第3話


 朝起きると、兄はもう家を出ていた。八時二十分、会社は遅刻だ。ガバリと上半身を起こし、ベッドを出てリビングに行くと、テーブルに置手紙と鍵があった。


『会社には言っておいたからゆっくり休んで。部屋の鍵置いておくから出るときはそれ使って』


 ということは、どうやら兄はあの課長と話したらしい。課長が変なことを言っていないだろうかと心配になるが、あの課長のことだ、部外者に口撃するほどの度胸はないだろう。私と同じで、根本的に冴えない人間なのだ。ということは、課長が私ばかり執拗に狙うのは同族嫌悪だったりするのだろうか。ま、どうでもいいか。


 さて、今日も仕事を休むことになって、暇な時間が出来てしまった。私はこれ幸いとばかりに、兄の部屋を探索する。何か兄の死に関わるヒントが残されていないか探すのだ。


 リビングや寝室にはいこれといって何もないのは昨日の時点で把握済みだが、それ以外の部屋はまだ見ていない。といっても、この部屋はリビングが広めに作られていて、残る部屋は脱衣所と書斎くらいだ。

手始めに洗面台を見てみる、昨日から歯ブラシが一本増えているが、これは私のものだ。他に変わったものは見つからない、当然といえば当然のことだ。

次は書斎だ。入るのに少し躊躇われたが、これも命を救うためという言い訳をして扉を開ける。中は綺麗に整頓されている。まず目に入ったのは黒い皮張りのチェア。そしてダークブラウンのウッドデスクの上にデスクトップpc、本棚には文庫や難しそうな経済学の本等がきちんと区分けされてびっしりと詰まっている。全体的にシックな印象を与える部屋だ。


部屋に立ち入り、デスクの隣にある腰ほどの高さの棚の引き出しを開ける。三段あるうちの一段目には、筆記用具や仕事で使うであろう書類が入っている。ここにはヒントはないだろうと閉じて、二段目を開ける。栞を挟んだ文庫本が三冊、ここにもヒントは見受けられない。私は二段目も閉じて、最後の三段目、一つだけ大きな一番下の棚を開ける。やけに思いその棚の中には、複数のアルバムが入っていた。それを見た瞬間、嫌な予感が私の脳内を駆け巡るが、意を決して開けてみる。中は予想通り私の写真だった。社会人時代のものはないが、学生時代のアルバムを厳選して実家から持ってきたのだろう。はぁ、と私はため息をついた。一気に気が抜けてしまった。その後も部屋を荒らさない程度に色々探してみたが、目に留まるようなものはなかった。





「ただいまー」


「お帰り」


 夜、果たして兄は帰ってきた。本来、兄は五月三日、今日の朝に自殺しているはずである。これは私が家に押し掛けたことで防ぐことが出来た。まさか妹が近くに居るのに自殺などするはずもないだろう。けれど、これは対症療法でしかない。兄が自殺する根本的な理由を見つけ、それを解消しなければならないのだ。しかしそれも順調かもしれない。兄の顔に暗いところなどないし、このまま接していればあるいは解決するかもしれない。


「晩御飯、作っておいたよ」


 昼頃に兄に連絡して、晩飯は家で食べることを確認していたので、帰ってくるまでの間に作っておいた、回鍋肉だ。およそ数年ぶりの料理なので簡単なものしか作れなかったが味は問題ないと思う。


「え? ほんと? うれしいなぁ」


 兄はニコニコと席につく。あまり驚いた様子でないのは、私が作ることを予想していたからだろうか。


「いただきます」


 そう言って兄は回鍋肉を食べ始める。美味しい美味しいとしきりに褒めてくるが、たぶん贔屓目だ。


「仕事はどう?」


 回鍋肉を食べながらそう兄に尋ねる。


「ぼちぼちってところかな、大きなプロジェクトとかもまだないし、まだ年度初めだしね」


「悩み事とかはない?」


「うーん、特にはないかな……逆に、美里はどうなの? 悩みはない?」


「私? 私は全然! 会社も休んでリラックスできたし」


 悩みの原因は目の前の貴方ですが、とは口が裂けても言えまい。適当に誤魔化すことにする。


 会話を終え、私たちの間に沈黙が生まれる、しかしそれは気まずいものではなくて、心地よい静かさだった。


「ご馳走様。ありがとう、美味しかったよ」


 兄の方が早く食べ終わり、食器をシンクにもっていく。それを洗ってカウンターに干した。


「それと美里……仕事、辞めたくなったらいつでも頼っていいからね」


 兄はまっすぐ私の目を見ている。私はその目に射られたようになって、動けなくなってしまった。


「じゃあ僕は書斎のソファで寝るから、おやすみ」


「お、おやすみ」


 引き留める間もなく、兄は書斎に入っていった。





 翌朝、また兄よりも遅く起きた私は、今日こそ会社に行かなければと持ってきたスーツに着替えて身支度をする。憂鬱だ、二日も会社を休んで、課長が何を言い出すか。体調不良ということにしておいたと兄は言っていたが、そんなことを気にする課長ではない。自己管理が甘いとでも言われるのだろうか。


 兄の家からの慣れないルートで出社して、先に来ていた課長に挨拶をする。


「おはようございます」


「ん、ああ、おはよう」


 驚くべきことに、特に説教もなければ不機嫌でもない。一体全体どういうことだろうか。兄に何か言われたのかそれとも体調不良を責めるほど鬼ではないということなのだろうか。それなら体調不良を押して出社していた過去の自分が馬鹿みたいになってしまう。けど、まあ過ぎたことだ。怒られないならそれに越したことはない。


 仕事はこれまでの周と変わらないものだ。これだけ何度も繰り返したらいい加減スムーズに出来るようになる。たまっていた分も仕事を進め、昼休憩の時間になった。


 昼ご飯は昨日の残りの回鍋肉だ。キャベツのシャキシャキ感は薄れてしまっているが、それでも十分味はいい。それに、コンビニ弁当と違ってそれほどお金がかからないのもグッドポイントだ。回鍋肉とご飯がよく合う。


 プルルルル。電話が鳴った。知らない番号からだった。嫌な予感が、する。


「もしもし」


「あ、よかった繋がった。浅田宗助さんのご家族の方でお間違いないですか?」


「はい、妹です」


 まさか。


「落ち着いて聞いてください。実は、お兄さんがなくなられました」





 その後、私はすぐに病院に向かった。会社に休みを伝える際、何か言われると思って身構えていたが、あっさりと休みが取れて拍子抜けしてしまった。


 霊安室に居た兄とは会えなかった。飛び降りらしく、とても見れた状態じゃないと止められてまで見る勇気がなかった。


 一度兄の家で仮眠をとり、また病院に戻ってきたときには父と母が東京まで来ていた。


「ああ、美里。ありがとうね、宗助を迎えに行ってくれて」


「ううん。気にしないで、当然のことだよ」


「まさか、宗助がこんな……」


 私たちは皆押し黙った。誰もがどう声を出していいかわからないような、重い沈黙だった。


 葬儀屋の人が来て、両親は別室で話をするために部屋を出て行った。それから話はとんとん拍子で進んで、通夜、告別式と、私は流されるようにこなしていった。通夜も告別式も参列者は多く、兄がこんなもにたくさんの人に悼まれていると思うと、こんな場なのにも少し誇らしくなった。これも多分、どこかでまたやり直せると思っている自分がいるからなのだろう。


 葬儀も終わり、少し落ち着いたころ、実家に帰っていた私は三階の部屋で兄の机をあさっていた。


「ない、ないないないないない。ない!」


 見つからない。時計がない。いつも兄の机の中にあったはずのあの時計がない。私は部屋をひっくり返す勢いで探すが、時計はどこにもなかった。そこにあったはずのものがなくなって、私は酷く取り乱した。いや、違う。なかったはずのものなのだ、やり直す機会なんて。


 しかし私は諦めきれなくて、もう一度部屋の隅々まで探しなおし、そしてどうやっても見つからない現実に打ちのめされた。今までのことは夢だったんじゃないか、最初から時間遡行なんてなかったんじゃないか。そんな考えが頭の片隅に過る。


 もう一度、もう一度、そうやって、何度も部屋を探してみても、見つからないものは見つからない。心配した両親が様子を見に来ていたが、その時の私にそれを構う余裕はない。日も暮れ、夜が明けても、結局時計は見つからなかった。





 その日から、私の実家生活は始まった。会社には心身の不調で休職願を出した。葬儀の時と同じようにあっさりと休みが取れたことに驚く。課長も何も言ってこなかった。


 かくいう私が何をしているのかというと、やはり時計の捜索だ。時間を巻き戻す時計だ、いつどんなことがあっても不思議ではない。まずは日課の部屋の捜索。一日毎に行っている。もしくは兄の家にあるのかもしれないと東京に戻って遺品整理がてら探したこともあった。けどやっぱりなくて、一番可能性のありそうな実家で日々を過ごしている。そんな私を心配した両親が旅行に連れて行ってくれたこともあった。旅行といっても京都への日帰り旅だったが、それでも三千院の抹茶は美味しかった。ずっと頭に時計のことがあったとはいえ、旅行はいいものだ。


 旅行から帰ってきてもやることは変わらない。部屋を捜索して、他の時間はぼーっと過ごす。ずっと何もしないから、物思いに耽ることが多くなった。兄との思い出を振り返ることもある。


 これは、私がまだ中学生だったころの話だ。当時の私は冴えなくて、部厚い眼鏡に長い前髪で目を隠した陰気な少女だった。当然、友人は少なく、ともすれば真の意味での友人はいなかったのかもしれない。


 当時、私はいじめられていた。あんな容姿だったし、よく喋るタイプでも成績優秀でもなかったから、ターゲットにはもってこいだったのだろう。もしかしたら、嫉妬もあったのかもしれない。当時から兄は完璧超人で、学校では憧れの先輩として有名だった。そんな人物の妹がこれだったから、がっかりしたと同時に、なんでこんな奴が、みたいな考えを抱くのは理解できる。


 靴を隠されたり、教科書に落書きされたり、机の中にごみを入れられたり、無視されたり。中学生らしい子供染みたいじめで、暴力にさらされりすることはなかったが、それでも幼い私の心は深く傷ついて、両親に相談もできず、自殺をしようかと考えたこともあった。思えば、私の卑屈な思考と臆病な性格はこの時の経験が起因しているのかもしれない。


 ところがある時、いじめがきっぱりとなくなったのだ。綺麗さっぱり、まるで初めからそんなものありませんでしたよという風に。それと同時に、いじめの主犯だった子たちが私を恐れるような目で見てくることが多くなった。


 私は不思議に思って、その子たちに問いただしたことがあった。今思えば大した有機だが、当時は好奇心に駆られていたのだ。そしたら言葉にならない声であったが、どうやら兄が関与していることが分かった。そのことを兄にも聞いてみたが、はぐらかされてしまった。けれど、兄がいじめを止めたことはほとんど確定的で、私はその時兄への見方を変えたのだろう。


 当時の私は、兄のことが苦手だった。単純な劣等感もあるが、それ以上に兄が何を考えているかわからなかったからだ。つまり、完璧な人間が冷たく見えるというあれだ。しかしこうやって助けられて、恩を感じる以上に、自分にはどうにもできなかった、いじめという問題を簡単に解決したその手腕に憧れた。私はこの時以来、兄にずっと憧れていたのだ。





 目を開けると、部屋の天井が見える。どうやら寝てしまっていたらしい。私は今、三階の、例の部屋で寝泊まりをしている。学生の時に使っていた部屋だからか、昔を思い出すことも多い。


 ベッドサイドの置時計を見る、これは東京の家から持ってきたもので、案外と愛着を持っていたらしい。


 時刻は午後の三時半。日付はもう八月になっていて、ちょうどいつも実家に戻っていた日と同じだ。


 ベッドから立ち上がって、兄の机に向かう。もはや惰性や義務感でしている、部屋の捜索だ。あの日以来二か月間、一度も欠かしたことはないが、もう心は諦めかけている。ゆっくりと机にたどり着いて、引き出しを開ける。


  ……あった。

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