第6話 ミシンがなくなった?

「まずは持ち手から作っていこうか。そうだ。今日からはアイロンを使うから、持って来ておくれ」

 家に着くなりおばあちゃんにそう言われて、わたしは廊下の物入れからアイロンとアイロン台を取り出し、おばあちゃんの部屋へと運んだ。

「まずは、持ち手を半分に折ってアイロンをかける」

 アイロンがけは普段お母さんにまかせっきりだったから、温度の調節の仕方とかいまいちわからない。中でいいのかな。つまみを合わせてアイロンをかけようとすると「まだあったまってないよ」とおばあちゃんにピシャリと言われてしまう。

「布は中表に折ってね」

「中表?」

 これも本に出て来てわからなかった言葉だ。

「こう、表と表を合わせて中にすることを、中表って言うんだ」

 おばあちゃんが持ち手の柄があるほうを中にして、半分に折ってみせてくれた。カチッと音がしてアイロンのランプが消える。あったまったみたいだ。

「はしをしっかり合わせて、アイロンで折り目をつけていって。ああ、ほらほら熱いんだから手は気をつけて」

 押さえるほうの手がアイロンにふれそうになって、おばあちゃんに注意されてしまう。

「私もお母さんも、みうちゃんにアイロンがけも教えてこなかったんだねえ。大事にしすぎるのも、考えもんだ」

 アイロンのにおいは、きりがかかった時のにおいに似ている。アイロンがけした布はほこほこあったかくて、春の陽だまりみたいだった。

 持ち手二つにどうにかアイロンをかけ終えて、アイロンのスイッチを切る。布がずれないようにクリップでとめたら、ミシンの準備だった。

「ベージュ色の生地だから、今回はこの茶色の糸を使ってみようか」

 おばあちゃんが引き出しから糸巻きを取り出して見せてくれる。ちょっと薄めの茶色で、ベージュの生地との相性もよさげだ。

「じゃあまずは、下糸を巻く。これがボビンっていって、下糸を巻く糸巻きだ」

 下糸を巻くのは学校でもやったことがある。説明書を見ながら糸をかけていって、糸を通したボビンを置いた軸を右にずらして、フットコントローラーを踏みこむ。ボビンにどんどん糸が巻かれていく。

 下糸が巻けたら糸を切ってボビンケースにセットして、上糸も順番どおりかけていく。ミシンを使った後はいつも、針も糸もはずしてしまっておくようにって、おばあちゃんに言われていたから、何度も糸をかけるうちに順番は覚えてしまっていた。

「布が厚めだから、針は11番ね」

 針入れから厚手用の11番の針を取り出して、ミシンに取りつけてネジをしめる。ダイヤルは直線縫いに。縫い目のはばはいつもどおり。

 はぎれで試し縫いをして、糸の調子を確かめると、いよいよ本番だった。

「縫いしろは1センチね」

 ミシンの布を置く部分には、線と数字が刻まれている。その1の部分に布のはしを合わせると、縫いしろ1センチで縫えるんだ。

 布をセットして、針の位置を合わせて、押さえを下ろす。針を下ろして電源を入れて、コントローラーを踏みこんだ。

 ウィンとモーターがなるけど、針は進まない。

「厚手だから、もっと力がいるよ」

 もう少し足を踏みこむ。ダダダッと音を立てて、針が進んだ。慌てて足を止めて返し縫いのボタンを押す。返し縫いをしたら、後は真っ直ぐ。ミシンのガイドから布がはずれないように押さえて、ミシンの音をよく聞いて、踏みこむ力は一定に。

 ミシンのモーターの立てる音と、針や布送りが立てる音が、楽団の奏でる音楽みたいに聞こえてくる。わたしとミシンとで、一緒にバッグを作っているんだ。

 はしまで縫って返し縫いをしたら、糸の始末をする。

「よしよし、きれいに縫えてるね。さ、もう一本だ」

 同じことをくり返すだけだから、もう一本の持ち手も難なく縫うことができた。

「そうしたら縫いしろを5ミリに切り落として、角は三角に切り落とす」

 おばあちゃんに言われるまま縫いしろ部分をハサミでカットしていく。

「縫ったところをアイロンで割る」

「割る?」

 また知らない言葉が出て来た。アイロンで割る?

 アイロンを温めると、おばあちゃんはやってみせてくれた。縫いしろをひらいて、アイロンで平べったくしていくのだ。縫い目と、さっき折り目をつけたところが今度は真ん中に来て、両はしに折り目をつけていく。

「ここでループ返しの出番」

 おばあちゃんは裁縫箱から、細長い道具を取り出した。棒の部分を持ち手の中に通して、釣り針みたいになっている先を布に引っかけて静かに引っ張ると、スルッと持ち手がひっくり返されていく。魔法みたい。

「さ、やってごらん。縫い目を引っ張らないよう気をつけて」

 おばあちゃんのやったとおりに、針を布に引っかけて、静かに棒を引っ張っていく。布が中に引きこまれて裏返っていた。

「表からもう一度アイロンをかけて、整える」

 またアイロンだった。おばあちゃんは縫っていないはしの部分を1センチ中に折りこんでアイロンをかけていった。

「それで、このはしをぐるっと縫いしろ5ミリで縫っていく」

「5ミリ?」

「このはしっこの部分は厚みがあるから気をつけてね……いや、今日はもう時間がないね。終わりにしよう」

 時計を見ると、梓君との約束の一時間になろうとしていた。

 おばあちゃんを玄関から見送ると、家の門から出たところでおばあちゃんが立ち止まる。振り返ったその顔で、梓君なんだなとわかる。

 ペコッとおじぎをすると、梓君もおじぎを返してくれる。わたし達の関係は、この程度のものだ。

 お母さんが帰ってくるまで、まだ時間はある。

 ミシンを片づける前に、わたし一人でもちょっと縫ってみようかな。アイロンがけも終わって、後は縫うだけなんだから。

 持ち手をミシンにセットして、まずは長い部分から縫っていく。縫いしろ1センチとちがって5ミリははばがせまくて、針が布からはみ出すんじゃないかと心配になる。(おばあちゃんの言い方だと、針が落ちる、だって)

 それでも気をつけながら真っ直ぐに縫うことができて、針を刺したまま布の角度を変える。この短い部分は布の厚みが増える。

 力加減に気をつけながら、コントローラーをふみこむ。ダダダッと勢いよく針が進み思わず「キャッ」と悲鳴を上げてしまった。

「みう、どうしたの?」

 部屋の引き戸が勢いよく開き、わたしはもう一度悲鳴を上げた。

「何やってるの? みう?」

 お母さんだった。時計を見ると、いつの間にか6時を回っている。縫うのに夢中になって、全然気づかなかった。

「何をやってるの? ねえ」

 お母さんがにおうだちになって、こしに手を当てる。怒られる時のサインだ。

「ご、ごめんなさい」

「おばあちゃんのミシンにはさわらないようにって、昔から言ってたよね?」

「あ、あの、わたしね」

「ケガをしたら、泣くのはみうなんだよ。危ないことはしないで」

「……ごめんなさい」

「もう、ミシンにはさわらないって、約束して?」

 お母さんの声から怒りの気配が消えて、ハッとして顔を見ると、お母さんはただただ心配そうにわたしを見つめていた。

 わかってる。お母さんはわたしがケガをしないか、心配なだけなんだって。

 でも、それでも。

「約束できない」

 しっかりと、お母さんの目を見返してわたしは言った。

 お母さんの意見に逆らうなんて、生まれて初めてのことかもしれない。

「わたし、ミシンを使いたいの。だから、約束できない」

 お母さんを心配させたくないけど、でもわたしやりたいんだ。

 こんなに何かをやりとげたいって思ったの、生まれて初めてのことなんだ。

「そう、じゃあ、しょうがないわね」

 わたしから目をそらすと、お母さんはそう言って部屋を出ていった。

 はーっと、一気に体から力がぬけて、畳にへたりこむ。

 お母さんに、ちゃんと言いたいことが言えた。こわかったけど、足がちょっとふるえたけど、ミシンを使いたいって、ちゃんと言えた。

 しょうがないって、お母さんわかってくれたのかな。ミシン使ってもいいってことなのかな。

 でも、今日のところはもう片づけよう。

 縫いかけの持ち手は、取りあえず横のはしまで縫って、返し縫いして糸を切った。

 おばあちゃんに言われているとおり、針を抜いて糸も引き出しにしまって、ミシンにカバーをかける。

「今日もおつかれさま」

 いつの間にかこのミシンは、一緒にバッグを作る相棒みたいな存在になっていた。


 次の日、お母さんは仕事を休んだ。

 体調が悪い感じでもなく、「家事がたまってたから」って言って、いつものように朝ごはんを作って、学校に送り出してくれた。

 今日はお母さんがいるから、ミシンはお休みだって梓君に真弓ちゃんから伝えてもらって、まっすぐに家へと帰る。

「おかえりなさい」

 でむかえてくれたお母さんは、何だかすっきりしたような顔をしている。リビングに入った時、和室の戸が開けっぱなしなことに気がついた。

 和室のそうじしたのかなって、部屋をのぞきこむと……。

 ――ない。

 窓辺のテーブルの上にあるはずの、ミシンがない。

 そうじのために移動したのかなって、押入れを見たり、たんすの影を見てみるけど、どこにもない。

 リビングを見渡して、廊下の物入れも見てみたけど、やっぱりミシンはどこにもない。

「お母さん」

 キッチンに立っていたお母さんがふりかえる。もう何を言われるのか、わかっているような顔だった。

「おばあちゃんのミシンを、どこにやったの?」

「もう、いらないものでしょう」

「いらなくないっ。どこにやったの?」

「みうったらどうしたの。そんなにこわい顔して」

「ミシンをどうしたの? あれ、おばあちゃんの形見じゃない」

 お母さんがだまりこんで、わたしを見つめる。お母さんのこういう沈黙がわたしは苦手だった。まちがった時、やっちゃいけないことをした時、こうしてだまってじっと見つめられると、「ごめんなさい」って言葉が出てきてしまう。

 でも今は、今だけは引き下がれなかった。

 あのミシンはおばあちゃんの形見で、わたしの相棒なんだから。

 お母さんはふーっとため息をついて、負けたというように首をふった。

「売ったのよ」

「売ったって、どこに?」

「どこのお店だったかしらねえ。あちこち電話して、引き取りにきてくれるところにたのんだから、覚えてないの」

「どうして、そんなことするの? おばあちゃんの大事なミシンなのに」

 目の前のお母さんの顔が、ゆらゆらにじんでいく。

 泣いてる場合じゃないのに、ほおに涙がこぼれ落ちてしまった。

「みーう」

 小さなころのように、お母さんがわたしを呼ぶ。

「あなたの、ためなのよ」

 お母さんの手が、わたしの両肩を包んだ。

「あなたにケガしてほしくないの。ミシンがなくたって、あなたの生活には、問題ないでしょう?」

「……ちがう」

 涙をふいて、わたしは首をふった。

「そんなの、わたしのためなんかじゃない!」

 叫ぶように言って、わたしはお母さんの手をふりはらうと、家を飛び出していた。

 家を出て、どこに行くあてもないまま、走る。ほおには後から後から涙が流れ落ちていった。

 大好きなおばあちゃんのミシン。わたしの相棒になるはずだったミシン。それがどこかに行ってしまった。

 ミシンがなくなった悲しさと、お母さんに対する怒りと、おばあちゃんにごめんなさいって気持ちとが、胸の中でグルグルうずになって暴れている。

 その感情を振り払うように走り続けていると、角を曲がってきた人をよけきれずにぶつかってしまった。

 頭からぶつかってしまったのは、うちの中学の制服を着た男子だった。

 うわ、気まずいと思いながらも「ごめんなさい」と頭を下げて、相手が誰か確認する。

「笠森さん? 何? めっちゃ泣いてる」

「あ、梓君?」

 よりによって梓君だった。

「おばあちゃんがらみで、何か問題でも起きたのか? 必要だったら、今体貸すよ?」

 わたしはぶんぶんと首をふる。ミシンがなくなって悲しむおばあちゃんの顔なんて、とても見られなかった。

「ミ、ミシンが……」

 涙がまたこみあげてきて、子供みたいにしゃくりあげてしまう。

 梓君はわたしの背中をポンポンして、道のわきにある空き地へと導いてくれた。

 気がつけばわたしは梓君のハンカチを顔に当てて、とぎれとぎれに起きたできごとを話していた。

「お母さんはミシンを売ったって言ったんだね? 捨てられたわけじゃないなら、まだ取り戻せるんじゃない?」

 梓君の言葉に、わたしはハッと顔を上げる。

「待って、調べてみるから」

 梓君はスマホを取り出すと、操作し始めた。たぶんこの辺のリサイクルショップを探しているんだと思う。

「リサイクルショップと骨董店が全部で四件ある。今そっちに送るから」

 梓君とは何かあった時のために、メッセージアプリの登録をしてあった。そのアプリ経由で四件のお店の情報が送られてくる。

「俺、自転車取ってきて三軒目と四軒目回るから、笠森さんは上二軒を当たってみてよ」

「え、あ、うん」

「あと、ミシンの画像ってない?」

 スマホのアルバムをさかのぼると、ミシンの練習をしていた時の画像があった。

「あった! 送ればいい?」

「うん、よろしく」

 メッセージアプリで写真を送ると、「じゃあ見つかったら電話して」と梓君は走り出す。

「あ、あの、梓君!」

 呼び止めると、梓君は振り返る。

 おばあちゃんが乗りうつった状態でもう何日も一緒に過ごしていたけど、わたしは本当の梓君のこと何も知らなかったんだなって思った。

 言動はクールでそっけないけど、お年寄りや子供に優しくて、猫が好きで、そして困っている人を放っておけない人。

 真弓ちゃんやおばあちゃんが言っていたとおりの人だった。

 泣いているわたしを放っておかないで、ハンカチを貸してくれて話を聞いてくれて、そして力になろうとしてくれている。

「ありがとう!」

「お礼はまだ早いって」

 梓君の片方の唇が、少しだけ持ち上がる。

 せっかくの笑顔もちらっと見えただけで、梓君はすぐに背中を向けて走っていってしまう。

 さあ、わたしもお店に急がないと。


 最初のお店は商店街の中にある小さなリサイクルショップだった。店が小さいのでぐるっと回っただけで、ミシンはないとわかってしまう。

 念のためお店の人にも聞いてみたけど、ここのお店ではないようだった。

 次のお店は十分ほど歩いたところにある。国道沿いにある、大きなリサイクルショップだった。

 お店の中に入ると、服も家電もたくさん並べられている。家電は最近のモデルのものばかりで、おばあちゃんのミシンみたいな古いものは置かれていない。

 カウンターでお店の人に聞いてみると、やっぱり古い家電は買い取らないということだった。おばあちゃんのミシンにも心当たりがないみたい。

 お店を出て、どうしようかと思っていた時だった。電話がなった。梓君からだった。

「あったよ! ミシン」

 電話がつながるなり、梓君がそう告げた。心なしか声がはずんでいる気がする。わたしの胸もトクンとはずむ。

「どこのお店? わたしも行く」

 梓君が教えてくれたのは、四軒目の骨董店だった。あのミシンは、アンティーク扱いになってしまうんだ。

 ここからさらに10分くらい歩くことになる。でもミシンが無事なことを早く確かめたくて、走って向かう。

 たどりついたのは住宅街の中にある、小さなお店だった。ガラスケースには古い壺や絵皿が並んでいて、中学生が気軽に入れるふんいきじゃない。

 意を決して中に入って奥へ進むと、カウンターの前に梓君がいた。そしてカウンターの上には……。

 ピカピカ輝くダイヤルがたくさんついた、おばあちゃんのミシンがいた。

「ああ、よかった」

 思わずミシンを抱きしめると、ひんやりした感触が返ってくる。

「おばあちゃんの形見のミシンなんだって?」

 カウンターの中にいたのは、眼鏡をかけてひげをはやしたお父さんくらいの男の人だった。

「この時代のミシンは見た目がかっこいいからねえ、ディスプレイ用として人気があるんだ。レトロな喫茶店なんかに似合いそうだろ」

 確かにこのミシンは、かざってあるだけで素敵だ。でも……。

「使えるんです。おばあちゃんがちゃんと手入れしていたから、まだまだ現役なんです。このミシンで、縫いたいものがあるんです」

 お店のおじさんは、わかるよというようにうんうんとうなずいてくれた。

「買い取るというのなら、お母さんに払った分の値段でいいよ」

 そうか。お金が必要なんだ。

「ご、ごめんなさい。お金、持ってなくて」

「それじゃあお母さんと、ちゃんと話し合うしかないね。君が買い取ったところで、また勝手に処分されたら困るだろう」

 おじさんの言うとおりだった。わたしは大事なことをお母さんに話していない。

「お店には出さずに置いておくから、お母さんと話し合っておいで。配送代はおまけしてあげるよ」

「ありがとうございます」

 おじさんに頭を下げてから、もう一度ミシンを抱きしめる。

「すぐ、うちに帰れるようにするからね」


 お店を出ると、梓君が自転車の後ろをポンポンと叩いた。

「乗れよ。歩きじゃ時間かかるだろ」

「え、え、でも」

 自転車の二人乗りはよくないことだし、男の子の自転車の後ろに乗るなんて……としりごみしていると、「早く」と梓君にすごまれた。力のある目のせいで、「は、はい」とうなずいてしまう。

「大丈夫、見つかって怒られるのは俺だから」

「怒られる前提なの?」

 おそるおそる自転車の後ろにまたがるけど、つかまるところがない。

「危ないから、俺につかまって」

 サドルにまたがった梓君が、振り返って言う。えんりょして制服のはじっこをつかんだら、「腰に手回す」とまたすごまれる。

「は、はい」

「あ、ごめん。怒ってるわけじゃなくて」

「ちがうの?」

 はーっと、目の前の背中全体がため息をつく。

「仲いい男子にも誤解されるくらいだから、女子だったらよけいそう思うよな。ほんとごめん。悪気はないんだ。ただ、急がなきゃって思っただけで」

「そうだね。お母さん心配してると思うし」

 梓君の気持ちがわかったから、恥ずかしいけど素直に彼の腰に手を回してしがみついた。

「オッケー、出るよ」

 梓君がペダルを踏みこむ。最初よろけたから(お、重い?)とうろたえてしまった。

 梓君は車の多い道をさけて、住宅街の中を進んでいく。ブレザーのすそが風にはたはたとなびいて、梓君の髪がわたしの頭の上でサラサラゆれる。

 かすかにミントみたいな香りがした。梓君のシャンプーの匂いかな。

 男の子とこんな近距離で接するなんて、きっと小学校低学年の時以来だ。

 道路の段差で自転車がゆれて(わわっ)と心でさけびながら、梓君の体にしがみつく。

 骨や筋肉の感じが手に伝わってきて、男の子の体だなあと思う。自分の心臓がやけにドキドキするのは、自転車の振動のせいだと思うことにした。

 キュッと音を立てて自転車が止まる。反動でおでこが梓君の背中にコツンと当たった。

 気がつけば家の近くの児童公園だった。おでこを押さえながら、自転車から降りる。

「話しついたら、結果だけでもスマホで教えて」

 自転車に乗ったままでそう言うと、「じゃあ」と梓君は去ろうとする。

 その瞬間だった。自転車が静かにたおれて、梓君がまっすぐに立ちつくす。

「梓君? どうかした?」

「みうちゃん」

 そう呼ばれて、おばあちゃんなんだと気がついた。

「おばあちゃん! あのね、ミシンのこと……」

 ごめんなさいと言おうとした次の瞬間。

「ごめんなさいね」

 あやまったのは、おばあちゃんのほうだった。

「みうちゃんに、だまっていたことがあるの。どうしても今、言わないといけないと思ってね」

 え、何だろう?

「あなたがね、まだ三才くらいの時だったかしら。私あなたにケガさせちゃったことがあるのよ」

「ケガ? 覚えてないよ」

「小さかったものねえ」

「ケガって何で?」

 おばあちゃんは一瞬ギュッと目を閉じて、自分が痛い思いをしたような顔をした。

「私の部屋で遊んでいた時にね、ミシンの針を指に刺してしまったのよ」

 覚えていないはずなのに、指先にその痛みがよみがえったような気がした。

「私が悪かったのよ。ミシンの針をはずし忘れたまま、あなたを部屋に入れてしまったんだから」

 ああ、だからだったんだと納得がいった。

 おばあちゃんが口すっぱく、毎回ミシンから針を抜いてしまうように言っていたこと。針を扱うたびに、ハラハラした顔でわたしを見ていたこと。

 お母さんがわたしに、ミシンにはさわらないように言っていたこと。

 そして、わたしに何も言わず、お母さんがミシンを売ってしまったこと。

「みうちゃん痛がって泣いてね、指からは血が出ていたし、美雪は真っ青になって病院に連れていった。幸い傷あとは残らなかったけど、私の不注意のせいでみうちゃんにケガをさせたこと、美雪はいつまでも許してくれていないようだった」

 おばあちゃんの部屋に入ることも、わたしがミシンに興味を示すことも、お母さんはうれしくないような顔をしていた。

 もしかしたら、あのミシンを見るたびに、わたしがケガをした時のこと思い出しちゃうのかもしれない。

「……だから、お母さんのこと責めないであげてね。母親にとって子供がケガしたり病気したりするのは、自分がそうなるよりつらい思いをするんだから」

 ああ、おばあちゃんも、お母さんなんだなって思った。そんな思いをしながら、お母さんのこと育てたんだろうな。

「うん、わかった。ありがとう、おばあちゃん。知らなかったら、お母さんにひどいこと言っちゃったかもしれない」

「ミシンのことで、ケンカしないでね」

「しないよ。大丈夫」

「じゃあね、見えなくても見守ってるからね」

 ふっと梓君の表情から、おばあちゃんらしさが消える。一瞬できりっとした梓君らしい顔になると梓君は首をかしげた。

「じゃあ……って、言ったっけ?」

「うん、言ったよ」

「何で自転車倒れてんの?」

「ちょっとだけ、おばあちゃんになったからね」

「ああ、なるほど」

 自転車を起こすとそれにまたがって、風のように梓君は去っていった。

 両手でほおをギュッとして気合を入れると、わたしも家へ向かった。


「みう! よかった。おそいから心配してたのよ」

 玄関のドアを開けるなり、お母さんがリビングから飛び出してきた。

「ミシン、見つけたよ」

 それだけ言って、わたしは家の中を進んでいく。おばあちゃんの部屋に入ると、お母さんも一緒についてきてくれた。

 畳にひざをつくと、わたしはお母さんに頭を下げた。

「お母さんお願い。おばあちゃんのミシン、わたしに使わせて」

「危ないからだめって言ってるでしょ。みうは覚えてないでしょうけど……」

 お母さんが言いかけたのをさえぎるように、わたしは首をふった。

「おばあちゃんに教えてもらったことがある。小さいころわたし、ミシンの針を指に刺しちゃったんでしょう」

 お母さんが息をのんで、痛そうな顔をする。針で刺されるより、つらい思いをした顔。

「傷あとも残ってないし、わたしは針をこわいとも思わない。わたしもう、中学生なんだよ? 小さな子供じゃないの」

「別にミシンを使えなくたって、生きていくのに困ることないでしょう。服もバッグも、売ってるんだから」

 お母さんの圧に押されて、口ごもってしまう。

 わたしは人と言い合うことに慣れていない。

 小さなころから誰かとケンカになるのがいやで、家でも学校でも自分の主張を押し通すっていうことがなかった。

 でも、初めて見つけたんだ。

 これだけはゆずれないっていうものを。

 頭と心をフル稼働させて、言葉を集める。お母さんを説得する言葉を。

「おばあちゃんの背中が好きだったの」

 今関係あるの?というように、お母さんが小首をかしげる。

「ミシンを使うおばあちゃんの背中が好きだった。ミシンの音が好きだった。ミシンで服が作られていくのを見るのが好きだった」

 お母さんの顔が、何だか辛そうにゆがむ。

「お母さんもきっと知ってるよね? 服やバッグができあがった時のおばあちゃんの顔。青空みたいにピカピカしてて、ほこらしげで、やりとげたって顔してるの」

 おばあちゃんのあの顔を思い出す。できあがった服をわたしが着てみせた時の、いとおしそうな顔も。

「わたしも、あんな顔をしてみたい! それは、お金じゃ買えないの」

 つっと、お母さんのほおを、ひとすじ涙がこぼれ落ちていった。

「お母さん?」

「初めてね。みうがこんなに何かをやりたいって言ってくるの」

 手のひらですっとほおをなでると、もうお母さんの涙は消えていた。幻みたいに。

「しょうがないわね」

 昨日と同じ言葉を言われて、すっとお腹のあたりが冷たくなる。

「教えてちょうだい。お店の名前」

「え?」

「ミシンのあるお店の名前。本当に覚えてないのよ」

 わたしはあわててスマホを取り出して、骨とう品屋さんの名前と電話番号をお母さんに見せた。

 お母さんが電話をかけてお店のおじさんとやりとりしている間も、やっぱりだめになるんじゃないかって気が気じゃなかった。

 電話を切ったお母さんが、わたしのほうを見る。

「明日の夕方、ミシンを持って来てくれるそうよ。お金渡しておいてちょうだいね」

 冷たくなっていたお腹が一度に温かくなって、喜びが体じゅうをかけめぐっていった。

「ありがとう! お母さん」

「ケガにだけは気をつけるのよ。針とハサミと、アイロンは特に」

「うん、わかった」

 うれしさのあまり、お母さんに飛びついてギュッとする。前はお母さんの顔がずっと上のほうにあったはずなのに、目線が近くなっている。

「やだもう、子供みたい」

「お母さんの子供だもん」

 これからはお母さんに隠れることなく、堂々とミシンが使える。そのことが何よりうれしかった。

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