第4話

 カッと目が覚める。時刻は五月二日、午前六時。


 時計を見つけた私は、あれからすぐに時間遡行を実行した。いつものようにリューズを回せば、問題なく時計は動作し、白い閃光とともに気を失って今に至る。多分、時間的な制約があるのだろう、二重に時間を巻き戻すことは出来ないとか、そんな感じの。だからどれだけ探しても見つからなかったし、私が時間を巻き戻した日時に時計が現れたのだ。証拠も何もない推理ではあるが、案外これが正解なのかもしれない。


 今回は最初から休職する。もう会社の評価など気にしている段階ではない、例によって会社に電話をかけ、体調不良で休職することを伝える。迷惑をかけることは申し訳ないが、兄の命と会社を天秤にかければ、兄の方をとる。


 休職の連絡はあっさりと了承された。かつての私ならここでいらぬ心配をして何も言えず、文句をたれながら仕事を続けていただろう。課長も、私の体調を心配するような言葉をかけてきた。会社のことも課長のことも、今までの私は怖がるだけで、まともに見ようとしていなかったと、思い知らされた。


 日が暮れたころ、電車に乗って兄の家へ向かう。二三区内に立つマンションは、またもその威容を私に見せた。


 インターホンを押して応答を待つ。数秒後には応答があった。


「美里じゃないか、いきなりどうしたんだい?」


「相談したいことがあって、家に上がってもいい?」


「もちろん。今鍵を開けるよ、502号室ね」


「ありがとう」


 ガチャっと鍵の開く音がしたので、ガラスの扉を開けてマンションの中に入る。そのままエスカレーターを使って五階まで上がり、兄の部屋の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。


「お邪魔します」


「いらっしゃい」


 リビングから兄が顔を出す。私は慣れたように廊下を進み、四人掛けのテーブルに座った。テーブルの上にはココアが二つ置いてある。


「それで、相談っていうのは?」


 兄がココアを飲みながら尋ねる。


「兄さんは、自殺したいと思ってことはある?」


今まで回りくどく防ごうとしたのが失敗続きだったのだ、今回は初めから核心を突くことにした。


「それは……どういうことかな?」


 兄は考え込むように手を口に当てて顔を俯かせる。


「そのままの意味だよ、自殺しようと思ってない? ってこと」


 強気な態度で、兄に詰め寄る。遠慮なんてしてられない。多少強引にでも引き留めなければ。


「お兄ちゃん、美里が何を言ってるのかわからないな」


「それじゃ、会社休んで」


「え?」


「だから、会社休んで」


 無茶を言う。


「いや、まあ、それはいいんだけど」


「いいの?」


 無茶が通った、言ってみるものだなあ。兄は少し席を外すねと言って、どこかに電話をかけている。


「今日休むわ」


「うん、うん。よろしく」


「じゃあ」


 どうやら休みの連絡をしているようだが、ほんとに休みの連絡か? ラフ過ぎないか?


「ただいま」


 兄が戻ってきた。


「兄さんって社長だったけ?」


「え、違うけど」


「……そう」


 本当に兄が会社を休むとは思っていなかったので、これ以上手札がなくなってしまった。何とも間抜けな話だが、次に何をしていいのか分からない。


「あー、美里はさ、なんで僕が自殺すると思ったの?」


「……兄さんが自殺する人の顔をしてたから。中二の時の私みたいに」


 嘘です。全然自殺する予兆ありませんでした。


「最初は個人的な相談をしに来たんだけど、兄さんの顔見て心配になって」


 嘘です。最初からこのために来ました。


「ありがとう、心配してくれて。でも僕は大丈夫だから。それより美里、会社はいいの?」


「会社は休んできた」


「休んだ⁉ 美里が?」


 兄は心底驚いたように目を見開いた。それほど意外だったようだが、まあ確かに、時間遡行の前の私からは想像もできないだろう。


「まあ、色々あってね」


 これまでの経験を色々で説明するのは淡泊な気もする。兄が死んで、時計を見つけて、時間遡行して。箇条書きにすればそれだけのことだが、重要なのはその中身だ。私はこの数か月間で変われたんのだ。少しずつ、人を信じることを恐れなくなった。やり直せるという心理からの強気なのかもしれないけど、会社を休むとはっきり言えた。課長がそんなに怖い人じゃないことを知った。必要以上に怯えて怖がって、何もできなくなっていた私はもういない。あの時計は一歩を踏み出す後押しをしてくれた。私はもう世界を恐れない。


「そっか、美里も成長したんだね」


 考えていたことを言い当てられる。会社を休んだことを成長だなんて、以前の私を知らないと出てこない言葉だ。


「その言い方、ちょっと気持ち悪いよ」


「そうかな?」


 何がおかしかったのか、兄は声をあげて笑った。その様子を見て私も笑う。何か面白いことがあった訳でもない、ただただ兄につられて笑みが漏れた。


「それで」


 ひとしきり笑った後、仕切り直す様に居座り直し、兄に向かう。


「自殺しようとか思ってない?」


「あ、忘れてなかったんだ」


「どうなの?」


 ぐっと、顔と顔の距離を詰める。


「自殺なんてする気ないよ僕は」


 嘘を言っている様子はない。でも私は知っている、兄がこの後死ぬことを。何度も

時間をやり直して私が見てきた兄の死を。今の兄は死ぬような人間に見えないが、やっぱり死ぬのだ。なぜ死ぬ? どうやったら防げる? 分からない。だがら、探るのだ。


「まあ、いいや。今日泊めてよ」


「いいよ。それに二人とも休みだし、どっか行く?」


 兄が立ち上がり、コップをシンクに置く。振り返ってこちらに手を差し出してきたので、私は残ったココアを飲み切り、兄にコップを手渡す。


「浅草寺、行きたい」


 東京に来てそれなり以上の時間がたつというのに、仕事ばかりで有名な観光地さえ言ったことのない私は、この機会に雷門を見てみたかった。兄にとっても気晴らしになればいいとも思う。


「浅草か、ちょっと遠いけど、今から行こうか」

兄はスーツから着替えるために書斎の部屋に入る。私は着替えを持ってきていないし、そもそもスーツ以外の服も持っていない。学生時代の私服はあるが、草臥れている上にもう入らないだろう。


「お待たせ」


 私服姿の兄がリビングに帰ってくる。カジュアルなシャツに黒のデニムは、そのすらっとした体躯とよく合っていた。そして私の姿を上から下まで見て一言。


「どこかで美里の服も買おうか」


 もっともである。この時間遡行の中でいい加減私服がないと不便だと感じていたところだ。


 兄に連れ立ってマンションを出て、電車に乗り浅草に向かう。乗り換えを挟んで三十分ほど乗った後、地下鉄の駅から地上に出る。


 浅草は平日ということもあり、外国人を中心とした観光客でにぎわっていた。有名な雷門は人ごみの中でなお大きく、都会の喧騒の中に悠然と佇んでいる。


「人多いね」


「平日とはいえ、有名な観光地だからね。今は外国人観光客も多いし、京都はもっと多いらしいよ」


「うへえ」


 コロナ禍以降の外の世界をよく知らない私は、ニュースで連日叫ばれていたオーバーツーリズムの片鱗を初めて味わった。


 人ごみを避けて雷門をくぐり、仲見世通りを冷かしながら進む。お堂とも見紛う宝蔵門を抜け、浅草寺本堂にたどり着いた。お参りをして、建物を見て回る。赤を主体として黒い瓦、そこに挟まれる白が美しい。大きな屋根と提灯は威圧感ともいえる威容を誇っている。


 一通り見て回った後、私の服を買うために浅草を後にする。上野までまた電車を使い、ピングモールで服を見繕う。空色のシャツにタイトなベージュのパンツ。面白味はないが堅実な服だ。どんなシーンでも会うし、シャツの質感もすべすべで気に入っている。兄はもっとガーリィな服を推していたが、私の趣味には合わなかった。


 服を買い終わり、ウィンドウショッピングを楽しんだ後、ショッピングモールを後にする。上野駅に向かい、改札を抜けてホームで電車を待つ。時刻表の時間になったが電車はまだ来ない。どうやら遅延しているようだ。


「美里は、僕が自殺するか心配なんだよね?」


「そうだけど、いきなりどうしたの?」


 兄が突然、朝の話を蒸し返す。心配というより確信だが、外から見ればどちらも同じようなもので、私もそう返す。


「朝は聞きそびれたけど、やっぱり不思議に思ってね。どうして自殺すると思ったか」


「朝も言ったじゃない。兄さんが中二の時の私みたいな顔をしてたから」


 不穏な雰囲気が流れる。嘘がばれているような気がして兄の顔をまともに見られない。


「自分で言うのもなんだけど、僕は自殺するような人間じゃないよ、性格的にも、生活的にも。なのにどうして、美里は僕が自殺すると思ったのか。いや、思ってるんじゃない、確信しているような言動だった」


「それは……その……」


 うまい言い訳を考えられない。もともとが強引で勢い任せな説得だっただけに、兄の追及をかわす言い分が見つからないのだ。ここはまた強引に言いくるめるか? それとも、観念して時間遡行のことを話すべきか?


「巻き戻ってるんでしょ?」


「え?」


「時間」


「なんで?」


 兄が時間遡行を知っている? それ自体は考えたこともあったが、それは兄の口で否定されたはずだ。なのに今更どうして知っているような口を?


「僕もしたからね、巻き戻り」


 兄は能面のような表情で私に向き合う。例の時計は、兄の机の引き出しににあった。当然、兄のものと考えるのが妥当だろう。しかし、どうして今更そのことを告白するのか。


「美里は僕の自殺を止めるために時間遡行をしているんだろう?」


「うん、そうだよ」


 ここまで言われれば、私も状況を理解することが出来る。つまりは、この時間遡行は兄の掌の上で踊っていただけということだ。


「もう分かっているとは思うけど、普通のやり方じゃ僕は止められない。なんで僕が自殺するのか考えても無駄だよ、だってそれは手段に過ぎないんだから。僕がそれを通してしたいことを見つけてほしい。そうすれば、この時間の渦は止まるはずさ」


 兄は一歩前に出て、振り返って私と向かいあう。兄の足元には黄色い点字ブロックがあって、危ないと私は思ったが、それを口に出すことはしなかった。


「だから美里にヒントをあげる。というかほとんど正解にたどり着いているんだけど、美里にはそれを自覚して欲しいんだ」


 兄は一度深呼吸をして、地面を蹴って後ろに飛んだ。遅れ気味にやってきた電車はスピードが乗っていて、兄の体の前で止まることが出来なかった。


 兄が死んだ。私の目の前で。自殺……らしい。

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