第5話

 あおい稲がいっせいに手を振るかのごとくゆれる水田のしずけさを、パカパカ乾いた音でまぎらせながら、スーパーカブでロッコクを南下する。シーベルトの数字がデジタルに刻まれた電光掲示板をくぐり、火発のたかい煙突をまぶしそうに見あげて、坂をのぼり、観光客でにぎわう道の駅をすぎ、また坂をくだって、「ここから津波浸水区域」のゴシック体に息を呑めば、もともとフルスロットルだったはずの右手にきゅっと力がはいった。

 クラッチと体勢をおとし往来のすくない交差点を右折のウィンカーとともに曲がって、路傍に行儀よくならぶ広葉樹をくぐれば、平面の駐車場がだだっぴろいショッピングモールに吸いこまれる。避難指示が解除されると、駅のまわりの呑み屋街に人の足が戻るよりはやく、郊外型のショッピングモールが各地で復興の起点となった。年に一回、あの日に仮設されるパイプテントのした、背筋をぴんと伸ばした喪服の男女にまもられる献花台が色とりどりの花にあふれることをのぞけば、地方によくあるようなショッピングモールである。そしておなじような地方がすべからくそうであるとおり、生活の基盤が戻るとともに、見舞金は打ち切られ、みなが自活することを求められるようになった。

 よく冷房のきいた美しいショッピングモールを歩いていると、復興とはなんなのか、笑顔の親子連れとすれ違ったときなど、幼女の手にマーブル色のチョコレートに彩られた少女ヒロインの変身スティックを見つければ、「ちょっと待てよ」と絡みたくなる。もともと炭鉱で生活をなりたたせていた町も、閉山とともに原発に頼らざるを得なかったぐらい、いちじるしく体力に欠けていた。そんな自分らを「ひとりだち」させることが復興なら、まさしく自己責任の時代、ひどく残酷なものを感じてしまうけれど、自分もふくめ見舞金をもらって働くことをやめた者が多くいるように、支えてもらうままでいいはずもない。ずいぶんむかし、いま思えば日教組の影響で道徳に力を入れていた田舎の小学校があり、そこで黒板におおきく書かれた「人という字は支えあってできている」は、もともと鼻白むような美辞麗句に感じられたが、すっかり一時期はやった「多様性」と手をとりあって死語と化したのだろう。

 いわば「震災」だけでなく「震災後」すらもう終わろうとしているのだ。懊悩ともいえない懊悩もかんばしくないまま、地元でとれた瑞々しいきゅうりを値段や形と相談しながらカゴに放りこんでいたところ、肩をぽんと叩かれ、ふりかえれば、にゅっと差し出された人差し指の三角にとがった爪が無精ひげだらけのほっぺに突き刺さった。

「おっす、ガッチャン!」

 そんなにおかしい顔だったのか、腹を抱えてけらけら笑う夏美が立っていた。

 ガッチャンと呼ばれだしたのは、高校に入ってからだったか。それまでは「女の子にすぐガッツくからガッツくん」と呼ばれていた。転校するたび、持って回ったような第一声の「僕のことはガッツくんと呼んでください。なぜなら」が、まだ真面目そうだった風貌とのギャップも手伝い、絶妙にウケを取れるくだりとなった。中学に入り、現場主義の堅物で上司の受けがわるかった父親に、周りから遅れてささやかな役職がついたころ、やっと転校が落ち着いたのだが、しばらくは仲間うちで「ガッツくん」と呼ばれ、男子たちにはからかい半分で親しまれたけれど、はやい思春期をむかえた女子たちには毛虫のように疎まれつづけた。高校に入ってすぐ、自己紹介で例によって「僕のことはガッツくんと呼んでください」と切り出すと、「なぜなら」のオチを披露するより一寸はやく、

「ガッツくんというより、なんか、ガッチャンってかんじ」

 といちばんまえの席であごをひじでついてツッコミを入れてきたのが忘れもしない、天真爛漫な笑顔の愁香だった。ちょうどそのころ、うっかりアタッチメントを忘れて剃ったつるつるの坊主頭で、高校デビューというのか、レンズのない金色の丸メガネを掛けたうえ、校則がゆるいらしいのをいいことに、陰陽のピアスまで右の耳たぶからぶらさげていた。ロボット然とした風貌と、緊張した話し方が「いかにも」だったのだろう、ふいをつかれ「な」の字で口を開いたまま固まった表情が爆笑をさらうとともに、クラスでの役どころが「ガッチャン」で落ち着いた。それは幼いころに指摘された「女の子にガッツく」理由を減免されているようで、愁香は初対面から好ましく、女優をおもわせる派手な顔立ちのいっぽう、これまで会ったことがなかったような素朴さに感動するぐらい、ありのままの自分を許してくれる太陽みたいな存在だった。

 では娘の夏美はどうかといえば、「親友ふたりの子ども」という点で好感は持つものの、それ以外の感情を説明するのはむずかしい。

「あれ、ゼミは?」

 病院は、と尋ねるのは、ためらわれて、反射的にわざとらしい声をはっすると、夏美は、

「お酒、呑もうよ」

 と、身をよせるように買い物カゴを奪い、思いのほかずしりときたのだろう、菓子箱がきれいにつみあげられた間をよたよた歩けば、仲むつまじくカートを押す立派ないでたちの老夫婦とぶつかりかけ、「きゃあ、ごめんなさい」ときいろい声で叫ぶ背中を見送った。

 きんいろの髪、ぎりぎりのスカートからのぞく、あめいろの、ふくよかな腿。母親の愁香が大学生だったころ、彼女は電車で三時間ほど揺られたさきの県都にある大学に進学したため、盆正月に彼女と会う口実を見つけるかのごとく主宰した同窓会をのぞけば、接点はそれほどなかったが、その距離以上、夏美は似ていない。愁香を好きだった気持ちなど、海晴と結婚したとき婚姻届にてなれているはずの本名のサインをまちがえないよう細心の注意できざみながら、捨て去ったはずだった。それなのに、土にまぎれこんだ種が水をあたえられればやがてあおい芽を出すかのごとく、ときどき、はっと夏美と愁香を見間違えることがあった。それはあのころ、一度も愁香を好きと言えなかった後悔だとか、冗談で告白してしまった懺悔とからまりあい、息ができなくなるような苦しさが立ちのぼれば、股間がぱつんぱつんに張り、余儀なく自分で処理をおえたのち、指のあいだにだらしなく糸をひいて、やっと贖罪みたいにかなしくなる。

 夏美は吞み方を語らせれば小一時間はうんちくのマシンガンが止まないほど日本酒に目がなく、イミも「このために日本まで来たようなもの」とまで言ってのける酒豪である。また酒どころとして知られた郷が、たかい山をふたつ挟んださきとはいえ、おなじ県内にあるため、ゆかりの名酒がそのへんのスーパーマーケットにも手ごろなお値段で転がっている。「やっぱ一升瓶いくでしょ」とがなりたてる夏美をいさめ、銘柄だけ彼女がいちばんに推している純米酒を酌量して、むりやり箔押しラベルの四合瓶をカゴからはみだす野菜にねじこめば、「もっと肉たべなよ」と息がとまるほどみぞおちを手の甲で打たれる。夏美が留年をわずか一単位で逃れたさいに付き合わされたとおり、一升瓶をあけるのは夜通し呑むかたちになるので、酒によわい身としては苦しく、不惑をすぎたあたりから、むかしよくギャンブルぎらいな海晴と賭けのない麻雀を囲んだ徹夜も堪えるようになってきた。それに、朝イチでてばやくシャワーをおえると濃いモーニングコーヒーをがぶ飲みしたのち講義に出ていった夏美をみおくれば、風呂を洗うとき側溝にからまったちぢれ毛を見つめる目がみょうに冴えてきて、朝寝がはかどらない。

 セルフレジでQRコード決済の会計を終え、ぺらぺらのエコバッグいっぱいに買ったものを詰めて自動ドアのそとに出ると、ざらついたアスファルトのかさぶたが白飛びした街灯にもやされる彼方、利き手でない指でにぎった鉛筆で引いたようにいびつな稜線を、たよりない夕陽がしんみりとした若紫に染めていた。

 手がにぎられる。やわらかい手だ。彼女がおさないころから、これまで何度もにぎったことのある手に、いつか手作りのものをくれたバレンタインから汗ばんだ指をからめるようになったものの、いまさら狼狽えるはずもない。年齢もふたまわり違う。娘のようなものだ。と、そう言い聞かせている自分にも、気づいていた。いや、海晴が生きてさえいれば、なんのてらいもなく、そのようにふるまえていたことだろう。ひとがたの欠落にちょうどはまるかのように、無邪気なおてんば娘は、いまも絶やさず持ち続けている海晴への思慕を、高一の春に会ってすぐ電気がはしったような衝撃をあたえた彼の年齢を越えれば越えるほど、なかったことをぜんぶあったように、そのまま引き受けてしまうのだった。

 ひろい駐車場に田舎ではとりわけ目立つあのミニは見つからなかったが、郊外型のスーパーマーケットらしく駅からはとおいし、そもそも電車自体二時間に一本ぐらいしかないため、おそらく店番中のイミを説き伏せるかたちで送ってもらったのだろう。よくいえば気まま、わるくいえばわがままな夏美は、あたりまえのように、みじかいスカートを気にすることもなく、かるい身のこなしでスーパーカブの荷台にまたがった。ベースは原付なのだが、高校卒業後しばらくボランティアで全国各地をぶらぶらしていたころ、知り合った気のいいバイク屋に、やかましいヒップホップの流れるたばこくさい店内でよくない薬をおそわりつつ、エンジンをボアアップしてもらった。せっかくだから原付二種の免許を取ったころ、ナンバープレートをひまわり色に変えてもらったので、いちおう法律上はふたりのりができる。が、それを前提とした構造にはなっていないため、おそらく座りごこちはひどくわるいだろうけれど、夏美がしかたなさそうに文句をたれながら荷物用の黒と黄がまだらなゴム紐で座布団を括りつけていた。夏美が高校の家庭科実習で作ったという、目つきがわるいピンクのクマがチェック柄のうえにたくさん貼りついている座布団だ。イミと違って夏美は手先が不器用らしく、座布団というよりなんだか布のかたまりに見えるのが、ときに胸をかきむしりたくなるほどいとおしい。

「ロッコク堂まで!」

 いびつにふくらんだエコバックをフロントの赤茶色にさびはじめたカゴに収め、座席にすわりハンドルを握ると、後ろから抱きついてきた夏美が、右肩ごしに反った人差し指を伸ばしながら、鼓膜が痛くなるぐらいの声を耳元ではりあげた。

「千円な」

 冗談っぽくそう応え、背中にあたる胸の感触に気づかないふりをする。そういえば、母親の愁香もずいぶん胸がおおきいはずだった。もちろん、触れたことはおろか、見たこともなく、高校の体育の授業でバレーボールがあったとき、「ずいぶん着痩せするんだな」と姿勢をおとしてレシーブするたびふくらむ襟ぐりを見たクラスメイトの下品な会話に、体育ずわりをちぢめてこっそりうなずいただけである。胸だけは似ているんだ、そう思いかけて、むらむらとした思考の端を千切るように立ち上がれば、自分よりすこしたかい体温がふっと失われていく。

 ひとつしかないアメリカの国旗柄をしたヘルメットを夏美にかぶせ、くいと突き出された小ぶりなあごのしたでひもを締めてやり、キックペダルをやみくもに蹴飛ばし、重くなったスロットルをちからいっぱい捻る。黄信号をすりぬけてロッコクに飛び出し、ほのかに暖色をのこした薄闇ごとヘッドライトできりさいて、ギアをセカンドからサードへ小刻みにきりかえ、汚染土壌をもたもた運ぶトラックを破線から追い越して、片側一車線のまんなかをほそいタイヤでなぞった。中間貯蔵施設の周縁にいまだのこる帰還困難区域の看板を過ぎれば、道の両脇にはつめたい銀色をしたX字のフェンスがならび、かつて民家だったそれのくずれた瓦屋根がうかがえるほか、いわずもがな海辺に向かう道はものものしく体躯のごつい警備員によって封鎖されている。最近は減ったようだが、震災後しばらくは、帰還困難区域に侵入する盗賊だとか、スクープに躍起なマスコミが少なからずいた。このためロッコクを行き来するパンダもようのパトカーと二台、すれちがったが、うちひとつは背のたかい軽自動車で、あまり熱心でないのか、ハイビームをパッシングで注意されただけで、ノーヘルでも見咎められることはなく、「こわー、ガッチャンがメットみたいな坊主頭じゃなかったら、逮捕されてたかもね!」とどこか楽しそうに振りむいた夏美が、平手で頭のてっぺんを叩いてきた。「震災」というものを第一に考えるとき、第二や第三のなんらかが置き去りにされる気がする。あれから十年以上経った。さいしょのころはメディアも「問題」を舌鋒するどく取り上げてくれて、映画や小説という形でもひろく共有され、「復興」のためのイベントが大小とわず各地で産声をあげ、「応援」がさかんに喧伝された。その潮がすこしずつ、たしかに、引いたことを、海の町で暮らすものとして、非難することはできない。実際、年を追うごとに「問題」は複雑化・細分化され、もはや言葉にしづらいのだ。だからロッコク堂を運営しながら、外から来てくれたひとに、「どうか、見てくれ」とそれだけを願うことがあった。いまのこの町を見てくれ……感じてくれ……海を、山を、空を、うつくしいと思ってくれ。「復興」なんて畢竟、「時間が経つこと」だ。それが分かったいま、「復興」しないなにかも必要な気がする。忘れない、だとか、忘れたくない、だとか、忘れてはいけない、と言えばおっしゃるとおりだけれど、それは写真だとか文章で残すことはできても、忘れられないものは、ひとの心のうちにしか残すことはできない。だからどうか、この町に来て、モニタリングポストの放射線量や帰ってきた住人の数なんていううわっつらの数字ではなく、当事者なんていうわかったふうな言葉ではなく、俺たちを、ここにある生活を、ひとを、そのまま見てくれ……。

 ロッコク堂に戻ると、すでに脱いだエプロンをハンガーに掛けたイミが手際よく片付けを終えてくれていた。平日にもかかわらず観光客の姿がすこしあり、震災直後に歩道橋からぶら下げられ町民を勇気づけた横断幕をモチーフにしたタオルと地元の米を百パーセント使ったうすにごりの日本酒を買ってくれたのだと聞いて、なんだか安心したし、イミもおなじような顔で微笑んでいた。「どんなひとだった?」と興味本位で尋ねると、「京都から来た、なんだかguiltyな目をしたおじさんでした」と率直な答えがあり、考えるべきことがあるように思ったけれど、栓なきことだ、と首をふり、「呑みにいこう」とイミのやせた背中をおして促し、あいかわらずお札が十枚ごとの束になり一円の桁までぴったりのレジ締めと火の元の確認を終えたのち、日報をファイルに綴じ、金庫に鍵を掛けて、空調と照明を消せば、壁一面に貼ったA0サイズの震災直後をのこす写真がモノクロームに褪せた。おそらく、考えるべきことは多くある。が、考えてばかりいては、前に進めない。思えばそんなことを胸のすきまに抱えながらロッコク堂を運営してきた。ロッコク堂を訪れるのはみな、なにか重いものを抱えたひとたちだ。自分もそうだし、夏美も、イミもそうだろう。そんな重いものを、すこしだけこのちいさいけれど散らかった、いつか誰かの部屋だったような場所に、忘れていってくれたらいい。「復興」なんて呼べやしない。あるのはもっと個人的な「回復」であり、回復しきらないものの「追憶」だ。いつか誰かが言った。「完全に元通りになってやっと復興」だと。耳をふさいで目を細めたさきには、しかくい排気筒が崩れ落ちていたのではなかったか。

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