第2話
私は寝耳に水で、かなりパニックになっていたように思う。だってあの時相談すると、兄は言ったじゃないか。昨日の今日だったのに、なのに何故? 疑問は絶えないし、もっと念を押しておけばよかったという後悔もある。だが事実は変わらない。兄は死んだのだ。そして私にはその後悔をなかったことにできる時計がある。例によって葬式には出ず、二か月待ち、三日間の夏休みを使って実家に帰ることにした。
ピンポーン。スーツ姿で実家の玄関の前に立ち尽くす私は、さぞ異様な光景であることだろう。だがこれは仕方のないことだ、休日のない私の生活には、私服などという高尚なものは存在しないのである。
母が玄関の扉を開ける。今回も事前に連絡していたので、不信感や困惑の色は見られない。
「ただいま」
「お帰り、美里」
「今日のお昼ごはん何?」
「今日は焼きそばを作ろうと思ってるの」
「ほんと? やった」
焼きそばは私の好物だ。特に母の作る焼きそばは、キャベツが入っていないので、私の好みドンピシャなのだ。
「そうだ、兄さんの仏壇はどこにあるの?」
すでに知っていることだが、聞くのはまあ、礼儀みたいなものだ。
「それなら三階の部屋に、美里も会ってきてあげて」
よく見れば、母の顔には疲労感が浮かんでいる。しかし、二か月が経ったからか、その声に悲壮感はなかった。強い人だ。
三階に上がり、部屋の扉を開ける。いつもと変わらない部屋だ。私は仏壇に線香をあげて兄の机を物色する。そして時計を見つけ、リューズを回して時間を巻き戻した。
白く眩い光の中で、私は三度目の気絶を迎えた。
フワリと目が覚めた。時計に目をやれば五月二日の七時。段々と時間遡行に慣れてきたのか、起きる時間が早くなっている。起きてすぐ、課長に連絡を入れる。
「お疲れ様です、浅田です。今日休みます」
言うだけ言って電話を切る。詰られるのが目に見えているし、課長の声など聞きたくもなかった。私服はないのでスーツに着替え、身だしなみを整えて家を出る。向かう先は当然会社ではなく、兄の家だ。
兄は、二十三区内のマンションに住んでいる。流石はエリートサラリーマンといったところか、高級そうなラウンジ付きのマンションは、私の住むボロアパートとは大違いだ。しかし問題発生だ。すっかり忘れていたが、現在時刻は八時三十二分。兄だって社会人なのだから、この時間に家に居るわけがない。兄に会うことしか考えていなかったことが仇となった。まさか会社に押し掛ける訳にはいかないし、夜になるまで待つのは時間が空きすぎる。仕方がないので一度家に帰ることにした。
家に帰るための電車は空いていて、明るい時間に席に座れたのは久しぶりのことだった。いつもは朝の満員電車か終電の暗い窓の外しか見ていなかったので、こうやって席に座りゆったりと車窓を眺めるのは新鮮に感じる。ビュンビュンとビルを後方に追いやって飛んでいく電車に爽快感を覚えた。
帰宅後、さて何をしようか。ベッドとスーツしか入っていないクローゼット、洗面台と置時計。何もない部屋で私は思案に暮れる。勢いで会社を休むなんて言ってしまったため、自由な時間を持て余しているのだ。とりあえず、ベッドに入って寝貯めしようとするが、中々眠れない。ならばと起き上がってスマホを取り出し、ネット小説を見漁り始める。いつも通勤中に見ていた作品も、途中までしか見れていないのだ。
しかしそれも長くは続かなかった、集中できないのだ。読んでいる途中で動画を見始めたり、部屋をぐるぐる回り始めたり、暇つぶしをしているのに暇、することがあるのに手持無沙汰。ずいぶん贅沢な悩みである。
ごろごろ、ごろごろ。ベッドの上で動き回って気を紛らわせる。こんな時、趣味の一つや二つあれば苦労しなかったのだろうか。趣味なんて作る時間ないけれど。
お昼時、兄に電話をかけようかと考えたが、やめた。サプライズで登場したほうがインパクトがあるし、事前に電話をかけたら逃げられるかもしれない。私はカップ麺にお湯を入れながら、そう結論付けた。いつものコンビニ飯ではないためか、やけにおいしく感じられた。知れと同時に、こんな食生活だから、使う時間もないのに金が貯まらないのだろうなと空しくもなった。
そして夕方、午後六時を回ったころ。そろそろ向かっても良い頃合いだろうと家を出る。道中、一日休んだからか、体が軽くて快適だ。
東京行きの電車に乗って兄のマンションへ向かう。時間帯が時間帯なのでそれなりに人が乗っていて、席に座ることは出来なかった。
駅から徒歩十分、いくつか信号を渡った先に兄のマンションが見えてきた。何階建てかはわからないが、それなりの高さの建物の五階が兄の部屋だ。
ガラスの扉で区切られたエントランス、壁に埋め込まれた番号付きのインターホンの前で私は立ち尽くす。スーツ姿の私が立っているとまるでセールスみたいだなと状況を客観視し、しかしその実緊張で行動に移せないだけだった。そもそも、いきなり押し掛けても迷惑なだけじゃないだろうかとか、家まで来て何をするつもりなのかとか、会社を勝手に休んだこととか、ここにきて冷静になってしまった。結局、使命感によっていなければ兄の家に行くことすらできない女なのだ、私は。
「美里?」
後ろから声を掛けられる。三週目の時、電話越しに聞いた、兄の声だ。私は急なことに驚いてバッと勢いよく振り返った。
「兄さん」
振り向けばやはり、兄の姿があった。黒いスラックスにシャツを着て、ジャケットを手にかけて持っている。カールした黒髪に、平均より少しだけ高い身長。そして見るものに柔らかい印象を与える優し気な笑みを浮かべた青年。五年前、最後に会った時と何も変わらない兄がそこにいた。死んだはずの兄との再会は、幾度か時間
遡行をした私にとっても奇妙な感覚だった。
「驚いたな、五年ぶりだろ」
「その、急に来ちゃってごめん」
「いいよいいよ、大歓迎さ。上がっていくかい?」
「うん、話したいことがあって」
兄は慣れた手つきでカギを開け、ガラスの扉を開く。「オートロックだから気を付けてね」と私を招き入れる様は紳士的で、私の知らない間に女性経験を積んだのかと勘ぐってしまう。
エレベーターで五回に上がり、兄の部屋に入る。入り際に洗面台を覗いたが、女物の歯ブラシはなかった。
「ここ座って」
と、四人掛けのテーブルの席に誘導される。
「ココアでいいよね」
「ありがとう」
流石は兄といったところか、私の好みをしっかり覚えている。砂糖を追加した甘さマシマシのココアだ。
「それで、話って?」
兄は私の対面に座り、真剣な面持ちで話しかけてくる。その目は真っ直ぐ私を見つめ、刺すような緊張感を持っている。私は一度深呼吸をして言葉を放った。
「お願い。しばらく、ここに置いて欲しい」
今回の作戦はこうだ。まず、兄の部屋に突撃する。そして兄と直接話をして自殺を辞めさせる。これは正直望み薄だ、話すだけで解決するなら前回の周で兄は自殺をしなかっただろう。次に計画の第二段階。兄の部屋に居座る、だ。これは二重の意味を持っている。
一つは長時間一緒にいることで兄の心を癒すこと。自慢ではないが、兄は相当なシスコンだ。そんなシスコンが妹に四六時中説得されて自殺などするであろうか、いや、しない。
二つ目は監視だ。私が家に居ることで兄が自殺しないように監視するのと、ちょっとでも抑止力に成ればいいと考えた。近くに居た方がなぜ自殺したかの理由を見つけやすいことも理由だ。そしてこれは最悪の考えだが、次の周につなげることも出来る。
ともあれ、この作戦は兄の了承が前提だ。断られたらひとたまりもない。兄の返事に注視する。
「……まさか」
兄は顎に手を当て思案して、そしてハッとしたようにつぶやいた。その言葉に、私は考えを見透かされたような寒気を覚える。
「うぉっ」
突然、兄が机に乗り出して私の両肩を掴む。思わず声が出た。
「DVか? DVなのか? ドメスティックバイオレンスなんだな⁉」
「え?」
「待っててくれ! 必ずお兄ちゃんが、その邪知暴虐の男を根絶やしにしてやるから
な!」
兄は私の肩を激しくゆすりながら、憤懣やるかたないといった表情で居もしない
男への憎悪を吐く。首がかっくんかっくん揺れる。そうなるのかぁ……じゃなくて!
「違う、違うって、兄さん違うから落ち着いて!」
私が制止すると、兄は、かろうじてといった風に平静を取り戻し、自身の椅子に
掛けなおした。しかしその瞳には未だ、使命の炎が残っている。
「ごめん、熱くなった」
「こっちこそごめん、急だったよね」
「泊めるのは全然かまわないんだ、でも、どうしていきなり? 家賃滞納だってして
ないよね?」
「それは、その……ごめん、言いたくない」
「……分かった」
流石に貴方の自殺を止めるためですとも言えない。しかし兄は少し考えた後、そう言って了承した。計画の第二段階が始まる。
あ、そうだ。ふと、あの時計のことを思い出した。あれは、兄の所有物のはずだから、兄は時間遡行のことを知っているのではないか?
「兄さんって、懐中時計持ってたっけ?」
「持ってないけど、急にどうしたの? あ、買ってあげようか?」
「それはいいの、ただ聞きたかっただけ」
というか、なんで私の家賃事情なんて知ってるんだ? ……いや、考えないようにしておこう。
「美里は僕のベッド使って、僕はリビングで寝るから」
兄はソファで寝ようとするが、そうはさせない。
「あの、兄さん。その、急に泊りに来たのにソファに寝させるのは申し訳ないよ」
「大丈夫大丈夫、これでも体は頑丈だから」
「だから、その……一緒に寝ない?」
「うっ……」
兄は一瞬目を見開いた後、うめき声をあげながら胸に手を当ててうずくまった。効
くだろうこれは、あのシスコンには。正直狭くて嫌なんだが、でも寝てる間に死なれると困るのでな。この程度はコラテラルダメージだ。
「い、良いの?」
「うん」
「ほんとに?」
「本当に」
「ほんとのホントに?」
「ああ、もうしつこい!」
私は案外良識があったらしいシスコン兄を強引に引っ張て、寝室へと連れ込んだ。こんな言い方をすればどこかインモラルだが、そういった雰囲気は一切ない。
兄のベッドは当然シングルサイズで、いい歳した大人が二人で入れば狭く、必然的に密着する形になる。
私は最初、両腕を体の前で固めてガードの体勢をとっていたが、次第に腕がしびれてきて、今は楽にしている。そうなると当然、兄に近づくことになり、兄の胸に顔を押し付けているような姿勢になる。
とくん、とくん、と兄の鼓動が私に伝わる。穏やかで、でも力強いそれは、兄がこの世界に生きていることの証みたいに思えて、気づけば私の頬には、熱い涙が流れていた。兄の服を汚す訳にもいかない、手で何度も目元を拭うが、涙が止まることはなかった。そんな様子を兄は気づいたのか、私の体を抱きしめ、とん、とん、と背中をたたいてくれる。
「大丈夫、お兄ちゃんはいつでも美里の味方だから」
頓珍漢な慰めではあるが、それは私の心に響いて、涙の川は勢いを増し、次第に嗚咽が混じり始める。
「うっ……ううっ…くうぅ」
「大丈夫、大丈夫だから」
嗚咽はいつしか号哭となり、私は一晩中泣きつくしたように思う。兄の大丈夫の声とともに、私は眠りについた。
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