第8話 下の名前で呼ばれたい

 家にお邪魔して2人っきり。2人だけということからもっと早く気付けば良かったんだ。こうなることを。


 神楽さんの家に来てから一緒にパウンドケーキと紅茶とお茶をしていると彼女は俺に少しずつ近づいてきた。


「奏翔の食べてる時の幸せそうな顔、私、好きだなぁ」

「そ、そうなんだ……俺も神楽さんの幸せそうな表情は好きだよ」


 この腕にぎゅーと抱きしめられて、いろいろとヤバい状況だが、彼女と会話する。


 理性が飛ばないよう無でいるんだ。腕に柔らかい感触がしても、神楽さんから甘い香りがしても。


「神楽さんだとちょっと寂しい……奏翔は何で美月って呼んでくれないの?」


 中学の頃から何度も聞かれたことだが、理由はただ神楽さん呼びになれてしまって彼女のことを下の名前で呼ぶのに緊張してしまうからだ。


「いつか自然と呼べるようになるまで少し……っ!」


 急に視界が暗くなり、俺はこの状況にさらにヤバい状況へと追い込まれていた。


 神楽さんが俺の首に手を回し、その状態で抱きしめてきたので、顔にふにふにが当たった。


(神楽さん、むっ、や、柔らかいものが顔に当たってるんですけど……)


 とんとんと彼女の背中を優しく叩くと何とか解放されて、俺は息を吐いた。


「1回呼んでみて?」

「……み、美月……」

「! いざ呼ばれるとドキドキしちゃう……」

 

 ドキドキするのは呼んだ俺もだ。呼ぼうとすると照れくさくなりずっと名字で呼んできたが、これからは呼べるよう頑張ろう。


「名前呼ばれてこんなに幸せなの初めて。奏翔は、どれだけ私をドキドキさせるの?」


(いや、俺も十分、美月にドキドキさせられてますけど……)


「あっ、そう言えば、奏翔は、試験勉強始めてる?」

「試験勉強はまぁ……授業の後に復習してる程度なら」


 試験の何日前から勉強を始めるということはしたことがない。授業があればその日のうちに復習し、できるようにしている。そうしていないと苦手が溜まっていくからな。


 身近な人だと陽菜は溜め込むタイプでいつも試験前になると俺か美月に泣きついてくる。大智はというと試験の1ヶ月前から少しずつ勉強していっているのであまり焦ってる様子はない。


「試験前、一緒に勉強しない? 今回の数学、難しくて不安で」

「あ~確かに難しいよな。大智も陽菜も混乱してたよ。わかった。一緒に試験勉強しようか」

「やったっ。いつにする?」


 試験まではまだ1ヶ月ある。苦手なところは早めに勉強を始めた方がいいだろう。


「来週あたりからやろうか」

「うん」


 試験勉強の約束をし、一口しかつけていない紅茶を飲んだ。それから彼女が用意してくれたパンケーキを一口サイズパクリと食べる。


 美味しい。これはおそらく市販品じゃない。美月の手作りだ。


「やっぱりみ……美月はお菓子作りが得意だね。パウンドケーキ美味しいよ」

「ありがとう。お菓子作りと料理は昔、お婆様に教えてもらったの。料理スキルは必ず将来どこかで使うからって」


 彼女の表情は柔らかく、懐かしい思い出を思い出すかのように話してくれた。


「奏翔にもお婆様が作る料理食べてほしいな。ほっぺたが落ちるぐらい美味しいから」

「へぇ、美月がそこまでいうなら気になる」


 美月が料理上手なのは作ったものを食べていてわかるが、彼女がほっぺたが落ちるぐらい美味しいというお婆様の作る料理が気になる。


「じゃあ、私が作ったの食べてみる? お婆様から教えてもらったもので何か作るけど」

「い、今から?」

「今からじゃないけど、夕食食べていかない? この前、奏翔の家でご馳走になったから今度は私が作るよ」


 あれは作ったのは俺のお母さんで、俺ではないのだが、美月は作るき満々だったので、断ることはできなかった。


 夕食までの時間は美月とまったりと話して過ごし、日が暮れた時間になると彼女はキッチンへ行き、夕食を作り始めた。


 最初、手伝うよと言ったが、美月から運ぶときだけ手伝ってほしいと言われてソファに座って待つことにした。

 

 待っている間、ニュース番組を観ているといい匂いがしてきた。


 それから数分後。美月に呼ばれ、夕食をテーブルへ運ぶのを手伝った。


 作ってくれたメニューは肉じゃががメインでご飯、お味噌汁、ほうれん草のお浸し。見た目はお店で出てきてもおかしくないほど美味しそうだ。


 俺と美月は向かい合わせに座り、手を合わせた。


「「いただきます」」


 お箸を手に取り、いつもなら副菜から食べるが、肉じゃがを最初に食べることにした。


(ん、何これ、うまっ!)


「美月、この肉じゃが、美味しいよ」


 いつもよりテンションの上がった声量で彼女に感想を述べると美月は嬉しそうに笑った。


「良かった。お婆様がね、好きな男子に好きになってもらうにはまず胃袋を掴めって言ってたの」


 俺、すでにもう友達として美月のこと好きなんだけど……というかそんなことを言うお婆様がどんな人か気になってきた。


「この美味しさは胃袋掴まれるよ」

「ふふっ、美味しいのなら良かった」


 肉じゃがは後でまた食べることにして、温かいうちに味噌汁をいただく。


(うん、美味しい……)


 その後、美味しすぎて黙々と食べ、完食した。作ってもらったのでお皿は俺が洗い、美月はその間、布巾でテーブルを拭いていた。


「お皿洗い終えたよ」

「ありがとう、奏翔。お礼にぎゅーしてあげる」


 いや、いいよと断ろうとしたが、断るタイミングなく、美月にぎゅーと抱きしめられた。


 彼女は親しい人によく抱きついているがそれはおそらく何か理由があるんだろう。例えば寂しいとか。


(もし、寂しいだとしたら……)


 彼女の背中に手を回してぎゅっと抱きしめ、自分の方へ引き寄せた。


「かな……と……?」

「こうしてると安心感が得られて寂しさも不安もなくなるんだ。俺だけかもしれないけど……」


 小さい頃、お母さんがよくやってくれたように彼女を優しく抱きしめる。


「……うん、安心する。ありがとう、奏翔」



***



 何をしてしまったんだろう。寂しいかなんてわからないのに気付いたら抱きしめてしまった。


 神楽さんの家から出て、家へと向かう中、俺は先ほどしてしまったことを思い出す。


(何やってるんだろう、俺……)





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