逆行時計~何度やっても兄が死ぬ~

たかし@

第1話

 兄が死んだ、自殺らしい。

 

 そのことを私が知ったのは、初夏のある日のことだった。昼休憩時、母が私に珍しく電話をかけてきたと思えば、涙声で宗助が死んだと、そう伝えてきたのだ。通夜をするから、今すぐに実家に戻って来いという文言と共に。

私はすぐさま準備をして実家に向かった、ということはない。私にも私の生活があるのだ、そう簡単に休みは取れないし、前日に有給なんて申請しようものなら課長に殺される。葬式を二回行わねばならなくなるだろう、それは避けたかった。

 

 私は通夜にも告別式にも出ることなく、いつもどおり仕事に忙殺されていた。あれ以降、母から連絡は来ていない。母は怒っていただろうか、それとも落胆したか、それか、もはや諦めていたのであろうか。最初から期待はしていなかったのだろう。私は出涸らしだったから。親孝行も出来ない間抜けということだ。

 

 兄は、私と違ってできた息子だった。成績優秀、眉目秀麗、スポーツ万能。ラブコメなら今どき当て馬にもなれないような古典的な万能タイプだ。両親との関係も良好だったし、出来損ないの私にも構ってくれる良い兄だった。そんな息子が自殺だ、母の心労は察して有り余る。しかし私は、目の前の生活を優先してしまった。

 

 それはそうと、兄は何故自殺などしたのだろうか。一流の大学を出て、一流の企業に入社し、風の噂によれば順調に出世コースを歩んでいたという。恋人がいたということは聞いたことがないが、順風満帆な人生には他ならなかったであろう。やはり、一流の人間には一流なりの悩みがあったのだろうか。もしかしたら出世のために過労をしていたのかもしれない。下種の勘繰りになってしまうが、あり得ない話ではない。そう考えて、ふと我に返った。私は最低な人間だ。実の兄の葬式にも出ずに、過労死だなんだと騒ぎ立てている。下種も下種、まるで最悪だなと気分が悪くなる。どれもこれも、私が出来損ないなせいだった。




 兄が死んで二カ月、八月になって、私は三日間の夏休みをもらった。これを機に、一度実家に帰ることにした。葬式のことがある、歓迎されるとは思えないが、もはや一人だけとなった我が子を拒絶する程、両親は親を辞めてはいないはずだ。私は東京から新幹線に乗って、実家のある大阪に向かった。


「ただいま」


 インターホンを押し、ガチャという応答の気配を感じ取ってから、一方的に言い切る。ドアも明けられないまま締め出されたらたまったものじゃない、最初が肝心なのだ。


 しばらくすると、鍵の開く音がして、母が空いたドアの隙間から顔を出す。実に複雑な表情をしていた。不信、非難、親愛、困惑。それらの感情が少しずつ入ったような、無表情にも見える顔だった。そして沈黙。連絡もなしに押しかけてきてなんだが、久しぶりに会った娘に何か言うことはないのだろうか。


「ただいま」


「ええ、おかえり」


 もう一度言うと、母は恐る恐るといった風に言葉を返した。私は開きかけのドアを引き、ずかずかと家の中に入る。私が玄関を抜けると、母がカギを閉める。


「帰ってくるなら言ってくれればいいのに」


「急な休みだったから」


「忙しいみたいだけど大丈夫?」


「うん」


 母は、兄のことには触れなかった。もちろん、私が葬式を欠席したことも。それが今は惨めに感じる。陳腐な言い草だが、いっそのこと責められた方がましだった。


 二階のリビングを通り抜けて三階に上がり、扉の前で立ち止まる。二つある部屋の内、一つは寝室で、一つは兄と私の部屋だった。いつの間にか母が後ろに立っていて、固まっている私の肩に手を置く。


「まだあんまり整理していないから、美里もお兄ちゃんに会ってきてあげて」


 扉を開くと、私が家を出た時とは大きく変わった部屋があった。大まかなところは変わらない、兄と私の机があり、クローゼットが二つ、壁には高校時代の制服が掛けてある。しかし、二つの机の間に黒い仏壇が、線香の煙と共に存在していた。それなりに大きいはずの部屋が、少々手狭に感じる。


 私は部屋に足を踏み入れ、線香をあげて手を合わせる。在りし日の兄のことを想っ

ても、涙は出てこない。悲しいはずなのに、いまいち現実感がないのだ。


 兄は不思議な人だった。もちろん、優秀な人ではあったが、その上で変だった。例えば、急にスカイダイビングをしに海外旅行に行くと言い出したことがあった。両親も寝耳に水だったようで、聞いてみれば、スカイダイビングの動画を見て準備をしていたそうだ。そして翌日、本当にアメリカに飛んだ。


 あるいは、ある日、私の授業中の様子を映した写真を拾ったことがあった。父や母に聞いても知らないというし、一体だれが撮ったのだろうと不気味に思っていたら、兄が自分のだと言い出した。聞けば、私の写真コレクションがあるらしい。きっしょ、素直にそう思った。ドン引きだった。コレクションを見せてくれるというので見てみれば、アルバムの数はもはや三十を超えていたし、明らかに盗撮だろという写真もあった。


 しかし、止めさせようとは思わなかった。兄に対する劣等感は当時からあって、どんな形であれ、兄に認められていることが嬉しかったのだ。


 とまあ、兄は割と変人だったわけで、こんな思いでばかりなら涙も出ない。そう思って、目を開き立ち上がる。左右を見れば、当時と変わらない部屋があった。整理していないという母の言葉は、言外に私が見てもいいということなのだろう。


 兄の机の引き出しを開けると、中には様々なものが入っていた。日記や、いつとったのスーツ姿の私の写真。雑多な資料に使わなくなった財布などだ。その中でも一つただならぬ存在感を放つものがある。見事な装飾の懐中時計だ。はて、こんなもの兄の趣味だっただろうか。手に取るとずっしり重く、もしかしたら金でできているのかもしれない。当たり前だが、時間はあっていない。それが妙に気になって、スマホを取り出し時間を確認して、リューズを回して針を動かす。その瞬間、視界が眩しく白に染まって、私はあっけなく意識を手放した。




 ハッと目を覚ます。時刻は五時半、毎日同じ時間に起きるために時計を見ずとも分かるのだ。万が一のために目覚まし時計は置いているが、どうせ鳴る前に起きてしまう。身体が覚えてしまったのは悲しいことだが、便利でもある。でもまあ、一応確認ために時計を見……


「八時!」


 デジタル時計ははっきりと、八時三十二分を表示していた。


「ちっちこ、遅刻!」


 まずいまずいまずいまずい。ベッドから飛び起きて、洗面台に向かう。仕方ない、今日はノーメイクで行かなければと諦め半分で思っていたところ、何か見落としているような、強烈な違和感を覚えた。そもそも、私は実家にいたはずだ。ベッドに戻って再び時計を見る。時刻は八時時三十四分、そして、日時の枠には五月二日と表示されていた。


「え?」


「何で?」


「え、どうして?」


 人間、驚きが大きいと独り言が多くなるらしい。いきなり二カ月前の自室に戻ってきたとなれば、それはもう盛大に取り乱した。そしてあんまりにも、会社のことすら忘れて大騒ぎしていたので、もはや遅刻の時間だということを数分の間忘れていた。


 ヴーヴーと、スマホのバイブレーションが着信を知らせる。課長からだ。もうとっくに始業時間を過ぎているので、お怒りの電話なのだろう。私は逡巡の後、思い切って出ることにした。


「おい! 浅田……」


「申し訳ございませんでした!」


 こういうことは先手必勝だ。挨拶よりも、相手の言葉よりも先に謝罪する。相手が呆れて諦めたら私の勝ちだ。


「お前なあ……はあ、まあいい。覚悟しとけよ」


 逃げ切れなかったが、まあいい。どうせいつもの人格否定だ。受け流せば無問題。


 急いでスーツを着て、軽く外出の準備をして家を出る。会社に着けば課長にこってり絞られ、終電ギリギリまで働かされて家に帰る。時間が撒き戻ったことは気になるし、何か忘れているような気もするが、それは忙しない日々に流されて気にならなくなっていった。


 翌日、またいつものと同じようにアラームの前に起き、いつも通り仕事に行った昼休み、母から電話がかかってきた。


「宗助が、宗助が……」


 兄が死んだという、自殺だ。最初、私は上手く状況が呑み込めなかった。だって兄は元々死んでいたじゃないか、どうして人が二度も死ぬことがあるんだろうと。しかしすぐに、時間が巻き戻っていることを思い出した。そう、私がこの時間で最初に目覚めた日、まだ兄は生きていたのだ。


 なんて馬鹿なんだろう。兄が死ぬことを知っていたのに、私は何をすることもなく初手謝罪とかなんとか言ってはしゃいでいた。もしかしたら防げたかもしれない悲劇をみすみす起こしてしまったのだ。結局、また葬式にはいかなかった。

その日は仕事も碌に手がつかず、一度目の経験がなければ課長に説教を食らう事態になっていただろう。気合を入れなおして仕事を終わらせて早めに上がり、十一時に家に帰る。そして夕飯を食べている最中に、兄の部屋にあった時計を思い出した。あれを触っていた時に時間が巻き戻ったのだから、時間の巻き戻りはあの時計の仕業なのではないだろうか。そう考えた私は兄の部屋に戻るため、二か月後の夏休みを待つことにした。


 この二か月間は何とも不思議な気分だった。一度目と同じ仕事をして、同じ無駄な

会議をして、同じ人に初めて出会う。その間もじくじくと胸の奥に居座る罪悪感と、時間を逆行したのだという事実の浮遊感があった。今までの、そしてこれからの人生で一番奇妙な時間だったように思う。


 それから二か月が経ち、八月五日。私は一度目の時のように三日間の夏休みをもらい、新幹線で実家に帰省した。


 インターホンを鳴らす。今回は事前に連絡していたので、母が困惑しながら扉を開けることもないだろう。扉が開き、母が出迎える。歓迎の意が顔に浮かんでいた。


「ただいま」


「お帰り、美里」


 今度は和やかに再開を済ませ、玄関を抜ける。リビングに荷物を置き、三階の部屋の前に立つ。


「美里もお兄ちゃんに会ってあげて、お母さん昼ご飯の準備してくるから」


 ここまでついてきた母が、そう言って二階に降りていく。


 階段を下りる母を見送った後、私は部屋の扉を開けた。内装は一度目の時と変わらない、ただ、机と机の間に鎮座する仏壇が変に無粋に思えた。


 部屋の中に入り、兄の机をあさり例の時計を見つける。前回は時間合わせをしようとしたら時間が巻き戻った。つまり、リューズを触らなければ普通のの時計と変わらないのだ。おっかなビックリと時計を取り出し、手で回しながら外観を見る。相変わらず存在感を主張する重さと、金色のボディには何かしらの花をあしらった装飾。高級感を漂わせる逸品だが、やはり兄の趣味ではない。兄は収集癖があったが、しかし時計のコレクションをしているなんて聞いたことはなかったし、どちらかというと安価な限定品や記念品を集める質だった。


 くるくると時計を弄っていたが、もうこれ以上することもないかと、思い切ってリ

ューズを回すことにした。何も起きなければ笑い話で済むが、もしまた時間が巻き戻って、なおかつ頓珍漢な時間になってしまったり、はたまた未来に行ってしまったらたまらない。私は慎重に、逆時計回りにゆっくりとリューズを動かした。


 視界が白く輝き始める。私は来たかと身構えて、そしてまた気を失った。




 パチッと目を覚ます、今は何時だ。首を動かして時計を見ると五月二日の八時ちょうど。前回よりは早く起きられたが、会社に遅刻する時間であることは変わらない。時間遡行と名付けたこの現象は、もしかしたら体力を消費してしまうのかもしれない。


 スマホからケーブルを抜き、課長に電話をかける。ここは先手必勝だ。


「お疲れ様です、浅田です。申し訳ありません、本日寝坊したため遅刻します」


「は?」


「では失礼します」


 言いたいことだけを言って電話を切る。どうせ説教の長さは変わらないのだから今は会社に行くことを優先した。


 出勤すると、やはりというか課長の説教が待っていた。あの電話はなんだとか、遅刻のことについてとか、だからお前は出来損ないなんだとか、まあ、いつものだ。二時間の間くどくどと、よくもまあそんなに言うことがあるなという感じで続いた。それが終われば仕事に就く。二度やったことなので、比較的スムーズに進んだ。


 そして昼休み、朝起きてからずっと待っていた時間だ。私は自殺を止めるべく、兄に電話をかけることを決めていた。一度目と二度目、兄が死んだのは三日の朝だ、二日の昼にはまだ生きているから、説得は可能だろう。


 ビルを出て、人通りの少ない場所でスマホを操作する。


「もしもし。美里から電話なんて珍しいね」


 兄が電話に出る。とても明日自殺する人間には思えない明るい声だった。


「兄さん、その、何か悩み事ない?」


「いきなりどうした。悩み事を聞いてくるなんて」


 まあそうだろう、私も切り出し方が悪かった。


「いや、なんていうか、その……」


「美里、悩み事なら遠慮なく言っていいからね」


 何やら私が悩んでいると勘違いされたようだ。とはいえ、正直に自殺しますかなんて言えるはずもない。


「え、あ、違うの、悩みがある訳じゃなくて」


「仕事だって、いつでも辞めていいんだよ。父さんも母さんもきっとせめたりしない

よ」


 それは魅力的な提案だが、私が言いたいのはそうじゃなくて。


「兄さんも! 兄さんも悩みがあったら言っていいからね! 仕事だって、辛かったら辞めたっていいんだし、体壊したり、自殺とかしちゃう前に相談していいんだからね」


「うん、きっとそうするよ。辛くなったらちゃんと相談する」


「絶対だよ! 絶対!」


「分かった分かった、絶対ね」


「うん! じゃあまた」


「じゃあね」


 それきり電話を切って、私は胸をなでおろした。かなり婉曲な言葉になってしまったが、伝えたいことは伝えることが出来たと思う。あとは明日を待つだけだが、電話越しの印象では、自殺することはないんじゃないかと思えた。


 そして翌日、母から連絡があった。兄が自殺した。

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