後宮にトリップしたら皇帝陛下に溺愛されていますが人違いでは?

秋月朔夕@書籍発売中

第1話



「ようやく手に入れた」



 うっそりと男が微笑う。

 蕩けそうなほどに甘い笑みを向けて、ゆっくりとこちらにやってくる。

 どうやら彼はわたしが『ある人物』なのだと思い込んでいるらしい。



 ーーだとしたら状況は最悪だ。


 いつも通りの日常を過ごしていた。

 仕事が終わり、一人暮らしのアパートで夕飯を食べ、シャワーを浴びて、後は寝るだけかぁ、と思っていたのに。

 いきなり身体が光って、驚いているうちに見覚えのない場所に放り出されてしまったのだ。

 



(一体、何が起きて……?)


 状況を把握しようと尻餅をついたまま、部屋を見渡す。

 窓のない暗い部屋だった。電気もなく、壁際に置かれたいくつかの蝋燭だけが頼りない灯りとなって部屋を照らしていた。

 部屋の中心には男が一人。その人物の顔を


(……うそ)



 だからこそ置かれている状況が信じられなかった。否、信じたくはなかったのだ。



(どうして、こんなことに……)


 思い出したのは以前プレイした『鏡の国』という乙女ゲームの情報だった。



***


 ーーヒロインは二十歳になったばかりの社会人で、平凡に生きていた。しかしある日。突然知らない世界にトリップし、その場に居た皇帝陛下に求愛されてしまう。

 初対面から好感度の上限値が振り切れた皇帝である天佑を恐れ、逃げようとすると、ヤンデレエンド待ったなしの展開となる。


 そしてなにより恐ろしいのは皇帝である天佑ルートでは、選択肢を一つでも間違えればバッドエンドに入ってしまうことだ。

 あまりに天佑ルートのバッドエンドの多さからファンの間では、『鏡の国』は乙女ゲームの名を借りた脱出ゲームと評されていた。


(……よりにもよってこの世界にトリップしちゃうなんて)


 そう嘆いている合間にも、天佑が距離を縮めている。今や、天佑との距離は三歩ほどしかない。

 彼がその気になれば、すぐにでもわたしは捕えられてしまうだろう。


(逃げたい)


 できることなら今すぐにでも!

 けれど、それだけはできない。最初に天佑を少しでも拒めば監禁エンドになってしまうのだから。


(怖い)


 ゴクリと喉を鳴らして、天佑の行動を見守る。

 ーー自分の身を守るためには相手の行動をよく観察しておく必要があった。



「琴葉」


 熱の篭った声で名前を呼ばれ、そういえば『鏡の国』のヒロインもデフォルト名が自分と同じ名前だったと思い出した。

 ゲーム本編では、プレイヤーが自分とヒロインが同一視できるようにという配慮からか、ヒロインの容姿はほとんど描かれていない。

 そこに一筋の希望が見えた気がした。



「ずっとお前に会いたいと願っていた。長年の願いがやっと叶うのだな」



 天佑は先帝と下級妃の子だ。

 だけど母親の立場が弱かったことで、幼少期の天佑は正妃やその子供達に虐められる毎日を送っていた。その日もそうだった。天佑は上級妃の子供に蔵へ閉じ込められ、そこに古い姿見が光っていることに気が付く。

 その向こう側に映っていた人物こそヒロインの『琴葉』である。それがきっかけで天佑は『琴葉』と交流を続けるようになった。

 正妃の命令により、鏡が割られるまで……

 鏡が割られたことで、『琴葉』との交流が不可能となってしまった。

 天佑は年を重ねるごとに『琴葉』への想いを大きくさせていた。会えないがゆえに、焦燥が膨らんでいった。

 だけど『琴葉』は違う。彼女は鏡が割られたことで、天佑に関する記憶を失ってしまったのだから。



(わたしだって過去に天佑と鏡越しで話していた記憶はない)


 ゲームのヒロインと名前と年が同じなのは、ただの偶然なのなろう。

 わたしの容姿だってごく平凡なものだ。

 覚悟を決めて、彼と対峙する。



「あの……人違いでは?」


 琴葉の問いかけに天佑は不愉快そうに眉を顰めた。


「私がお前を間違えるとでも?」


 地獄の底から響くような低い声音。彼の機嫌を損ねた。それは分かる。けれど、今更前言を撤回するつもりはない。


(だってここで引いたら、天佑はわたしを『琴葉』として扱う可能性が高い)


 そうなれば、ゲーム同様。監禁か妃か。最悪な二択を迫られるだろう。

 天佑のルートは選択肢を一つでも間違えれば、バッドエンドになるーーそのバッドエンドの中には、デッドエンドだって存在するのだ。そんなもの絶対嫌だ。



「お前が琴葉だ」


 彼の大きな手がわたしの腕を無遠慮に掴んで、無理矢理立ち上がらせる。

 すっぽりと彼の腕に囚われると、背中にダラダラと冷や汗が流れた。



(このままじゃ駄目!)


 顎を掬われ、彼の顔が近付く。唇に触れる直前。運命の分かれ道を突きつけられて、わたしは必死に叫んだ。



「でもわたしには記憶がないんですよ!」




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