酒くさい息ごと振り払った。なるほど夏美はその「彼氏」にイミとは別の次元で、つまり恋だの愛だのよりよっぽど、執心しているらしいとわかったが、そもそも会ったことのない相手を「彼氏」と呼んでいいのか、すくなくとも彼の撮った写真を見ているときの夏美のうるんだ瞳は夢みる少女のそれで、現代風にいえば「推し」みたいなものかもしれないが、わらっていない口元はよっぽど切実に見え、へんに揶揄するのもためらわれた。

「精子もらうって言っても、彼氏さんに会ったこともないのに、無理でしょ?」

 つい毒気のある口調を察せられたのか、ずっと話を聞いていたイミが、気の利く彼女らしい自然な所作で、きんいろの水がすりきれで入ったお猪口を差し出してきた。ええい、とばかりに飲み干す。まさか呑むかどうか賭けてたんじゃないのか、夏美が「えー」とあきれたように拍手をしてきた。もう車は運転できなくなるけれど、ずいぶん夜も更けたし、夏美とイミが泊まっていくのはかわいらしい歯ブラシや乳液がユニットバスの洗面台をいろどるぐらいめずらしくなく、来るなり明日は午後からフランス語の講義にいく相談をかわしていた彼女らもそのつもりなのだろう。飲酒運転なんて、検問など都会の話だし、中学のころからタールのきつい煙草を吸っていた身としては、いよいよ罪の意識がうすかった。なるほど県境で関東にせっする南の繁華街に出れば、夜の駅前にはタクシーよりよっぽど多く代行の車がならび、地方の町といえど「もうそういう時代じゃない」のだろう。その云い方がさびしかった。時代はどうなろうとも、自分は変わりたくなく、泥酔したあげく暗闇の縁石に原付を乗り上げて派手に転び、レジンの前歯を入れてあごを縫う怪我をしても、意地のように飲酒運転をつづけたが、震災ののち、車をはしらせて飲み屋に行っても、ジンジャエールしか頼めなくなってしまった。酒の呑み方がかわった。我をうしなうような自暴自棄な呑み方はしなくなった。でもこの夜だけはぐずぐずに酔い潰れたい。夏美を見ていると、彼女の父親を思い出す。彼に介抱してもらった夜が、喉に二本指をつっこんで吐かせてくれたあと口元をよく揉んだトイレットペーパーでぬぐってくれたり、すばらしく豊かだったことを思い出す。たぶん自分は、海晴のかわりとして夏美を見ているのだろう。そんなことも、わかってた。

「それがさあ写真って位置情報あるじゃんダウンロードしてスーパーエンジニアのイミちゃんにクラックしてもらおうとしたけどインスタってダウンロードできないのね推しとかクラウドいっぱいにスクショしてるんだけどそっちだと位置情報のこんないしでもそこはさすがエロエロのアイコラも首のつなぎ目わかんないぐらいハイクオリティで作ってくれるギークのイミ大先生というか写真に映りこんでる電柱なんかでも意外と位置の特定はできるわけで彼氏はあちこちで写真を撮ってるんだけど写真の場所をむすべばそれが神の魔法陣で」

 おおげさな身ぶりとともにぺらぺら喋る夏美を制し、イミが理系らしくプレゼンみたいに両手をかざしながら、ととのった言い回しで説明してくれた。

 その「彼氏」がインスタグラムに掲載していた画像が数百枚あり、映っている場所の特定は、ストリートビューの潤沢なビッグデータをベースにAIで解析してくれるアプリを活用すれば、そうむずかしくなくできるのだという。ほとんどが旅先で撮られた写真だったが、プロットした場所のおおまかな緯度と経度を節点としてグラフに落とせば、あわせて投稿された字句による関係度の重みづけで住んでいるだろう町のみとおしも丁目までついた。極めつけは、「彼氏」が精子バンクに登録したむねのポストである。もちろんこれらをむすびつけるのは、「ちょっと敷居が高かった」とはにかんだイミの弁だが、「地獄の沙汰次第」とよく知ってるなというこむずかしい言い回しで、「彼氏」の精子を特定したことを教えてくれた。アメリカのそうメジャーでない精子バンクを使用していたことも追い風となったようだ。世界第二位の大国として一帯一路に勢力を伸ばす中国といった旧共産圏との摩擦が懸念されるいま、国防省の音頭とりでセキュリティが「親の敵のように」見直されているアメリカだが、GAFAのような大手じゃないそこらの民間ともなると様相がちがうという。アメリカのネットワーク系インフラをよく知るイミからすれば「お茶の子さいさい」で、夏美の「彼氏」の個人データを抜くことができ、ひもづけられた精子情報を得たということだった。

 ずいぶんおそろしい時代だな、と唸る。クラウドというのもなんなのか、せいぜいワードとエクセルしか使わず、ブラウザならスマホを手に取ることのほうが多いほどくわしくないし、あまり意識したことはなかったけれど、なんでもネットワークにつながっている現状、ふとすれば前立腺によわい性癖まで丸裸じゃないか。いや、げにおそろしいのはイミの技術か。「ロッコク堂のウェブサイトが欲しい」と仕事の休憩中にお茶受けがわりで漏らしたところ、メルカリで基板やら筐体やらカラフルなケーブル類やらを右から左で取り寄せればサーバというものものしい鉄の箱をこしらえ、もじどおり一晩で凝ったグラフィックがぬるぬる動く大企業ばりのウェブサイトを作ってくれたのもイミだった。当時は「工学部生だけあって、頼りになるなあ」ぐらいにしか感じてなかったが、定期的にドライバーの先端が百種類ぐらい入った工具箱を持ち込み「脆弱性のerrataが発行されたから」「ディスクのSMARTからするとそろそろ交換時期だから」とメンテナンスしてくれて、落雷で短時間のブラックアウトが起きたときすらサーバだけはしぶとく生き残ったし、ひょっとすると道楽でやってるような個人店には勿体ないぐらいとんでもなく高度なシステムを作ってくれてるんじゃないか、なぜか夏美の自慢によれば学部生なのにイミの論文がしばしば国際学会の査読を通っているのも異例なことらしく、ぜったい敵には回さないようにしよう、と正面で無邪気に微笑むイミに薄ら寒さをかんじながら、心に決めた。

 ただアメリカの精子バンクを利用するとなると、受精のほうはすこし煩雑らしい。まず、アメリカに行く必要がある。前期と後期にわかれている大学の課程は、あいだの休みが二ヶ月程度あり、夏と春のそれを利用して受精をこころみるとのことだったが、排卵日および年度明けには就活や卒論が本格化することを考慮すれば、チャンスはほんの数回しかない。いちおう、イミがアメリカで懇意にしていた医者がおり、保険がきかないにしても、わるくない便宜を図ってくれるし、すでにLCCの当てはあり、住処もロサンゼルスにあるイミの実家が使えるということで、「このために貯めていた」というふたりの通帳の数字からすれば、「彼氏」の精子の値段がいちばん下のFランクということもあり(通常ルートでは買えないSとPをのぞけば、Aは誰もが名を知る芸能人クラスで、あとは年収や職種や学歴によって決まり、とくに有色人種は相場よりワンランク下がるという、好感のあったメルティングポットの国とはおもえないシビアな現実である)、実際上はすくなくとも無理のない話であった。

「もし子どもができなかったらどうすんの?」

 はやくも回りはじめた酒精のせいにして、そう尋ねてみた。夏美も三年生、そろそろモラトリアムを巣立ち責任をかかえた社会人になる靴音が近づきはじめているのだと、将来をかたるとき声がひくくなる言葉尻に感じていた。そのいくつかは「復興」の色をはっきり意思のつよそうな眼差しに宿らせていた。成人式で振り袖を選ぶのに付き合ったのが昨日のことに思えるような、まだおよそハタチ。たとえば「復興」の必要条件なのか十分条件なのか、「廃炉」を取るならば、三十年以上かかるというそれも、夏美にはじゅうぶんな時間が残されている。いっぽう「彼氏」と子どもをつくる行為に与えられた時間はわずかしかなく、はたして切実といえるのか、自分は子どもをつくる意思などもったことがないといえば嘘になるが、なおさら薄情なもので、いじわるい口調になった。自分は海晴では、父親ではないのだから、という割り切りで夏美とは接していた。じゃあどんな関係といえるのか、親子でなければ恋人であるはずもなく友人という言い当てもそぐわないそれを、酔いに任せておなじタオルケットを分け合いながら手をつないで寝入ることもあったくせ、わからないでいる。

「子どもできなかったらあきらめるよ」

 決まってんじゃん、ぐらいのいきおいで、いたずらっぽく桃色の舌をのぞかせた。いよいよ切実なのかなんなのか、わからない。

 四合瓶はあっというまに空いた。呑みたりないのはみなおなじ様相で、「やっぱり一升瓶にしとけばよかったじゃん」と罵られながら、誰がいちおう徒歩五分ぐらいのところにあって意外と酒が充実しているコンビニまで買いにいくかじゃんけんしたところ、夏美のパー出しの一発負けを「負けたひとが行くとは言ってない」とそのまま手のひらをかえすごとくしらじらしい口調でなかったことにされ、「夜中に女子ひとりが出かけるなんてありえない」といえば当を得ているけれどそれならじゃんけんしなければよかったんじゃないか、つまり負ける相手はひとりしか想定していないわけで、仕方なく買ってきてあげたロングのストロング系チューハイ三本と、飲みさしのやすい赤ワインもさきをあらそうように空にした。気分がわるくなったのは、ちゃんぽんしたからなのか、アテがなかったからか、そうでなかったら何故だろう。夏美とイミのなにかをごまかすような「きのこの山とたけのこの里はどっちか受けか」なんていうどうでもいい会話に耳を傾けながら、きづけば畳のうえに崩れるように、寝てしまっていた。うすくまぶたを開けば、海の底のようにあおみがかった部屋はくらく、カーテンの隙間からましろい街灯のあかりが歪なおうぎ形のスリットを引いていた。目のまえには、ゆるく上下する夏美のまるい肩があった。上着を脱いだのか、すべりおちた肩紐がメビウスの輪みたいに捻れたキャミソール一枚で、呑みすぎたのかもしれない、みだれ髪のすきまからのぞく、夜の森みたいなさくら色にほてったうなじに、うらわかく張りのある肌が汗の球をぶつぶつと浮かせていて、いたずらな指先でなぞりたくなった。

「起きてる?」

 そう声をかけると、返事なのか、ん、と唸るとともに、さそうような手が床にすべりおちた。

 左手の薬指にめだつあおいゆびわに、ぐっと生唾をのみこむ。尋ねたかったのはなんだろう。すなわち子どもをつくりたい彼女にたしかめたかったのはなんだろう。わずかな距離、手をのばすことができないように、それはけっして触れられないように感じながら、この夜だけは、ゆるされるのだと思いたかった。

「おまえ、処女だろ?」

 やっとのことで声をはっすると、そのまま泣きそうになった。

 夏美から返事はなかった。そのことが返事だと思った。うっすら聞こえる寝息はイミのそれだった。やがてゆっくりと意識がおちた。夢をみた。海沿いの、さびたブリキの風見鶏がからから潮風でまわる白木のログハウスで、夏美とイミが暮らしていた。やわらかい光がレースカーテンごしにひろがる窓辺、おおきなボタンの目をしたくろい革張りの犬のぬいぐるみが並ぶゆりかごのなかで、自分によく似たへちゃむくれの赤子がふたり、しゃっくりを堪えるように泣いていた。おくるみに縫いつけられたあおときいろのリボンを見るかぎり、どちらも女の子だろうか。きもちよく晴れた海は凪ぎ、くろがねのフナムシがそぞろあるく岸壁で、釣った魚をポリバケツ一杯にあおびかりした腹をおどらせて持ち帰る。扉を開けるまえ、誰かに「ガッチャン」と呼ばれた気がして、まぶしそうに振り返る。「お前、女子にすぐガッツくから、ガッツくんな」といつか好きだった子の声がした。幸せってなんだろう。お前にはわかるのか、海晴……。陸にとりのこされた人々は、そのことを問われ続けている気がする。すなわちそれは「復興」のありかたを問われているにほかならず、ぎゃくに考えれば、「復興」とはすなわち「幸せになること」だという承前にくやしくなる。

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