寄り道

春野 セイ

第1話 縁談




「のどが渇いたな」


 書きものをしていた柴山しばやま小三郎こさぶろうは、筆を置いて一息ついた。水を貰おうと立ち上がり台所へ向かう。ついでに菓子でもあれば、と思案しながら廊下を歩いて行くと、その先で話し声が聞こえた。盗み聞きするつもりはなかったが、そっと近づいた。


「まだ早すぎますわ」


 声をひそめて云うのは女中のうねだった。


「なにが早い、若旦那さまはもう二十二歳だぞ」


 もう一人は老僕の善兵衛ぜんべえだ。


「まだ二十二歳です。縁談なんて早すぎます」

「早いもなにも話が来ているのだから仕方あるまい」

「どなたですの?」

「……それを知ってどうする」

「知りたいんです」


 うねと善兵衛のにらみ合う様子が何となく伺える。すると、善兵衛が見当違いの返事をした。


「わしはな、若旦那さまにはもっと肥えてもらいたいのだ。だから、夕餉のおかずを一品増やせと申しておる」

「一品だなんてとんでもない」


 うねはぴしゃりと云い捨てた。二人ともすでに囁き声ではなくなっていた。


御新造ごしんぞさまにかたく申しつけられております。夕餉は今までどおり、一汁三菜です。それに困っているのは善兵衛さんだけで、若旦那さまは困っておりませんわ」

「若旦那さまは二十二歳になるというのに、あんなに細く痩せてらっしゃる」

「若旦那さまは御健康です。痩せすぎてもいらっしゃらないし、あれくらいがちょうどいいんです」

「一体、なんの話をしているのだ?」


 自分の話を大声でされているときまりが悪い、早々と出たほうがよさそうだ。

 小三郎は二人の間に入っていった。

 うねはマズイという顔をしてそそくさと去っていった。善兵衛は聞かれてよかった、というように開き直った。


「縁談でございますよ、若旦那さま」

「俺に? へえ、そう」

「へえ、じゃございません、お相手は」

「云わなくていいよ、興味がないから」

「若旦那さまっ」

「それよりのどが渇いた。水が飲みたい」


 不満そうな善兵衛の横を通り過ぎ、台所へ向かうと、うねが水を用意して待っていた。


「さすがは若旦那さまでございます」

「聞いていたな」

「お水でございます」

「ありがとう」


 茶菓子はないかと思ったが、うねがなにか云いたそうだったのですぐに退散することにした。まだ廊下に立っていた善兵衛の前を通り過ぎ、居間に戻った。


「縁談? ふん」


 息を吐いてから自分にはまだ早すぎる、と思った。

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