ラーメン荒波

野村絽麻子

ラーメンはお好きですか?

 ラーメン荒波はわたしたちの故郷の味と言っても過言ではない。過言か過言でないかについてはわたしたちの中でも意見が纏まるまでにひと悶着あるにはあったが、結果、故郷の味と呼んでも差し支えないのだと言う所に落ち着いた。それ程までにわたしたちが愛し、焦がれた味なのだ。これはそんなラーメン荒波とわたしたちにまつわるお話になる。


 ラーメン荒波の店構えは小さい。こじんまりしている、と呼ぶのだと教わった。(教えてくれたのは店の常連さんで、その名をタツさんという。)濃紺のテント屋根には筆文字のような筆跡で「ラーメン荒波」と不愛想に書かれており、わたしたちは飲食店なのに濃紺とはこれ如何にと思わなくもなかったが、のれんは正しく生成りの、ピンとアイロンの当てられた布製のもので、これはこれでラーメン荒波のこだわりなのだと知る。

 引き戸をカラカラ言わせて店内に進むと、厨房を囲うようにカウンターが「L」の字と言うよりはひらがなの「し」の字の形に伸びていて、椅子はだいたい六脚。お子様が来店すると詰めるので七脚か、偶には八脚になることもあるにはあるがそれは稀だ。そのほかにテーブル席は二つあるものの、客が四人座るとぎゅうぎゅうになる。小さいのだ、テーブルが。そして店は狭い。じゃなくて、こじんまりしている。

 ラーメン荒波の特筆すべきはそのスープだ。魚介系と豚骨系を合わせた荒波の味。これはまぐろ、かつお、さばなんかのアラを、国産豚、国産野菜、国産鶏と合わせて十二時間ほど炊き込んだものだそうで、「煮る」ではなく「炊く」という単語を当てはめることにもこだわりがあるのだと、おやっさんが教えてくれた。

 スープはどろりと粘性があり、ひとたび口に含めばふくよかな風味と濃厚な旨味に包まれる。豚骨を使っているものの獣臭さはかけらも無く、ただただ旨味が広がり続ける。それはまるで宇宙空間に拡散する星雲のごとき甚大さで、わたしたちはとにかく感激し、身体をぴかぴかと光らせ、不定形の触角を反重量方向に伸ばしては震わせることになる。

 麺は二種類から選べる。太麺と細麺があって大盛は無料。学生街でもないのにそんなサービスをするのはどういうことなのかと店のおやっさんに尋ねたところ、これは完全におやっさんの好みの問題なのらしい。大盛百円増しなんて情けなくて涙が出てくると笑うので、これを本当に情けなく思っているのか、それともネタ的に擦っているのかは微妙なところだ。製麺所に特注しているという腰のあるちぢれ麵のほかには、もやしを中心とした野菜が盛られ、てっぺんに薄切りのネギが小山を成す。更にはふっくらしたメンマ、そこそこ厚めのバラ叉焼。これも柔らかく炊いてあって醤油の香りが濃厚な絶品。同じ香りのする煮卵はオプションで選べて、その他にはあおさ盛りとにんにく増し、野菜増しと油増しなんてのも好きな人は好きらしい。わたしたちに関して言えば叉焼の脂で十分だと言うのが総意なのだけど、世の中には様々なニーズがあるものなのだ。

 わたしたちはこのお店のスープの味をこよなく愛し、ことあるごとに、それぞれが一ダースほど持っている足をわちゃわちゃと稼働して一生懸命に運んだ。気持ちが急いて絡まるなんてのはあまりよくあることじゃないけれど、ラーメン荒波に行くとなると転倒者が続出するほどの有様だったのだから、その熱狂ぶりは推して知るべし。ラーメン荒波はわたしたちにとっては聖地で、回復ポイントで、故郷で、全てだった。


 その全てを失うかも知れないと言う情報が入ったのは先月の下旬のこと。


 わたしたちは一様に驚き、悲嘆に暮れ、この世の終わりとばかりに泣き叫んだ。それはもう、わたしたちの声で手近な位置に流れてきた彗星が慌てて軌道を変えるほどの、見事な嘆きだった。無論、NASAからは問い合わせも入ったが現時点に関して言えばさして問題ではない。

「おやっさんッ! どうして!?」

「アラがなぁ。なかなか手に入り難くなったのよ」

 ラーメン荒波のスープを構成するにあたって最も重要と言われるアラが!? わたしたちはざわめいた。ざわめき過ぎてそのゼリー質の頭部が七色に揺らめく。

「なぜ、それはなぜなのですかっ!?」

「海水温の上昇だとか、漁業方法の発達だとか、原因は色々あるらしいねんけどなぁ。いつもの漁船が思うように魚を捕まえられないもんだから、ここへアラが届かんのよ」

「そ、そんな……」

 わたしたちは本来は透明に透き通った頭を薄っすらと青く染めながら、ぷるぷると付き合わせて考えた。どうしよう。昨今、この惑星の気温上昇に伴って、潮の流れが変化していることはわたしたちも知るところではあった。何しろ銀河系外から派遣された映えある惑星調査員である。

 しかし言われてみれば漁業方法の変革もまた大きな要因なのだ。網による撒き餌漁が悪だとは思わない。人類はそうやって効率や結果を追い求めることで文化を発展させてきた生き物だからだ。しかし、しかしだ。

「カツオを……南太平洋のカツオを、開放しなければ……!!」

 わたしたちはぽよんぽよんとその身体を震わせる。ぽよんぽよん。ぷかぷかり。各個体が浮き上がり、ぐるぐると旋回し、速度を増しながら上昇を始める。いつしか渦は奔流となり、店を飛び出し、上昇気流に乗り、海を渡り、一条の透明な滝となって南太平洋へ注ぎ込んだ。

「南無三ッ!!」

 なまぬるい南の海水がわたしたちの身体を濡らす。塩に反応して身体はぴかぴかと明滅し、その灯りを頼りに海中を突き進む。途中、わたしたちによく似たゼリー状の頭と複数の足を持つ不可思議な生命体をお見かけしもしたが、今はそれどころではない。

 漁船の多く行き交う海域にたどり着く。網を見つける。網の中には今まさに包囲されつつあるカツオ達がその銀色の艶かしい横顔を惑星探査機の警告灯の如く煌めかせている。

 わたしたちはとにかく網に飛び付いて……飛び付いて……

「……ねぇ、本当にやる?」

「いや、じゃ何のためにここまで来たのかって」

「撒き餌や巻き網漁船は悪ではないよ」

「でもそれだと日本へ泳いでくるカツオの量が」

「そもそも求め過ぎなのでは」

「…………荒波はどうなるの? ラーメン荒波のあの濃厚で芳醇な美味しいしか言えなくなるラーメンは、どうなるのでしょうか」

 あぁ、環境への配慮。人類の進化への讃歌。愚かな巻き網漁船への警告。様々な要因がくんずほぐれつ複雑に絡まり合って、また、主張し合っているのだけれど。けれど。それは、まぐろ、かつお、さばなんかのアラを、国産豚、国産野菜、国産鶏と合わせて十二時間ほど炊き込んだあの複雑で素晴らしい旨味でいっぱいの荒波の味には遠く及ばない。

 わたしたちはしばし呆然とラーメン荒波のあの最高に素敵で美味しいラーメンに思いを馳せながら、心ここに在らずになる。そうしながらも海流に流されまいと、巻き網にしっかとしがみ付いた。そう、ラーメン荒波のあの美味しい美味しいラーメンでぷりぷりに肥えた頭と身体を、それぞれ一ダースずつの手足でもって、全員で。

 みしり。

 何かが軋む音がした。

 ぶちり。

 何かが弾ける音がした。

 みしみし、ぶちぶちり。

「大変だ! 網が!」

「そもそもそれが目的だったろうが!」

「言ってる場合か!」

「な、流されるぅ!」

 上昇、上昇。上昇を繰り返し、飛沫と共に海中から抜け出た後の、その青い水面の中に。わたしたちはカツオの群れを見た。一斉に解き放たれ暖流に乗り、勢いよく北を目指す銀色の煌めく流れを。小さなカツオ。大きなカツオ。美しいカツオ。少しひねたカツオ。それはそれは豪華な流星群のような煌めきで、わたしたちはお互いの抱えた空腹も忘れて、触覚をだらりと下げながら見入っていた。


 かくして、ラーメン荒波の危機はとりあえず回避された。わたしたちは日焼けして少し褐色になった身体をカウンターに順繰りと並べながら、ぷりぷりとした手で箸を握り、ラーメンを啜る。麺に絡みつく濃厚なスープ、ふくよかな薫り、品の良い脂とさっぱりした後味。……おや?

「おやっさん、このラーメン少ししょっぱくないかい?」

「お客さん、そいつはあんたの涙だよ」

「うう……湯気が目に染みるわい……」

 わたしたちは生まれて初めて涙を流していた。海水のように塩味のある液体が自分の身体からとめどもなく溢れてくるなんてのは聞いたこともなかった。新しい発見だった。新しい謎だった。そして、祝杯だった。


 それから程なくしてラーメン荒波は閉店した。


 わたしたちの精一杯の奮闘も虚しく、しかし、おやっさんの体力がもう底をついたのだ。後継者問題。それは現代日本における課題の一つでもあった。

 選択肢としてキャトルミューテイションまで挙がったが、わたしたちはもう少しだけ違う方法を模索してみる事にした。

 由緒正しいリヤカーの、濃紺に塗られたトタン屋根には筆文字で「ラーメン荒波」と不愛想に書かれており、これはおやっさんの作となる。わたしたちは飲食店なのに濃紺とはこれ如何に、とはもう思わない。のれんは正しく生成りで、ピンとアイロンの当てられた布製のもの。軒先には真っ赤な小田原提灯が灯り、白く抜かれた「らーめん」の文字が神々しく躍る。

「まさかこの屋台がもう一度役に立つ日がくるたぁね」

 おやっさんは眩しそうに顔を顰め、くすぐったそうにわたしたちを見る。

 のれんを継ぎたい。ラーメン荒波のコンクリートの床に一列に並んだわたしたちが手脚を折り曲げながらそう打ち明けた時、おやっさんは少しだけ困った顔をした。この通りです。透き通った頭部を床に擦り付けんばかりに下げる。

「困ったなぁ」

「そこを何とか……!」

「うーん、あの屋台、まだ使えるのかなぁ」

「……屋台?」

「そ、そ。この店、昔は屋台だったんよ。君らに継いでもらうにしても土地の権利とかが……ね、ほら。地球外生命体じゃあややこしそうやから」

「……屋台!」

「屋台だ!」

「そ。屋台なら、出来るんちゃうかな」

「やります!」

「屋台だ!」

「ありがとうございます!」

「ラーメン荒波の味は永遠に不滅です!」


 半年ほどの修行を経て、のれん分けしたラーメン荒波はわたしたちの手によって世にも珍しい宇宙を航行する屋台としての復活を遂げる。

 ある夜は土星の輪っかの上、またある夜は月面で、たまに宇宙ステーションの窓を叩いてはラーメンを振る舞い、またある時は懐かしい地球の薄暗い空き地に忽然と現れる。

 あなたがたが夜空を見上げた時、もしも赤い光が見えたのなら、その時はぜひ耳を澄ませてみて欲しい。そこでもしも、少し調子外れたチャルメラの音が聴こえたのなら、それは合図だ。何の合図かって。そりゃ決まってる。美味しい美味しいラーメン荒波の屋台が、あなたがたのすぐ側で今夜も店を開けるってことだ。もちろん大盛りは無料だから、遠慮しないで頼んで欲しい。

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