第4話 ミシンのレッスン
真弓ちゃんと話し合った結果、梓君が帰る途中でおばあちゃんが乗り移るということに決まった。
梓君がいつもまっすぐに帰ってくれればいいけど、たまには友達とファーストフード食べに行ったり、図書館に寄ったりなんてこともあるらしい。
そこはおばあちゃんが梓君に張りついて、今日は無理だよという時は待ち合わせ場所で合図を送る。
待ち合わせ場所は、家の近くの公園。
風もないのにブランコがゆれたら、今日は行けないの合図。
昨日初めて待ち合わせしてみたのだけど、ブランコがゆれてダメなんだなとわかった。
そして今日、再びのトライ。
ベンチに座って、小さな子が砂場で遊ぶのをながめながら、二十分は待ったかな。
今日はあいにくブランコはずっと埋まっていて、ダメだとしてもおばあちゃんも合図を送れないのかもしれない。
もう十分待って来ないなら家に帰ろうかなと思っていた時だった。
「ごめんごめん。お待たせ」
梓君の声だった。立ち上がって振り向くと、小走りでこちらに向かって来る制服姿の梓君がいた。
状況だけ見ると、放課後待ち合わせてデートする学生みたいだ。
本当は、おばあちゃんと孫の待ち合わせなんだけどね。
「いやー、参ったよ、この子家とはちがう方向に行くから何の用かと思ったら、ノラ猫のたまり場で猫とじゃれてるんだよ」
猫、好きなんだ。梓君。
「さて、家に帰ろうかね、みうちゃん」
おばあちゃんが手をつなごうとしてくるから、あわてて拒否する。
「みうちゃんったら、中学生になったらもう手つないでくれないのかい」
「ちがうちがう。おばあちゃんの見た目、男の子だから」
「見た目なんて、関係ないのにねえ」
残念そうにおばあちゃんはつぶやくけど、わたし達に関係なくても、よその人が見たら誤解しちゃうから。
知り合いに見つからないように気をつけながら家まで移動して、カギを開けて中へと入る。
「ただいま」
おばあちゃんがいなくなってからも、くせでこれは言い続けていた。わたしに続いて玄関へ入ったおばあちゃんが、にっこり笑って言う。
「お帰り、みうちゃん」
久しぶりの感覚だった。胸がほわっと温かくなって、涙が出そうになる。
本当におばあちゃん、帰って来てくれたんだ。
和室の引き戸を開けると、「あぁ……」とおばあちゃんはため息のような声をもらした。
ミシンにかけていた布をはずすと、いとおしそうに白いボディをなでる。
「ちょっと待ってね。油を差したり、調子をみたりしたいから」
「じゃあわたし、着替えてくるよ」
二階の自分の部屋で着替えておばあちゃんの部屋に戻ると、木のイスに腰かけて、ミシンに向かってピンと背を伸ばすおばあちゃんの姿があった。
制服のブレザーはぬいで、白いシャツを腕まくりして、ミシン本体の下の方を分解して小さなブラシで掃除している。
「ああ、みうちゃん。見ておいて。ここがかまと呼ばれる部分。糸くずとかがはさまった時はここを分解して掃除するんだよ」
穴の中に油を差して布で拭くと、おばあちゃんは分解した部品を元に戻していく。輪っかみたいなのや、小さなかまみたいな部品や。それぞれをピッタリ納めると、小さな部品を見せてくれた。
「これがボビンケース。学校で習ったよね」
「うん。下糸を入れるケースでしょ」
ちなみに下糸を巻くのがボビンという部品だ。
「そうそう。じゃあケースにボビンを入れてみて。糸の向きは時計周り」
小学校で習ったことだけど、ちょっと忘れかけている。時計周りだとこっち周り。糸を引っ張って向きを確認して、ボビンケースに収める。
「糸のはしは、どこから出すかわかる?」
「この切れこみのところだよね?」
切れこみに糸をかけて引くと、スーッと糸が引っ張れるようになった。
「下糸の調子は、糸を持って振った時に、10センチくらい下がるのがちょうどいいとされてるよ」
「えっと、こう?」
糸のはしっこを指でつまんで、ケースを軽く振ってみる。糸が引き出されて止まる。ちょうど10センチくらい。
「いいね。この時きつすぎたりゆるすぎたりしたら、ネジで調節できるからね。さあ、ボビンケースをミシンにセットしてみて」
えっと、この後ろのつまみを引きながらセットするんだったよね。それでこのつのみたいな部分を本体の穴に合わせるはず。
油でピカピカに光る穴の中にボビンケースを入れて押しこむと、カチッと音がしてはまった感触があった。
「よしよし」
自分でもボビンケースがはまっていることを確認して、おばあちゃんは金属製のふたをしめる。
「糸と針は、ここにしまってある」
机の一番広い引き出しを開けて、おばあちゃんは見せてくれた。
「これが針入れ。気をつけて取り扱うんだよ」
おばあちゃんの表情が一瞬引きつった気がした。
白いケースを開けると、ミシン用の針がずらっと並んでいた。
「わかりやすいように、こっちが厚地用の針、こっちが普通地用の針にしてある。布の厚さによって使い分けるんだよ。今は練習だから、普通用の針にしておこうか。これを抜いて、ミシンに差しこんでみて」
針をケースから抜きとって、ミシンの針の差しこみ口に持っていく。
「向きがあるからね。平らなほうが向こうだ」
針の上部分の平らになっているほうを窓側に向けて、針をさしこんでみる。突き当たったところで止めた。
「それで、ネジをしめる。まずは手でしめて、仕上げにこれを使って」
針が落ちないくらいにネジをしめて、おばあちゃんに手渡された小さなネジしめをネジの頭に差しこむ。向きに気をつけてギュッとしめると、針がしっかりとまるのがわかった。
針がぐらぐらしないか確かめて、おばあちゃんはうなずいた。ほっとしたのか、肩から力がぬけるのがわかった。
「さあ、次は糸かけだ。学校のミシンとは順番がちがうだろうから、説明書を見ながらやってごらん」
白い糸巻きを手渡されて、説明書と見くらべながら、糸立てに置く。番号のとおりに糸をかけていくけど、確かに学校のミシンとはちがっていた。てんびんと呼ばれる部分は穴があいているだけで、横から糸を通さないといけない。学校のミシンは上に切りこみがあったのに。
それでも順番通りに糸を通していって、最後が針の糸通しだった。
「気をつけてね」
またおばあちゃんが、表情をひきつらせる。糸をまっすぐに持って、こちらからむこうがわへ。一度ではできなかったけど、何度かやったらすっと針の穴に糸が通った。
「よおし、できた」
おばあちゃんがおおげさにため息をつく。そんなに緊張しなくても、小さな子じゃないから大丈夫なのに。
「じゃあ、直線ぬいをやってみようか。白い糸だから色の濃い布がいいね」
押入れから箱を持ってくると、おばあちゃんはふたを開けた。中には色んな布のはぎれが入っている。
「あ、これ、小さいころのスカートの布。こっちはお弁当袋に使ったやつ」
思い出の切れはしがつまっているみたいで、ついつい見入ってしまう。
「ほらほら、時間がなくなるよ。この布ならあつかいやすそうだね」
紺色の布を取り出して、おばあちゃんはわたしに手渡す。
「さあ、ぬってみてごらん」
ちょっと緊張しながら、わたしはイスに座る。
「ぬっていく方向は、自分のほうから、窓に向かってだからね」
「うん」
「これは、はずみ車っていう」
おばあちゃんが、ミシンの右側にある丸い部分に手をかけて言う。
「ここを動かすと、針が下りて来る。まずは一度回して下糸を出さないとね。やってみて」
はずみ車を回して針を下ろしてそのまま上げる。すると下から糸が輪っかになって出て来た。それを引っ張ると、下糸が出てくる。
「糸は、窓側の方に出しておくといい。さあ布を置いて、針を下ろして」
布を針の下に置くと、左手で布を押さえながら、右手ではずみ車を回した。ゆっくり針が下りて来て、布に刺さる。
「押さえを下ろして」
押さえのレバーを下ろすと、バンという音と共に押さえが下りた。
「明かりはここでつける」
スイッチを押すと、針の下をライトが照らしてくれる。
「後は、フットコントローラーをゆっくり踏みこめば動き出すよ」
ゴクンとつばを飲みこんで、布を両手で押さえると、じわじわとコントローラーに置いた足に力をこめた。
ウォンと、ミシンの中のモーターがうなり声を上げる。何だか本当に、生き物みたいだ。
「もうちょっと踏んで」
力加減に気をつけながらコントローラーを踏みこむと、モーターの音がして針が動き出した。ダッダッダッと音を立てながら、針が上下して紺色の布の上に白い縫い目ができていく。
布がよれないように、正しい方向に進むように、わたしはしっかり両手で布を押さえていた。
学校のミシンはボタンを押してスタートさせるものだったけど、足で操作すると自分のスピードで縫えるし、両手が使えるからこっちのほうがわたしには合ってるみたい。
まっすぐ縫うことだけに気をつけて、布のはしまで来るとわたしは足を止めた。
「そうだ。返し縫いもしてみようか。ここのボタンを押しこむと、縫う方向が逆になるんだよ」
おばあちゃんが一番上の銀色のつまみの真ん中を押す。コントローラーを踏みこむと、針は逆向きに進んでいって、縫い目の上をたどるように縫っていく。
「五針くらい進んだらまた元に戻して、最後まで縫う」
五針で針を止めて、ボタンをまた押して縫い目の上をまっすぐ縫っていく。
ミシンを止めて針を上げると、おばあちゃんが「布は送り方向からはずしてね」と言う。送り方向っていうのは、布の進む方向でいいのかな。窓側のほうから布をはずすと、糸がついてくる。
「糸切りはここについてるよ」
学校のミシンと同じ横の位置に、糸切りがついていた。そこに糸をかけると、プツンと二本の糸が切れる。
「返し縫いをしたらほつれないから、糸はそのまま切ってしまっていいよ」
縫い始めと縫い終わりの糸の長い部分を、根元から糸切りバサミで切ればでき上がりだった。
「縫えたー!」
あこがれのおばあちゃんのミシンで、初めて縫えた。
たった一本の直線だけど、自分で縫えたっていうことがうれしい。
「糸の調子もいいみたいだね。細かい調整はまた今度教えるよ。今日はもう、時間がない」
時計を見ると、おばあちゃんが梓君の体を使い始めて一時間くらい経っていた。一度につき一時間までが、真弓ちゃんとの約束だ。
ミシンの周りを片づけて、道具をしまって、カバーをミシンにかける。
「じゃあまた今度ね」
玄関でおばあちゃんを見送って、その背中を見届ける。しゃんと背中を伸ばして歩いていったおばあちゃんが、途中で足を止めて周りをキョロキョロ見回した。
きっと梓君に戻ったんだ。
それから二日に一度くらい、おばあちゃんとミシンの練習をする日が続いた。
まっすぐ縫えるようになったら、角度を変える練習。曲線を縫う練習。
アイロンをかけて三つ折りにした布を縫う練習。
それから、ジグザグ縫いをする練習。
ジグザグ縫いのやり方も、学校のミシンとはちがっていた。学校のミシンはボタンを回してジグザグ縫いに合わせるけど、おばあちゃんのミシンには針が横に振れるレバーがあって、そこで振りはばを決めて、ジグザグ縫いをするんだ。
何度か練習するうちに、糸の調子の合わせ方も覚えて、油を差す場所も覚えて、少しずつおばあちゃんのミシンに慣れてきたように感じていた。
その週末、土曜日の午後のことだった。
お父さんは出張でいなくて、お母さんはお父さんのいないすきに羽を伸ばすのだと言って、友達に会いに出かけて行った。
お昼ご飯に冷凍のグラタンを食べて、アニメを見ながらゴロゴロしていた時だった。
インターホンがピンポーンとなる。宅配便かなとカメラを見ると、梓君だった。
梓君? しかも一人だ。
玄関ドアを開けてみても、やっぱり梓君一人だった。
「梓君?」
それとも、おばあちゃん?
だまったままだと、どちらなのか、わたしには判断できない。
「デートしようか。みうちゃん」
「へ?」
突然言われて、間の抜けた声が出てしまった。
いきなりデートのお誘い? いやいや、でもこういうことを言うのは。
「おばあちゃん?」
「なあんだ。もうわかっちゃったの?」
くだけた口調と笑顔で、おばあちゃんだとわかる。
「梓君は、そういう軽いこと言わない人だと思うから」
「ふふん、そうかい」
からかうような目でわたしを見ると、おばあちゃんは玄関の中へと入って来た。
「お父さんは出張中で、お母さんはお友達とお出かけだろう?」
前のレッスンの時言ったことを、おばあちゃんはしっかり覚えていたらしい。
「真弓ちゃんに許可はもらってきたからね。今日は二時間まではオッケーだって」
真弓ちゃんって……。相変わらず梓君の意思は無視なんだなあ。
「でも、デートっておばあちゃん、どこに行くの?」
「バッグの材料を買わなきゃいけないだろ。ちょっと着替えてくるから、みうちゃんも出かける支度しておくれ」
え? 着替えるって、何に?
下はジーンズのまま上着だけ着替えて、お出かけ用バッグを手に待っていると、和室の戸が開いておばあちゃんが現れた。
「お、おばあちゃん?」
おばあちゃんが着ていたのは、ワンピースだった。若草色の地に黄色のミモザの花と葉を散らした模様。
おばあちゃんが今のお母さんくらいの年齢のころによく着ていたんだって、見せてくれたことがある。
「どう? 似合うかい?」
しょ、正直に言って、似合ってる。
梓君の髪形は男の子にしては長めだし、顔立ちもすっきり整っているから、ボーイッシュな女の子で十分通用しそうだ。
で、でも。
「その格好で出かけるの?」
「変かね?」
「変じゃないけど、梓君の知り合いに会ったら、困るのは梓君でしょ」
梓君に女装の趣味があるなんてうわさが広まったら、取り返しがつかないことになる。
「じゃあ、みうちゃん。ぼうし貸しておくれ。ほら、レモン色のチューリップハット」
おばあちゃんに言われたレモン色のぼうしを持って来ると、おばあちゃんにかぶせてみた。深めのぼうしだから目がちょっとのぞくくらいで、これなら知り合いでも梓君って気づかなそうだ。
「あら、いいじゃない。服にも合ってる」
玄関の鏡で全身を確認すると、おばあちゃんはウキウキとした感じでスニーカーをはいた。
「ほら、早く行くよ、みうちゃん」
「はいはい」
玄関のカギをかけてもう歩き出しているおばあちゃんを追いかける。本当に大丈夫かなって、ちょっとした不安を感じながら。
二人でまず向かったのは、手芸の井上だった。
「ああ、やっぱりここはいいねえ。おや、新しい布が入ってる」
他のたなに向かいそうになったおばあちゃんを、あわてて引き留める。
「おばあ……梓ちゃん、時間あんまりないんだからね」
「ああ、そうだった。まずはこの間のオックス地だね」
一目ぼれしたあのオックス地のたなの前に行くと、おばあちゃんが札を見せてくれる。
「110センチ巾とあるだろう。これが布の横の長さ。それでこれは10センチ単位で購入できるものだ。自分が欲しいだけの縦の長さを言って、カットしてもらうんだよ。量り売りっていう売り方だ」
おばあちゃんが布を買うところは見ていたから、そういうことは知っている。
「持ち手もこれで作るから――80センチ買っておこうか。あとは……」
おばあちゃんは他のたなへと移動した。
「底の布はもう少し丈夫なものにしたほうがいい。この11号帆布がいいと思うけど、どうだい?」
「いいけど……この8号帆布と何がちがうの?」
「8号より11号のほうが薄手なんだよ。みうちゃんにはまだ、あんまり厚い生地はむずかしいかと思ってね。どの色にしようか?」
帆布の生地はカットずみのものだった。11号の棚の中から、ネイビーの生地を取り上げる。試しにオックス地と重ねてみたら、ベージュに水色の模様をネイビーが引きしめてくれる。
「ああ、いいね。それで決まりだ」
布をカゴに入れて、レジへと持っていく。自分で言うんだよと言う顔で、おばあちゃんが見つめてくる。
「この布は、80センチでお願いします」
「はいわかりました。みうちゃんも、ミシン使えるようになったんだね」
顔なじみのおばさんにそう言われて、「まだ練習中で……」と赤くなりながら答えた。
手芸の井上を出るとおばあちゃんは、商店街をずんずん歩いて行く。時々お店の前で足を止めて飾られているバッグや服を眺めて、また歩いて行く。
「おばあちゃん、どこに行くの?」
「ドーナッツ屋さん。この先に、新しくできたんだろう?」
そのお店はこの春オープンしたばかりで、わたしも一度真弓ちゃんと行ったことがある。
お店に入ると、土曜日の午後だから混みあっていた。店の外のテラス席に空いているところを見つけて確保してから、カウンターに向かう。
ドーナッツを一個ずつと、飲み物を買うと席に落ち着いた。
テラス席には水色のストライプのサンシェードがかかっていて、パンジーのつまったコンテナがあちこちに置かれている。
おばあちゃんはアイスティー、わたしはカフェラテ。向かい合ってストローに口をつけると、何だか胸の辺りが落ち着かない。スーパーボールが胸の中で飛びはねてるみたいな、ソワソワするような、ドキドキするような。
中身はおばあちゃんってわかってるけど、それでもその外側は梓君で。
本当にこのシチュエーション、デートみたいなんだもん。
わたしももうちょっと、かわいいかっこうしてくるんだったと、周りの女の子のワンピースやスカートを見て思ってしまう。
ここのドーナッツは、大き目で中にたっぷりクリームが入っているのが特徴だ。おばあちゃんはカスタードクリームのものを、わたしはチョコクリームを選んでいた。
二人で「せーの」でドーナッツにかじりついて、一緒に笑顔になる。生地はふんわりしていて、クリームはなめらか。口の中で溶けていく。
「おいしいねえ」
「おいしい」
もう一口かぶりつくと、おばあちゃんがフフッと笑う。
「みうちゃんったら、鼻にクリームつけてるよ」
紙ナフキンでおばあちゃんが、鼻の頭を拭いてくれる。
一瞬だけ近づいた顔に、胸のドキドキが激しくなった。スーパーボールがゴンゴン音を立ててはねてるみたい。
おばあちゃんだって、頭ではわかってるのに、わたしを見つめる目は梓君のもので。意識してしまうと、まともに顔を見ることもできなくなってしまう。
「みうちゃん、今日はおとなしいね。具合でも悪い?」
「そ、そんなことないけど。でも、生地が買えたんだから、早く縫いたいなって……」
「そうだねえ。じゃあこれ食べたら、帰ろうか」
ほっとして、梓君の顔をあんまり見ないようにしながら、残りのドーナッツを味わった。
家までの帰り道。おばあちゃんは何だかなごりおしそうに、ゆっくりと歩いていた。
「おいしいものも食べられて、買い物もできて、お気に入りのワンピースがもう一度着られて、ほんといい日だった。梓君に感謝だねえ」
梓君の名前が出ると、チクッと胸が痛む。
前からずっと、そのトゲは胸に刺さったままだった。
梓君には内緒のまま、勝手に梓君の体をおばあちゃんに使わせている。
真弓ちゃんが許してくれていたって、本人に内緒のままなんて、やっぱりよくないよね。
でももしも、梓君にだめって言われちゃったら……。そうしたらもう、おばあちゃんと話すこともできなくなってしまう。
考えながら、足が止まってしまった時だった。
おばあちゃんが、クシュンと大きなくしゃみをした。
そのとたん、おばあちゃんの顔がポカンとして、キョロキョロ辺りを見回す。
「えっと、笠森さん……だよね? 真弓の友達の」
おばあちゃんの柔らかい笑顔が消えた顔が、とまどったように、わたしに問いかける。
ど、どうしよう。
この状況で、梓君に戻っちゃったんだ。
「あ、梓君?」
「うん。俺、何でここにいるんだっけ?」
「あ、あの、落ち着いてね」
「いや、落ち着いてるけど?」
おばあちゃん、もう一度体に戻れないかなと願ってみたけど、そんな奇跡は起こってくれなかった。
「取りあえず、落ち着いて、下とか見ないようにね」
「下?」
言葉選びをまちがえたと、思ったところでおそかった。
梓君は下を向き、何だこれ、というように、スカートをつまんだ。
「スカート?」
ヒラヒラッとスカートをふって、自分がそれを着ているんだと確認して、梓君の顔がみるみる青ざめていった。
「な、んだ……これ」
「あ、あのね、説明すると長くなるんだけど……」
わたしの声なんか耳に入らないみたいに、自分の全身を確認して、梓君は頭を抱えた。
「うわあぁぁぁぁ!」
怪獣の雄たけびのような声を上げて、梓君はその場にうずくまってしまった。
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