第2話



 ゲームの『琴葉』は初対面から強引に迫る天佑に怯えて、彼を知らないのだと告げる余裕がなかった。

 天佑からすれば当然自分のことを覚えているのだと思っていた。このすれ違いにより、二人の溝は深いものになってしまったのだ。


 それならば、わたしが彼を受け入れられない理由を素直に話せば、天佑だって多少は納得してくれるのではないかーーそんな淡い期待に賭けてみた。



(可能性は低いのかもしれないけれど……)


 どちらにしろこの状況は間違いなく背水の陣だ。

 だったら、少しでも可能性のある方に賭けてみたい。

 目を見開いて驚く天佑に、わたしは言葉を重ねた。



「記憶がない以上、人違いの可能性を考慮して頂けませんか?」

「私が間違える訳……」

「……では、わたしが生まれた月は分かりますか?」



 ゲームのシナリオ上。ヒロインへの共感性を高めるために、個人を特定するような話を『琴葉』はしていなかった。

 もしシナリオ通りの交流であったなら、『琴葉』の細かい情報を天佑は持っていないはずだ。


(お願い。どうかシナリオ通りであって……!)


 祈るような気持ちで彼を見つめると、天佑は押し黙ったーー無言が答えなのだろう。

 ホッとする気持ちが表れないように、慎重に言葉を続ける。



「確かにわたしは琴葉、という名前です」

「…………!」

「けれど、わたしの世界では琴葉という名前はそれほど珍しいものではありません」


 抱きしめられていた腕の力が弱まる。

 ともすれば抜け出せるほどに……しかし、ここで焦ってはいけないのだろう。

 彼の言動を注視する。天佑は皇帝だ。絶対的な権力を持っている。彼が気に入らないというだけで、わたしの命運がここで絶たれる可能性だってあるのだ。



(嫌だ。デッドエンドだけは嫌!)



 どうして、わたしがトリップしてしまったのか。

 まして乙女ゲームのヒロインの立場になるなんて。成り変わりたくなんかなかった。平凡な日常に満足していたのに……。


「ならば、賭けをしないか?」


 長い沈黙を打ち破ったのは天佑であった。彼の手がそろりとわたしの頬を撫でる。


「……賭け、ですか?」

「もしもお前が本当に『琴葉』であった場合、私の正妃になって欲しい」

「それは……」

「だが、もし別人であるのならば、お前を元の世界に返せるように心血を注ごう。しかし、私の力を持ってしてもそれが叶わなかった場合、身の保障と自由。そして、生涯金に困らないように手配するーーだから私がお前を見極めるまでの間、後宮に入って欲しい」



 条件を考えれば、良い話なのは間違いない。

 元の世界に戻る術(すべ)をわたしは知らない。帰る方法を探すにしても、その間。この世界での生活を工面しなければならないのだから。



(わたしはゲームをしただけで、この世界の常識を知らない)


 住むところもないし、働く場所だって探さないといけない。

 世知辛い話だが、生きていくにためはきちんと生活の基盤を整える必要があった。けれど……。



「わたしはこの国の人間ではありません。そのような人間が後宮に入るだなんて、難色を示す方もいらっしゃいましょう」

「いいや、そのような人間は少ないだろう」

「……どうして、そう言い切れるのですか?」

「それは……すぐに分かる。あまり早く言っても詰まらないだろうからな」


 にんまりと彼は唇を釣り上げた。

 それでどうする、と彼の視線が問いかけてくる。

 迷いながらも頷けば、天佑はホッとしたように息を吐く。


「なぁ、琴葉」

「はい」

「賭けの間は私から逃げないでくれ」


 約束だ、と天佑が耳元で囁く。その艶めいた仕草に顔を赤らめれば、天佑はクツクツと喉奥で笑う。


(揶揄われてる!)


 なんだか悔しくて彼の腕から逃れようと胸を押し除けようとした。なのに、一向に離れられない。それどころか、さらに抱擁がきつくなる。


「私から逃げるな、と約束したろう?」

「けれど、それはあくまで物理的な話で……」

「うん? でもそなたは確かに頷いた」


 満足そうに天佑が頬を緩める。その蠱惑的な笑みで迫られる。完璧なまでに淡麗な願望が近付くーーキスをされるその直前。

 額同士が重なって、彼が「冗談」だと呟いた。

 ……なんて心臓に悪い冗談なのだろう。


(この賭けに乗ったこと間違えだったかもしれない)



 しかし後悔しても、もう遅い。



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