第3話

 客が来ないまま昼を過ぎ、雑に拵えた具なしのまるいおにぎりを頬張れば、うつらうつら眠くなり机に並べた復興をテーマに売上を募金している缶バッチで額を打ったため、いつもより濃いコーヒーを啜りながらくたくたのノートパソコンを開き、震災前からの旧友より二束三文で引き受けたエクセルの帳簿をマクロ化する仕事をダブルクリップで留めたA4の仕様書とにらめっこしつつ進めていたところ、かららん、とドアベルを鳴らして扉が開いた。あくびを噛み殺して目線だけ上げれば、よく磨かれた掃き出し窓の向こう、イギリス国旗を模したミニのスリードアがぱっちりした目をこちらに向けている。津波に呑まれた親友の娘・夏美に「お願い」とチュッパチャップスごときを握らされ、なかばハンガーストライキまがいの腕組みでディーラーの上座に居座り、値切るため労を割いたことを覚えていた。威圧感のある坊主頭と金ぶち眼鏡とひげに馴れないスーツを合わせれば、土建屋のくせ神経質そうだった父の息子とは思えないぐらいヤクザのように見えなくもないから、威力は絶大であった。

「……夏美?」

 しばらく黙っていたからか、豆で挽いたブラックコーヒーが喉に張りついてかすかすの声を吐き出せば、間口には、夏美の金髪ではなく、いつも濡れたようにしっとりした黒髪が昼下がりの陽光に映えていた。

 あれは高二の夏休みだったか、弟の心臓手術がらみで夏美がアメリカに飛んださい、ナンパして連れて帰ってきたイミは、エスキモーにルーツがあるらしく、肌もはちみつ色のカラードだし、海外からの観光客には「You speak English very well」と驚かれるほど、アジア人らしい容姿をしている。一方、夏美のほうが日焼けしてもあかく腫れるだけの肌はすきとおったようにしろく、金髪なうえあおいカラーコンタクトを入れることもあったので、いよいよ人種や国籍なんて馬鹿らしくなるのが、いまどきの子らしい。

 ナンパとは読んで字のごとくだが、イミも、伊達や酔狂で日本に来たわけではないらしかった。ベーリング海を挟んで対岸にあるイミの故郷は、漁業で生計を立てていたちいさな港町であり、原発事故で飛散した放射性物質の風評被害をもろに受け、魚がまったく売れなくなるとともにドラッグがはびこってスラム化したらしく、この日本に来て「reconstructionを学びたい」のだと、まだ日本語がたどたどしかったころ、迫真の身ぶり手ぶりで、熱く語った。いまはイノベーション・コースト構想で新設された大学でロボティクス、もとい、廃炉の技術を学んでいるのだという。夏美は「イミが治すほうなら、わたしは伝えるほうをがんばりたい」と前のめりで、社会学を学んでいるから、日本的な言い方をすれば、理系・文系に分かれたわけだ。

 お互いに依存せず、自立し、尊重しあっている関係が、時にうらやましい。ふたりが暮らすアパートのファッション雑誌やら洗ったのかわからないブラジャーやらが散らかったリビングには、組み立てを手伝ってあげたパイプ製のやすっぽい二段ベッドが鎮座していたが、したの段はイミの学術書と夏美の少年漫画がぎっしり詰まっていたため、せまい上の段に並んで寝ているのだと、ふたつのピンクの枕と壁からならんで生えたアイフォンのしろい充電ケーブルに窺い知った。世間的にいえば、おそらく恋人というカテゴリになるのだろう、同性婚の法制化に先立ちぐいぐい日本酒を進めていた宴席を思い出したが、ふだんのふたりはそんな有体なカテゴリはどうでもいいといった体で、コンビニでスイーツをえらぶ姿はただしく「ふたり」だった。おなじ同性愛者として、もし自分にもそういう相手がいたなら。さいごに愛した男は津波に浚われたうえ、おそらく異性愛者だったし、高校のころからちょっとしたファンクラブができるほどとりわけ後輩にモテたわりに、海の男らしくなく他の女に見向きしなかったぐらい一途とくれば、「お前の父親は、ほんとうにいい男だった!」なんてつい夏美に絡んでしまうけれど、わらって「泣き上戸だなあ」と頭をなでてくれる彼の娘に、この涙の意味などわからないし、わからないほうがいい。

「シフト代わりますよ」

 すっかり流ちょうになった日本語で、イミにそう声をかけられ、そろそろふるい文庫本の文字がくるしく老眼のレンズを検討している丸眼鏡を持ち上げて、ぎこちなく振り子を揺らす壁掛け時計を見返したところ、鳥のくちばしの形をしたきいろい短針がやがてかたむいた3を指すところだった。イミはだいたい約束の十五分前には来てくれる。いっぽう「食い倒れの妊婦を助けてたわ」と悪びれることなく口のまわりをソフトクリームで汚しつつ十五分遅れて来るのは夏美である。ということは、イミと夏美が待ち合わせしたとき、イミは三十分余計に待たされる計算になるんじゃないのか、冗談まじりに尋ねたところ、イミは「私、夏美を待つ時間、嫌いじゃないです」とチョコレート色のそばかすが散った目尻にほんのりしわを寄せた。

 イミも夏美も大学三年生である。イミは一二年生のときにほとんどの単位を取ってしまったらしく、英会話の家庭教師と、院試に向けての勉強に精を出すほかは、「時間がいくらあっても足りない」と苦笑いするあたり、まだ余裕があるらしい。口では「いけるいける」と軽快ながら留年が危ぶまれているのは夏美のほうで、一般教養の単位だけはイミに頼るかたちでなんとか帳尻をあわせたが、専門科目はジェネレーティブAIに書いてもらった明らかに「てにおは」すらあやしいレポートがバレたあげく、単位のお願いで教授行脚ののち「ハゲ頭見飽きた」と舌を出す風情、どうにも対照的なふたりであった。そんなわけで、用がないのにお金もはらわずコーヒーに「ブラジル的には」とダメ出ししながら居座っていた夏美がロッコク堂に顔を出すことはすっかり減ってしまい、せいぜいイミのシフト終わりに「新しい日本酒入った?」とぐい吞みを引っかけていく程度である。まさかそのぐらいで酔いはしないけれど、運転はできなくなるため、酔ったふりの猫なで声で「イミちゃん、わたしの夜のハンドルごとよろしく」と肩にしなだれかかって頼れば、イミもまんざらではない表情だった。

「ありがとう。助かる」

 そう言って、双葉を模したロッコク堂のロゴが胸元に縫いつけられたカーキ色のエプロンを脱ぎ、イミに渡すと、彼女はじょうずな後ろ手でかたちのいいちょうちょに結んだ。たしか大学対抗のはんだ付けコンテストで県代表になったこともあるんじゃなかったか、指先が器用で、カブの調子がわるいときはキャブレターのオーバーホールまでしてくれたし、ロッコク堂に並べた手製の木彫りは北方の野馬追をモチーフにしており、観光客の、とくに子どもからのウケがいい。

「そういえば、夏美はゼミ?」

 レジをいったん閉め、去りぎわ、扉を開けるまえにそう尋ねた。院に進むイミと違い、夏美は就職をするはずだった。たしかマスコミを目指しているのだったか、いわゆる中央に行くかここに残るか迷っているらしく、「復興に関わりたい」と高二のときにアメリカ帰りのいきおいそのまま越してきたこの町に愛着があるように思えたため、イミのこともあるし、離れる選択肢があるのは意外だったが、ああみえて頭のいい子だから、いずれにせようまくやるだろう。

「夏美は、病院です」

 そう返事があり、「ご来館ありがとうございました」の楕円形をした木札がぶらさがるドアノブに伸ばしかけた手を止めてしまった。病院? 一瞬、来日してすぐ客を「でれすけ」と呼んだり、さんざん騒がせたように、言葉を間違えているのかとも思ったが、ひた向きなイミはすっかり日本語が達者になったはずで、いまや市場で「勉強してよ」といっぱしに魚を値切ることもできるし、そのわりにオール阪神巨人ではきょとんとして笑わない真面目なイミだから、冗談を言っているわけでもないらしい。

「どっか具合わるいの?」

 振り向かないまま、そう尋ね、夏美が爪楊枝を年のころよりおさない鼻と「う」の字のくちびるに挟んで黒目を寄せふざける間抜け面を思い浮かべてみた。最近は夏美の大学が忙しかったため、とんと会っておらず、高校からの腐れ縁である夏美の母親と居酒屋に行ったとき、夏美が同席したのがさいごだったか。メヒカリの唐揚げは他人のぶんのしっぽまでガツガツ食べるし、呑むほうは両親の血をしっかり継いであいかわらずザルだし、体調がわるいようには見えなかった。

「babyのことです」

 イミからは、こころなしか神妙な口調で、そう返事があった。日本語をネイティブなみに使いこなすイミだが、ニュアンスをちゃんと伝えたいときはいまでも、英語まじりで話すことがある。万事にゆるく「干し椎茸なんか食べらんないでしょ」と不平をもらしながら食品の軽減税率をたびたび打ちまちがえる夏美と違い、レジの数字が一円たりともずれたことはなく、さすが理数系に長けたイミといおうか、カフェの紙ナプキンにボールペンで重なりあう円をふたつ描き、「英語と日本語は多くの部分をshareしているが、それぞれ、片方にしかないmeaningがある」と教えてくれたのは、たんに語学についての話と受け止めてよかったのか、いきなり「periodがこない」と相談事をしてきたときそうであったとおり、相手は夏美しかいないのでイミらしい思い込みなのだが、さびしそうに感じられた。

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