サイレントプール
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サイレントプール
朝目覚めると、とんでもなく綺麗なボトルがテーブルに有った。
透き通るようなエメラルドグリーンのボトルに光輝く
名前は湖の名をそのまま頂いた、サイレントプール。
脈絡のないアイディアを書き留めたメモ帳や、開封もしていない手紙に役所の通知、折り畳まれた新聞に、空いたプレッツェルの袋なんかがごちゃごちゃと散乱したテーブルの上で、ただ一つだけ、朝陽を浴びて美しく沈黙しているそれを、ニム・ハーバーは呆然と見つめた。
――なんだって、こんなものが家に有るのか?
うっすら痛むこめかみを押さえ、どうにか昨夜のことを思い出そうと努めた。
何も思い出せない。
頭が重しを足されたようにずしんと痛む。胃も重い。
昨夜酔っていたのか? 覚えていないが――こんなものを酔った気分で買ったのか? 居合わせた美女にでも勧められたか?
まあ、酔って陽気になった自分がそういうことをするのは珍しくも何ともない。
しかも、昨日は金曜日。休みを返上することもある仕事人の自分が、久しい土曜の休みにかまけて楽しく飲むことは有っても――まあまあ有ってもいい筈だ。
考えるのを面倒臭がった脳が何も教えてくれないので、ニムは美しい瓶を横目に、のろのろと部屋を渡ってバスルームに入った。
やや熱めのシャワーを浴び、ソープの香りを嗅ぐと体はすっきりしたが、役に立たないおつむは復活しなかった。鏡で顔を見、くしゃくしゃになったベージュの髪と、自身の森のような
どうもおかしい。
そもそも、何処で飲んでいた? 記憶が戻らないほど泥酔することなど滅多にない。
第一、そこまで醜態を晒していたのなら、あの美しい瓶を割ることなく家に持ち帰り、安全なテーブルに置いてからベッドに寝るなど不可能だ。せいぜい家の前か、玄関で居眠りをするのがオチだろう。
部屋まで送り届けてくれる優しいパートナーなぞ居たことはない。
……ひょっとすると、黒い大熊みたいな体躯をした親友なら運んでくれるかもしれないが……彼は出張が多い身で、昨夜ロンドン周辺に居たのかも謎だ。
ふと、ニムは髪を拭くのも程々に大急ぎでバスルームを飛び出すと、慌ててバッグを確認した。財布は有った。中身も有る。減ったかどうか……は、あのジンを買った可能性を含めて微妙なところだが、勝手に抜き取ってまであの瓶を買わせるような人間が居るとは思えない。領収書でもあれば店の名前がわかるかと思ったが、財布の中はおろか、バッグをひっくり返しても出てこなかった。
窓の外で小鳥が鳴いている中、物言わぬエメラルドグリーンを前に唸った。
答えを求めて、馴染みのパブにランチに行くと、顔見知りが居た。
「やあ、ニム」
「ギブソンじゃないか。久しいね」
先に気付いてくれた相手に片手を上げ、目の前の空席に座った。幾らも変わらぬ歳なのに、調査会社の凄腕調査員である彼は、常にノートパソコンと向かい合っている。
「仕事中かい?」
「いや、君と同じランチだよ。
満更ジョークでも無いのだろう。ネット上を飛び回り、世界中の情報にアクセスする男は、コーヒーをひと口飲む隙も無いらしい。
ニムも同じ調査会社で非常勤をしているが、あくまで非常勤であり、本業の作家が主なのでだいぶ気楽だ。担当編集者から来るおぞましい電話は似たようなものだが。
たっぷり同情の意を示して、ニムは彼と同じメニューを注文した。日曜日に出すのが定番のサンデーローストを別の曜日にも出してくれるこの店は、良心的で大好きだ。
料理を待つ間、ニムは何気なく今朝の珍事件について聞いてみた。
「目覚めたら、記憶にないサイレントプールが有ったって? ……なんだか作家らしいミステリアスな出来事だね」
面白そうに聞いてくれたギブソンだが、心当たりは無いらしい。
「社に戻ったら、君と飲んだか、昨晩に見かけた人が居ないか聞いてみるよ」
「ありがとう。……ところで、ブラックはロンドンには帰ってる?」
「ブラック? どうかな。彼はあんまり社にも居ないけど……今朝は見ていないな」
そうだろうと思っていたので、ニムは頷いた。
部屋に入る程の知り合いでは、泥酔した自分を運べるなど、彼ぐらいしか思いつかないのだが。
「彼が犯人か、電話してみれば?」
「そうしたいのは山々なんだけど……彼の仕事は危険なものが多いから。僕の電話でトラブルが起きたら気の毒だし、ペトラに首を絞められたくない」
「ハハハ……確かに、ペトラは君に厳しい。姉さん感覚なのかな」
一理あるが、世間の姉というものが、いきなり単身者の家に入ってきてコーヒーを淹れろと命じたり、面倒な調査を説明不十分で押し付けたり、命の危険が生じる僻地に送り込んだりしなければの話だ。
「他に、ニムの部屋に入りそうな人は?」
「社の皆はやりそうだけど……そこは疑い出したらキリが無いね。ペトラもそうだし、ボスとラッセル辺りは堂々と正面突破してくるはず」
「君の周りは我が社のビッグネームに溢れてるね」
他人事だと思って楽しそうなギブソンに苦笑するが、全くその通りだ。
これは別に自分が優れた人間だからというわけではない。むしろ逆。
不肖、ニム・ハーバーが世界的調査会社・
……ちなみに、一般的な「ニック」にならなかったのは社内に居た為とのこと。
「ボスもラッセルも君を可愛がってるからなあ……案外、どっちかのサプライズじゃないの?」
「それが本当なら嬉しいけど、ラッセルはメモぐらい残すだろうし……ボスはやるならもっと派手にやると思う」
「容疑者は居るのに確証が無いのか。この件でミステリーが書けそうだね」
よっぽど作家の発想をしている友人に現役作家が曖昧に頷くと、彼は首を捻った。
「ジンで思い出したけど、通りにジンを飲ませる専門店が出来たよね。今夜がオープンじゃなかった?」
ギブソンの言葉に、そういえばとニムも思い出した。
スコッチが有名なイギリスだが、ドライジンも代表的なアルコールだ。近年はワインや他国のビールも人気の中、ジンは洒落たボトルが多く、クラフトジンは自由度が高いこともあって種類が豊富だ。ギブソン曰く、今、ニムの部屋に静かに佇むサイレントプールもイギリスを代表するジンであり、ボトルの美しさでは随一とのこと。
ジンのクリアな透明感を強調するすっきりしたボトルや、細工彫りのあるもの等々、華美な瓶をずらりと並べて提供する店はトレンドのひとつになっている。
「実は取材で行ったとか」
「取材かあ……」
はて、そんなオシャレな取材に行くような仕事が有っただろうか。
生憎と、物書きではあるが、記者ではない。執筆中の作品は児童書向けの物語と、月刊誌のエッセイ、女性誌向けのコラムだ。コラムが怪しいが、いつも好きなこと――キンカメムシとジュエリーの話だとか、食虫植物とフェロモンの関係性などを書いては怒られているので、記憶の無い昨日の自分が気を回した……? オープン前の店をリサーチし、女性にウケそうなサイレントプールを買って?
……誰だそいつは。一時的に別人にでもなっていた気分だ。
「Hi, ニム」
軽やかな挨拶と共に名前を呼ばれて振り向くと、グレイビーの掛かったローストビーフとポテト、野菜、シュー皮みたいなヨークシャー・プディングが乗ったプレートが置かれた。
「こんにちは、ポリー」
「難しい顔してるのね」
「
「なあにそれ。ブラックは来ないの?」
呆れ顔で言う女に、ギブソンが自身を指差して「このハンサムで我慢したまえ」とおどける。「悪くは無いけど、役不足ね」と笑う女に、ニムは料理に手をつける前に訊ねた。
「ねえ、ポリー……僕、昨晩、此処に来なかった?」
「ウチに? イイエ、見てないわ」
「本当?」
「ええ。ニムが来たら、今みたいにブラックが来ないか聞きに行くもの」
その通りなので頷いた。彼がロンドンに居る時は一緒に食事をすることも多いので、親友のハンサムを楽しみにしている人と出くわす。キャバリアとシェパードが歩いているようだとよく言われるわけだが――無論、こっちがキャバリアだ。
「あたしは日付が変わる前には上がったけど、ニムは深夜に飲み歩くタイプじゃないでしょ?」
「ニムはラッセルが育てた品行方正な紳士だからね」
ビーフを咀嚼している間、代わりに答えてくれた友人に頷くと、事情を聞いたポリーがクスクスと笑った。
「紳士かどうかはともかく、ニムは酔い潰れて奇行に走るタイプじゃないわね。美女の前で良い顔をしようとするのかは知らないけれど――……でも、そうね……サイレントプールは価格帯は手頃よ。羽振りのいいフリをするにはインパクトが弱いわ」
どうやら、シリーズには高価なボトルが有るというが、その色はブラックだという。ジンには必須であるジュニパーベリーの中でも、「ブータンの黒い宝石」と呼ばれる貴重なブラックジュニパーを使った一品。
何やら説得力のある意見を聞きつつフォークを動かし、ニムは首を捻った。
「ねえ、ポリー。この店で『サイレントプール』は出る?」
「出るわよ。定番のと、シトラスだけね」
「人気はどう?」
「有るわよ。ウチに置いてるのは、通好みより大衆向け中心だもの。サイレントプールはジン初心者にも勧めるし、ファンも多いから」
「じゃあ……今さら、雑誌で取り上げるものじゃない?」
「どうかしら。ボトルが綺麗だし、ずっと人気が有るという点は手堅いと思う」
そこで奥から呼ばれ、ポリーはキュートに片手を振ってから仕事に戻って行った。
さて、謎が残ってしまったが、ひとつはっきりしたことがある。
自分は酔い潰れて衝動的にジンを買う男ではない。
美女さえ、関わらなければ。
ランチを終えたギブソンと別れ、散歩がてら例のジン専門のパブに行ってみた。
「
店先に鉢植えやプランターで山ほど鮮やかな花を飾るパブが多い中、此処はグリーンのみに絞り、白壁にアンゼリカのポンポンみたいな花をモチーフにしたアイアンが飾られ、黒の格子窓というシンプルな外観が、如何にも大人の店だ。
通りに面したガラス窓から覗くと、沢山のボトルを背景にしたシックなカウンターが見えた。さすがはジン専門店、お祝いと思しき花々に負けない美しい瓶が並び、漢字が書かれたものも見えた。
何と読むのだろう。昔から目だけは良いので形はわかるが、意味まではわからない。
辺りを見渡したが、昨晩、此処に来たかは思い出せなかった。
昨日、何をしていたか。
仕事に励んでいた時間までは覚えている。
その前日までは原稿を間に合わせる為に自宅に缶詰で、編集者からのヒステリックなストーカーみたいな電話を受けながら何とか完成させ、締め切りは守った。
そうでなくては今頃、担当編集者が包丁でこっちを刺殺せんばかりに訪ねてくる――いや、本当に刺殺されかねない騒ぎになっている筈だ。
「まだ開店しないわよ」
不意に響いた声に、ニムはどきりとして振り向いた。
見知らぬ美人がにこやかに立っていた。笑うと皺の寄る小鼻や肩口で纏めたブロンドが愛らしい彼女は、従業員らしい。ラフな格好で接客するパブも多い中、黒いパンツにパリッとした白シャツを着て、ホウキを持っていた。
「すみません。素敵なお店だと思って、つい覗いてしまいました」
「ありがとう。観光客には見えないけれど――」
「ああ、野暮ったいけれど、ロンドン育ちのロンドン住まいです」
生まれも育ちもと言い切れないのが世知辛いが、彼女はにこりと笑ってくれた。
「ジンがお好きなら、ぜひいらして。贔屓にしてもらえると嬉しいわ」
客引きとはいえ、美人に言われて悪い気はしない。
「貴女みたいな美人が居るなら行かないと」
見え透いたおべっかには違いないが、言われ慣れているのだろう、彼女は嫌な顔はせずに微笑んだ。
「オーナーのセネットよ。今夜は挨拶の為にお店に立つわ」
降って湧いた自己紹介に、随分若いオーナーだと思いつつ、名乗ったニムは一つ理解した。
――どうやら、この店に来たことはないようだ。
事前仮に印象に残らなかったとしても、リピーターを求めているオーナーが、取材に来た顔を覚えていないとは考えにくい。
ニムは思案顔を出さぬよう努めて、奥の棚を振り返った。
「見たことのないボトルばかりですが、サイレントプールも置いてあるんですか?」
「……サイレントプール?」
「ええ、友人に勧められたことがあるので」
微かに曰くありげな動揺が掠めたのは気のせいだろうか。ニムの口からでまかせに、彼女はすぐに頷いた。
「ええ、もちろん……イギリスを代表するジンの一つだから」
「あの黒い――えーと、何でしたっけ、黒い宝石とかいうジュニパーベリーを使ったボトルもですか」
「お詳しいご友人なのね。有るわよ。お望みなら、ラグジュアリーな一杯をご提供するわ」
ぜひ伺いますと返事をして、ニムは愛想笑いを浮かべて立ち去った。
年季の入った石畳をぶらぶらと歩きながら、思い巡らす。
ずば抜けた視力は、違和感を見ていた。
今夜オープンの店。何もかも整っている棚に一瓶分、ぽっかり空いた空間があった。隣に有るのは、見覚えのあるボトルの緋色。
恐らく、あれがポリーが言っていたシトラスとやらだろう。更に同じ系統の紫やグリーン系の美しい瓶が並び、ひときわ高級感のある黒いボトルも有った。希少な高級品さえ有るのに、何故、”あれ”だけ無いんだ?
サイレントプール。
あのエメラルドグリーンのボトルだけが無かった。
それに、彼女の反応だ。サイレントプールの名に、明らかに動揺した。
見るからに素人臭いだろう自分が、ポピュラーなジンの名を上げたところで妙なことは無い筈だ。彼女が嘘を吐いているのなら、この店で何か有ったのだろうか?
あの空いた空間に有ったのが、家に有るサイレントプール?
それとも全く関与の無い話なのか……?
「おや、ニムじゃないか」
まろやかな声に振り返ると、優しい笑みを称えた紳士が立っていた。
歴史の古い
「ラッセル。ご無沙汰しています」
触発されて、日本人みたいな真四角のお辞儀をした作家に紳士はやんわり笑んだ。
「元気かい? 不出来な弟子がしょっちゅう、君の世話になっているようですまないね」
「とんでもない。ブラックには僕の方が世話してもらっています」
この絵に描いたような紳士こそ、親友の師にして、我が躾の親であるラッセル・アディソンだ。普段は慈父のように優しく穏やかな彼だが、悪さをすると口にするのも恐ろしい罰が下るので、おかげさまで品行方正な若者に成長できた恩人でもある。
「あの……ラッセル、ブラックはロンドンに戻っていますか?」
「さてね。最近は私が指図することは少ないから。忙しそうにはしているが」
うーむ、やはり我が親友の可能性は低いのか。彼以外の誰かが、自分を抱えて部屋に運んだかと思うと、ゾッとしないのだが。
「会ったら、君が会いたがっていたと伝えよう」
「あ、ハイ。無理のないように……」
只でさえ忙殺されている彼に余計な手間はかけさせたくない。
「ラッセルは、買物ですか?」
「ああ。紅茶と、ボスの頼まれものをね」
ということは、コーラか、クリスプで間違いない。全く似合わないものを彼が購入する様を想像していると、紳士はゆったりと言った。
「ニム、この後はどうするんだい?」
「ええと……特に決めていません。今日は休みなので本屋にでも行こうかと」
「フフ……君は我が弟子同様、本当に本の虫だね」
頭を掻くと、彼はパテック・フィリップの腕時計を確認してからニヒルに笑った。
「お茶の時間には早いが、少し社に顔を出さないか。最近はボスとも会っていないだろう?」
「僕は構いませんが、お忙しいのでは?」
「抱えていた案件がひと段落したところなんだ。その為のジャンクフードだよ。ファッジもある」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
見た目に違わず、一流を愛する紳士が淹れる紅茶もまた一流だ。あの美しい緋色と、バター香るサクサクのファッジが食べられると聞いて断るなどできない。
のこのこと付いていきながら、サイレントプールの件を話すと、彼は少し驚いた顔をした。
「不思議な話だね。妖精の仕業かな」
作家よりも乙なことを言うラッセルに、ニムは首を捻った。彼も容疑者なのだが、先程のオーナーよりも嘘を吐いている様子はない。
妖精か。それも可能性に加えるべきか?
わりと真剣に思案する内に、ブレンド社に辿り着いた。
通りの角にそびえ立つそれは、横並びの建物と同様の古めかしい中世の建築を思わす白い石造りで、入り口の上に「BLEND」の文字がさりげなく刻まれている。
調査と名の付くものは何でもやるこの企業は、人口や天候などのデータや賭けのレートを調べることもあれば、人気商品やランキング調査、果てはペット捜しや浮気調査などの探偵じみたことをすることもある。――スパイじみた特殊工作も。
「あれ、来たんだね、ニム」
先程会ったギブソンが声を掛けてくれたが、やはり昨夜飲んだ相手は居ないらしい。
代表の部屋に辿り着くまで、懐かしい顔からそうでもない顔まで各所で挨拶を受けたものの、居ればすぐにわかる親友の姿は見当たらなかった。
「おう、ニムじゃねえか」
代表の部屋では、大柄な紳士がテレビ画面に向かい合い、宙に拳を打っていた。
通称ボス・スターゲイジー。本名、ロバート・ウィルソン。
スターゲイジーという名は、かつて彼が凄腕スパイとして活躍していた頃のものだ。その戦功から王室よりナイトの称号を得ている男は、現在はブレンド社の代表として、クセの強い社員を纏めている。スパイとしては活動していない筈だが――弊社の優秀なエージェントはほぼそれに匹敵する仕事をしているし、彼も時折何処かへ出張するので、それほど変わらないのかもしれない。
豪快で恰幅のいい紳士はカボチャを割るとの噂がある拳を持つ筋骨隆々たる巨漢なので、正直こんなに目立つスパイが役に立ったのか
――追記、無類のゲーム中毒である。
「ご無沙汰してます、ボス」
ぺこりと頭を下げたニムに、紳士は髪と同じストローイエローの顎髭を蓄えた口元でニヤリと笑った。
「おいおい、他人行儀な挨拶はやめろ。俺はお前の親父同然なんだからな。ダディと呼べばいい」
「……ありがとうございます、ボス」
どこぞの者とも知れぬ赤ん坊を社員総出で育てた男に、ニムは苦笑いで頷いた。
「また、新しいゲームですか?」
「ああ。日本産はおもしれえな。ゲームで鍛えるんだと」
画面から察するに、ボクシングをしているらしい。
「ご苦労だったな、ラッセル」
「お安い御用です、ボス」
執事の様に微笑みながら炭酸のボトルとクリスプを机に置くと、紅茶を淹れる為に、彼は室内の小さなキッチンカウンターに近付いた。
「ニム、お前が顔出すなんて珍しいじゃねえか。ウチが恋しくなったか?」
現実に食らったら頭蓋骨がどうにかなりそうなパンチを繰り出している紳士に、そう来ると思っていなかったニムは曖昧に頷いた。
「ラッセルにお茶に誘って頂いたので」
「そうか。作家の仕事はどうだ」
「まあ……おかげさまで何とかやっています」
「なんだ、自信がねえな。先月発売した本は面白かったぞ」
「よ、読んだんですか?」
狼狽える作家に、テレビのリモコンみたいなコントローラーを置いた紳士は頷いた。やおら子供みたいに炭酸を呷り、クリスプをバリボリやり始める。
「何言ってる。お前が書いたものは殆ど買って読んでるぜ。どれも良い。女性誌のコラムは、編集をだいぶ困らせていそうだがな」
「私はニムの着眼点は好きですよ。今月号のブランドジュエリーとサルハムシを比較するのはなかなか前衛的でした」
カウンターの向こうから届いた評価に、ニムは顔を赤くした。
褒められるのも気恥ずかしいが、各方面を地味に騒がせているコラムの話は純粋に恥ずかしい。クレームの賛否が両極端に振り切れており、気持ち悪いから代えろと毛嫌いする声もあれば、ラッセルのようにコラム目当てで買う熱烈ファンも居るらしく、全く編集泣かせなのだ。ニム自身、女性誌“らしさ”求めるのなら、他に頼んでくれと再三言っているのだが、既存のファンが敵に代わることの方が恐ろしい編集部は歯噛みと手揉みの両方をしながらこのコラムを継続している。
「ニムは昔から昆虫が好きだからな。そっち方面の仕事が入ったら、また声を掛けてやろう」
「はあ……ペトラの変な依頼が含まれないのなら」
以前、ある地方独特のカササギに釣られて彼女の手伝いをした際、親友と二人、テロリストが潜む険しい山岳部で遭難する羽目になったのは忘れられない。
「ハハハ、お前は目が良いからな。頼りにされてるのさ。他に困ったことはないか」
「うーん……じゃあ、せっかく来たのでボスにも聞いて頂こうかな」
正直、多忙極めるボスに言うのは躊躇われたが、ゲームをしていたのでだいぶ聞きやすい。再び事のあらましを喋ると、彼は顎髭を撫でて言った。
「ブラックなら――帰ってたんじゃねえか?」
「え、此処に来ましたか?」
「来てねえが、昨日、此処でペトラが電話してたぜ。七時……いや、メシに行く前だから六時ぐらいだ。何か問題が起きたようだが、相談はされてねえから、あいつに任せたんだが」
スターゲイジーは代表だが、社員が助けを求めるまでは関与しないのが決まりだ。
特に親友やペトラが担当する案件は警察沙汰になることも多いため、なるべくノータッチにしておき、まずいことにはシラを切り通し、社員が危ういときは全力で守るのが彼の仕事だ。故に、社員はいちいち報告には来ないし、依頼の完遂はデータでの確認となる。スターゲイジーは自身の端末を眺め、首を捻った。
「ふむ。ブラックの担当案件は一旦片付いてる。依頼の完遂後に、何か予定外のことが起きたんだな」
「最後の件は何だったんですか?」
「ニム、各人の調査内容は社内でも秘匿だ」
忘れたのかと苦笑したスターゲイジーに頭を掻くと、ラッセルが良い香りのお茶とファッジを運んできた。
「ペトラに聞いてみましょうか?」
「それだけは絶対にやめましょう……!」
即座に反対するニムに、二人の紳士が苦笑し合った。
「どうもお前は昔からペトラに頭が上がらんな。もうガキでも無いだろうに」
「ガキの頃に植えられた恐怖は消えないもんなんです、スターゲイジー」
「フフン……なるほど、異論はない。――うーむ、サイレントプールか……」
マシュマロ入りのチョコレートファッジを口に放り込み、紳士は首を捻った。
「ラッセル、念のためだ、ブラックに連絡を取って何をしているか聞き出せ。ペトラは出来る仕事に手を出すと怒るからな……コッソリやれよ」
「Yes, Boss.」
優雅に茶を喫してから、ラッセルは頷いた。
彼は身を翻し、窓際で物静かに電話を掛け始めたが、すぐに切った。
「電源が入っていませんね」
「そうか。思ったより厄介な事になっているかもしれんが……」
ファッジを一度に三個口に入れて咀嚼すると、スターゲイジーは首を捻った。
「ま、とんでもねえ事件なら、さすがのペトラも俺に言うだろ。ニム、お前も困ったことになったら連絡するんだぞ」
「はい。そうします」
「送って行きましょうか?」
親切なラッセルの言葉に、ニムは慌てて手を振った。まだ昼間だ。いくらフィジカル面で頼りないが故のあだ名が「白アスパラガス」だとしても、日中堂々と悪漢が襲ってくるような危険に直面しているわけではない。
「大丈夫ですよ、ラッセル。僕は人に恨まれる覚えは――……」
言い掛けて、髪掻き毟らんばかりの形相と血走った眼で原稿提出を迫った編集者が思い起こされたが、もう済んだ話だ。……多分。
「フフン、気を付けろよ、ニム。案外、盗んじまったモンかもしれねえからな」
物騒なことを言うボスに嫌そうな視線を送るが、否定はしきれない。無論、盗みなぞ働いたことは一度も無いが、過去に、ドラッグの売人が追っ手から逃れる為にこちらのバッグにブツをこっそり移したことや、路傍で困った様子の女性に声を掛けたら博物館級の盗品を押し付けられた……なんてことは有った。
……不運という点では、盗品も充分あり得る。
「貴方も一部では著名な人物です。お気を付けて」
頷いて味わう、優しい紳士のお茶は美味しかった。
あの喪服女の恐ろしい目が光っていなければ尚更だ。
夜。本屋を巡り、軽い夕食を済ませた後。
良い休日の締め括りとして、約束通り「
単なる出し忘れには見えなかったのだが……たまたま、あれだけ入荷が遅れたのかもしれない。
思い直して見渡す店内は、新規オープンということもあり、なかなか盛況していた。祝福に来たと思しき身内も多いようで、例のオーナーを名乗ったセネットも、黒いシンプルなワンピースを纏い、にこやかに挨拶を交わしている。
良い雰囲気の照明が各所に輝き、フィドルの生演奏が優雅な旋律を奏でる。
一般的なパブより敷居の高い雰囲気こそあれ、半数はTシャツなどのラフな格好なので、そこまで気取った感じもしない。ジンを詰め込んだ大きなカウンターは仄明るい照明が照らし、ボトルの一つ一つが美術館に並べられた芸術作品のようだ。女性がオーナーにしては落ち着き過ぎている感もあるが、センスが良い事には変わりない。
念のため、辺りを見渡してみるものの、屈強な大男や人相の悪い奴は見当たらなかった。皆、ストレートであったりカクテルであったりと、様々なスタイルでジンを楽しんでいた。
一人というのに気を遣ってくれたのか、スタッフがカウンターの一席を勧めたので、ニムは大人しく座った。
「来てくれたのね」
すぐにカウンターの向こうから声を掛けてきたセネットに、ニムは愛想笑いを浮かべた。
「覚えて貰えて嬉しいよ」
「何にしましょうか。やっぱり、サイレントプール?」
からかうような響きに、ニムは苦笑して頷いた。
「そうしてもらおうかな」
「黒い宝石にする? それともプラチナジュビリー?」
「それ、普通に飲んで破産しないよね?」
「安心して。それほど高額ではないのもジンの良い所よ」
女は含み笑いに唇を歪めながら、例の黒いボトルを手に取った。
「どうやって飲む? 香りをふんだんに楽しむならストレートがおすすめだけど、あまり強くないのなら、トニックかソーダで割る方がいいわ」
「ジン・トニックにしてもらうよ。オープニングに醜態を晒して水を差すのは気が引けるから」
バーテンの実力を見るのにも良いとされるカクテルを所望すると、彼女はすぐ傍のバーテンダーにボトルを手渡した。……なるほど、彼女はバーテンではないのか。
何となく、黒い液体が出て来そうに感じてしまったボトルからは、ジンらしい、クリアな酒が流れ出た。すぐにカウンターに滑らされたグラスからは、ジュニパーの芳醇な香りが溢れ、口に含むと、仄かなアロマに加えてスモーキーな香りがふわりとした。高級なのも頷ける。
何故か少し、親友が身に着けている森のような香りを思い出した。
「いかが?」
「とても美味しい。宣伝しなくちゃ」
セネットは微笑んで、白い喉を晒した小首を傾げた。
「普通のビジネスマンには見えないわね。お仕事は何を?」
「大した者じゃないよ。物書きをしてる」
「……作家さん? それなら『先生』とお呼びしなくちゃ」
「とんでもない。ニム・ハーバーだ。好きなように呼んでよ」
これでも図に乗りやすい。実は出版関係以外に一人だけ、何度注意しても『先生』と呼ぶ人間が居るのだが、美人に言われたら確実に調子に乗る。彼女は手渡したこちらの名刺を見つめ、睫毛の一本一本まで隙のない目をちらりと上げた。
「……気に入られたら、この店の事も書くのかしら?」
「お許し頂けるのなら」
スマートに言ったつもりだったが、セネットはこちらを品定めするような視線をした。
「作家というのは、貴方みたいに若い人も居るのね」
「君もオーナーにしては若い」
「フフ……経営をするのに年齢は関係無いわよ」
「確かにね。でも、先立つものが要るじゃないか。此処は立派なお店だし」
褒めたつもりだったが、セネットは思案顔で眉をひそめた。
「……実はね、ミスター・ハーバー……関係者には話してるんだけど、この店は決して順風満帆にオープンしたわけではないの」
囁く声で打ち明けた一言に、好奇心旺盛な作家はつい引き込まれた。
「と、いうと?」
「私、本当はオーナーを務める筈ではなかったのよ」
美人はカウンターからゆらりと身を乗りだし、バニラ系の甘い香りのする顔を寄せてきた。怯んで身を引いたチキン野郎にヌーディーなルージュを引いた唇で笑いかけると、彼女はそっと言った。
「本来は、此処を造ったミスター・セネットがやる筈だった。でも、急に体調を崩してしまって……」
「そうでしたか。それはお気の毒に……」
「ええ。しかも、彼のビジネスパートナーの一人が、それを良いことに店を乗っ取ろうと画策した。セネット氏は独身だったし、特定の恋人も居なかったからだけど」
「他人事とは思えないな。まさかそのビジネスパートナーが貴女じゃあないよね?」
そろりと問い掛けた作家に、女はクスリと微笑んだ。
「裏切った“男”は先日、当局に捕まったわ。夜のニュースで報じた程度だけれど、店の宣伝にはなったからオーライだったかも」
なるほど。こっちが原稿と睨み合い、あらゆる世俗から切り離されて缶詰になっていた時、そんなことが有ったのか。
「では、貴女はどなたなんですか?」
「……セネット氏の、公言し難い関係者といえば、察して下さる?」
察するのは容易いが、理解できるかは別だ。意味深な前置きは、首を突っ込むなという牽制か。軽く肩をすくめたニムに、彼女は付け加えてくれた。
「愛人と言うにはグレーゾーン。結婚していないから妻ではない。一緒に暮らしてもいないから、内縁と呼ぶのも微妙なライン」
「ふむ……そこだけ伺うと、セネット氏も貴女もラッキーでしたね」
「Lucky?」
眉をひそめた女に、ニムは他意無く頷いた。
「セネット氏は乗っ取りに遭わずに済んだわけですし、貴女はオーナーになる予定ではなかった店を手に入れた。お互いに
楽観主義の客に、女はやや伏し目がちに微笑んだ。
「――そうね、先生が言う通り。私はラッキーだった」
そう呟くと、自分のグラスを引き寄せてニムのそれと軽く触れ合わせた。
ガラスが奏でる高く繊細な音が響き、傾けるグラスの中で氷がからりと揺れた。
……はて、こんな良い雰囲気は久しぶりな気がする。
今まさにほろ酔いの心地よさが身を満たし、少しだけ大胆な質問が口を突いた。
「ところで、君の本名は何て言うのかな?」
「アビー。――私も先生に訊きたいことがあるのだけど」
「何だい?」
「サイレントプールを勧めてくれたご友人というのは――どんな方?」
「どうしてそんなことを?」
「だって……ジンがお好きな方なら、お店に来てくれるかもしれないでしょう?」
ううむ、口から出まかせが厄介な話に発展してしまった。
不意に何でも詳しそうなラッセルにしようかと思ったが、こういう件は不在の多い人物の方が良いかもしれない。
「えーと……彼はすごくハンサムで、大抵は黒服で……背が高いから、すぐにわかると思うよ」
人物像を親友に切り替えたが、彼はラッセルの弟子だけに紳士的だし、泥酔するようなことは有り得ない。仮に話の辻褄が合わなくても、上手くやってくれる筈だ。
「ふうん……黒服でハンサムの――素敵な人なのね」
会うのが楽しみだわ、と、女性なら当然の一言を残し、アビーは他の客に呼ばれて離れて行った。そのしなやかな背を何となく見送りつつ、ニムはジンの残りに口を付けた。ジュニパーベリーをしっかり楽しむ感のある酒は心地よく、飲み続けたら良い気分のまま記憶を失いそうだ。
何でも良い気分の時にやめるのがいい。
つい、アビーの方を振り返ると、客かスタッフか――こちらもなかなかの美女――ブロンドをきちんと纏めた細面に眼鏡が似合う女と、何事か言葉を交わしていた。
それを眺めてから、なかなかの額になった一杯の支払いを済ませて、ニムは店を出た。出がけの背に視線を感じて振り向いたが、宴たけなわの店内では、誰がこちらを見ていたのかはわからなかった。
何だか色々有った気がする一日だが、充実した休みではあった。
また明日からは食材を買い込んで、ランチ以外は引き籠る羽目になるだろう。
せめてお茶に行くぐらいの猶予があればいいのだが、それは自分の筆が乗るか乗らないかも重大な問題なので、編集を責めるわけにもいかない。
ひとまず、今夜はほろ酔いの良い気分で過ごせそうだ。
暗い自宅に戻ってくると、リビングのテーブルに例のエメラルドグリーンのボトルが変わらずひっそりと佇んでいた。
サイレントプール。
結局のところ、この沈黙している美しいボトルの正体はわからず仕舞いか。
ロンドンから南西に位置する、あの美しい湖の水を閉じ込めたような瓶は、今は室内照明に曖昧な輝きをゆらめかせている。物言わぬそれを見つめ、この酒の生まれ故郷の湖なら取材に行ってもいいかもしれないと思っていると、ふと、背後の玄関からカタンと音がした。
さては、ハンサムな親友がやって来たのだろうか。
「ブラックかい?」
暗い玄関先に向けて訊ねたが、返事はなかった。彼ではないのなら、郵便配達員がポストに何かを放り込んだ音だろうか?
まさか、ペトラじゃないだろうな――……
訝しみながらドアを開けた瞬間、やにわに襟元を掴まれた。
「わっ……⁉」
仰天したニムの襟元を掴み上げていたのは、夜中だというのにサングラスをかけ、フードを下ろした髭面の男だった。筋肉質の腕は「白アスパラガス」の襟元如き、喉ごと締めんばかりに握りしめ、恐ろしい声で言った。
「――おい、誰の指示で店に来た?」
「な……何のことだ?」
「とぼけるな! お前――あの女の仲間だろう!」
「あ、あの女……?」
至近距離での煙草臭い息と喉が締まる苦しさに呻くが、全く心当たりは無い。
「ちょっと……落ち着きませんか、何かの間違いでは? 女って、何処の誰です?」
努めて冷静に言ったニムだが、男は力を緩める様子はない。ふと、サングラスで定まらない視線が部屋の何かを捉えた。
一直線先――暗く短い廊下の奥に輝いていたのは、サイレントプールだ。
ぐっと男が力を込めた。
「お前……! やっぱりそうだったんだな!」
やっぱりどころか何のことやらさっぱりだが、とにかく謎のアウトローは怒りに声を震わせた。
「ま、待って下さい! 乱暴な事は――」
「うるさい! 吐け! 誰の指図だ⁉」
強かに壁に打ち付けられ、軽く息が止まった。吐こうにも壁に押し付けられ、違うものを吐いてしまいそうになりながら、ニムはどうにか呻いた。
「……申し訳ないが、心当たりがないんだ。せめて説明を――」
「ふざけやがって……!」
全くふざけていないのにとんだ濡れ衣だ。相手が拳を握る。もがいてみるが動けない。クソ、非が有っても無くても、わけのわからん怒りで殴られたくない!
自分は叫んだかもしれないが、悪漢に立ち向かえるような隣人は居ない。今から
ニムが覚悟も決められずに無駄な抵抗を試みる中、その人物は突然、ヒグマが飛び込んで来たかと思う勢いで現れた。大きな黒い影は暴漢の首根っこを掴み、驚いて振り向いた頬桁をハンマーのような拳で殴り飛ばした。相手が誰かも確かめなかったろう一撃は、本当に鈍器で殴られたような威力だったらしい――ぶち当たった壁から床へ崩れ落ちる前に、既に暴漢は泡を吹いて気絶していた。
その様子を、路傍に落ちたセミの死骸でも見るような仕草で眺めた熊――ではない、黒いロングコートの男を確認し、ニムは床にずり落ちながら、どっと疲れた溜息を吐いた。
「……ブラック……、やあ、久しぶりだね……」
はて、こんな風に彼に助けられるのは何度目だったか。
彼は振り返り、無造作な黒髪の下、闇のような黒い目を笑ませた。
見上げるほどがっしりした巨躯の男だが、柔らかい微笑を浮かべた顔は完璧を名乗ってもいい美貌だった。
「久しぶりだな、先生」
男の身でもぞくりとする低音が応えると、先ほどの女の香水よりも遥かに色気に満ちた香りが漂った。
「すまない、先生を巻き込んでしまった」
ノックアウトされたアウトローを警察に引き渡した後、リビングで事情を説明してくれた親友――ブラック・ロスの謝罪は薄笑いのまま紡がれた。
別にふざけているわけではない。彼は頑是ない子供の頃から大人になるまで、ある民間軍事会社で想像を絶する非人道的な扱いを受けた。首から下は生きているのが不思議なほどの裂傷や火傷、打撲痕などがびっしり刻まれ、この“痛い目”を少しでも減らそうとした薄笑いは、組織が全滅した今も剥がれない。
「……いいさ、君は危ないところを助けてくれたから、おあいこだ。でも、事情を説明してほしい」
「そもそも、先生は関係なかったんだ」
彼が首を捻りつつも喋りだしたので、ニムは理解した。
ブレンド社のエージェントが調査内容を喋りだしたら、それはもう解決済み、または公開済みの情報ということだ。
発端は、「Angelica」を造ったセネット氏が、オープン前に部下に怪しい動きがあるから調査してほしいとブレンド社に相談したことだ。
依頼を受けたブレンド社は、裏社会に通じそうな事件を担当するペトラ・ショーレを中心に調査を開始。「喪服の魔女」と呼ばれる優秀なエージェントである彼女は、部下が氏を裏切って経営を乗っ取る気だという証拠を掴み――ブラックに証拠品の確保を指示。期待違わず、ブラックは証拠を手に入れ、セネット氏は当局に通報、部下とその協力者達は逮捕された。
問題はこの後だ。
これで解決かと思いきや、実は部下には油断のならない愛人が居た。この愛人こそ、セネット氏の代わりに店をオープンさせたアビーだったのだ。
彼女は男が捕まるや、急いでセネット氏に取り入り、美貌を武器に新店のスタッフに転がり込む。部下の件が片付いてホッとしていたのだろう、氏はあっさりアビーに騙され、別荘に監禁されてしまう。懐柔した男たちを操り、氏にはアビーに店を任せたことを示す書類のサインを迫り、まんまと女は店を手にしたわけだ。
一日足らずでこんなことをやってのけた辺り、前々から狙っていたのかもしれない……全く、美人とは油断のならないものである。
さて、此処で勘の良いペトラが、オープン前の「Angelica」を見に行き、異変に気付く。事前調査でセネット氏の周囲には居なかったアビーが店に居れば、一目瞭然ではあるのだが、ニムもそうだったように、人間関係が希薄な時代だ、知らぬ人から見れば「聞きづらい事情」で誤魔化されてしまう。
「俺はペトラの指示でミスター・セネットを助けに行ってきたところだ」
警察ではなく彼が来るとは、見張りはさぞや酷い目に遭ったことだろう。
それを聞いたニムは首を捻った。
「それじゃ、さっきの男は何だったのさ?」
「『Angelica』から、先生をつけていたそうだ」
「なんで、セネットを助けに行っていた君にそれがわかって――……」
言葉の途中で、ニムは喉に異物でも詰まったような顔をした。
ほろ酔いの頭に冷水をぶっかけられたように思い出したのは、店で見かけた眼鏡の美人。あれは……いつもは喪服しか着ていない筈の……
合点がいって喘ぐニムに、ブラックはあっけらかんと頷いた。
「ああ。女の補足にはペトラが行った。店で会わなかったか?」
「……うう、多分見かけた。だって彼女、いつもは帽子に喪服姿じゃないか!」
ペトラ・ショーレが、ある人物の遺品の黒い帽子と、喪服の黒いワンピースしか着ないのは、ブレンド社のみならず、彼女を知る人の間では有名だ。
久しぶりに顔を合わせる彼女が、帽子を脱いで黒以外を纏ってくることなど、同じく目の前でいつも黒を着ている彼が真っ白なコートを着るより違和感がある。
「……と、いうことはペトラは僕がウロウロしてるのもわかってたんだね?」
「ああ。泳がせろと言うから、危険が及ぶなら助ける約束で了解した」
「君が友人で何よりだよ……」
度々、好奇心旺盛な作家で釣りをする女だ――サイレントプールについて書置きがなかった上、助けるのがちょっぴりギリギリだった親友を責めても致し方ない。
そもそも、酔って寝ていた自分が宜しくないのだ。
「じゃあ結局、僕の部屋のサイレントプールも関係ないのか?」
「サイレントプール?」
良い声で復唱する彼に、エメラルドグリーンのボトルに入ったジンを指差すとようやく気付いた。
「ああ、これか」
何でも無さそうに彼は言った。
「貰ったんだ。棚から好きなものを選んでいいと言われて」
監禁される直前のセネット氏は、新店オープンに貢献してくれたお礼にと、ペトラとブラックの両名に好きなボトルを選んでくれと言ったそうだ。
酒を飲まないペトラは気持ちだけと断り、ブラックが選んだのがサイレントプールだった。彼は、貰ったサイレントプールを一緒に飲もうとニムの家に持って来たのだが、当の作家はぐっすり眠っていたらしい。親友を起こさぬよう待つことにしたブラックだが、「Angelica」の異変に気付いたペトラに呼び出され……――
結果、謎のサイレントプールがニムの部屋に残った。
アビーがサイレントプールについて訊ねられた際に変な顔をしたのは、このボトルが定番でありながら、ブラックにその場でプレゼントされた為に、オープン直前の棚から消えていたからだ。無論、ストックは有ったが、何故無くなっていたのか彼女にはわからなかった為、さぞ気味が悪かったろう。
その上、セネット氏にそのことを訊ねる前に、ニムが現れ、変な鎌をかけようとしたが為に、架空の「ジンに詳しい友人」=「セネット氏」と勘違いし、ニムのことは氏を捜しに来た知り合いか、または探偵か向こう見ずな記者だと思ったらしい。
……まあ、そう思っても無理はない。
警察が捜査するなら手帳を提示した方が効果的だし、ピンポイントでサイレントプールの話はすまい。恐らく、先にブラックがセネット氏を救出し、ペトラがアビーに警告でもしたのだろう――アビー達からすれば、これが秘密裏に終わればまだしも、ニムが厄介な記者や当局の回し者では困る――だから追って来た。
確実に、傷害事件で引っ張られるネタにされるとも知らずに。
「先生が女の気を引いてくれたおかげで、氏の救出も楽だった」
微笑んで言う親友に、ニムはうんざり顔で首を振った。
「……お役に立てて何より。それじゃ、未解決なのは昨日の僕が何処で飲んだくれたかってことだね……」
溜息混じりに言ったニムに、ブラックは薄笑いのまま、目を瞬かせた。
「先生は昨夜、酔って寝ていたのか?」
「え? その筈だよ。どうしてか全然わからないし、思い出せないけど、家の中に酒瓶や使ったグラスは見当たらないから、外で飲んだと思って……」
「泥酔していたとは思えないな。先生の寝室を覗いたが、酒の匂いはしなかった」
犬に匹敵する嗅覚を持つ男にそう言われて、そんな筈はと思ったニムだが、親友が何気なく見下ろしたテーブルに、嫌な証拠がちらりと見えた。
プレッツェルの袋の陰に、何故か風邪薬が詰まった瓶が転がっている。中身の錠剤はだらしなくテーブルにこぼれていた。
泥酔……とんでもない。いくら視力が良くても、灯台下暗し。
サイレントプールが堂々とそこに有ったから――勘違いしたのか!
唸ったニムがようやく思い出してきた真相は悲惨極まりなく、色気も無かった。
そうだ。いつもの締め切り前の缶詰をし、生理現象の睡魔と戦っていた自分は、朦朧とした状態でプレッツェルを齧り、ついでにこぼれていた錠剤も齧り、苦かったろうにそれもわからぬまま、余っていたコーヒーで流し込み、ベッドに直行したのだ。
……どうりで頭が痛く、胃が重いわけだ……
恥ずかしさにしかめた顔を手で撫でつけ、ニムは何度目かの溜息を吐いた。
眺めるサイレントプールの美しさは、今さら……妖精の悪戯を思わせた。
「大丈夫か、先生?」
「……大丈夫だとも。でも、愚かな親友の為に、次からは書置きか連絡を頼みたい」
彼は苦笑混じりに頷いた。
「了解した」
「……ところでブラック、なんでサイレントプールを選んだの? どうせ貰えるなら、もっと高価なお酒にすれば良かったのに」
思えば、この瓶の美しさに惑わされたと言ってもいい。
ゲンキンなことを言う作家に、親友はにこりと微笑んだ。
「先生の眼の色に似ていて綺麗だと思った」
……おお、これだから我が親友は始末が悪い。男色の趣味は毛ほどもないが、不覚にも赤くなって、ニムは無意味に咳払いした。
「ブラック……そういうセリフはね、気のある女性に言うもので――……」
「Oh……誤解だ、先生。俺にとって先生の眼は純粋に綺麗だから――」
「こらこら、君は素直なほど誤解を招く。……まあいいや。僕の早合点もどうかと思うが、全部ペトラが悪い気もする……」
ニムのぼやきに、ブラックはちょっと考える顔をしたが、薄笑いのまま首を振った。
「先生、俺はペトラにそんなことを言う勇気は無いな」
「前から思ってたんだけどね、ブラック……君は単純な力関係なら彼女より上の筈じゃないの?」
「まさか。怒らせたらボスも師匠も裸足で逃げ出す女性に、俺が敵う筈がないだろう?」
「素手で熊と渡り合える君が敵わないなら、ペトラはもう何なのさ? 百獣の王?」
身の程知らずの白アスパラガスに、ブラックは苦笑混じりに首を振った。
「先生、この話はやめよう――それより、そのジンで乾杯しないか」
「……なんだか釈然としないけど、君の提案には賛成だ」
言いたいことを抑えて沈黙し、美しいボトルを傾けてグラスを満たした。
――まさしく、サイレントプール。
澄み切ったボタニカルが身の内を満たす感覚は、言葉の要らない心地良さだ。
酔いで調子に乗った舌が余計なことを囀ずらぬよう、今夜もほろ酔い程度に留めるとしよう。
サイレントプール sou @so40
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