第55話

 真奈は全身から汗が出た。ただ一言だけ言えばいい、それだけなのにその一言が口から出てこない。

 大河を倉庫裏に連れて来た。それはよかった。しかしそれだけだった。

 たった一言なのに、一向に口から出てこない。痺れを切らしたのか、大河からは無言の圧が出ていた。

 顔を見なくても分かる、あまり機嫌がよくない。それは自分のせいだ。


 何か言わないと、言わないと、言わないと。


「わたし、小学生の時から、大河が…で」


 漸く絞り出した声は、蚊が飛ぶ音と良い勝負だった。

 穴という穴から汗が噴き出る。耳も首も顔も、熱くて仕方ない。


 こんなはずじゃない、こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。

 昨日の夜だって脳内練習をした。倉庫裏まで連れて行って、一言。そしてその後は二通りの想像。


「は?」


 トドメを刺す、大河の低い声。


 目の前が滲む上に、汗は止まらず、赤面は治らない。


 クソ、クソ、クソクソ。

 こんなはずじゃなかった。他の女ができていることが、何故自分にできないのか。

 羽菜でさえきっと、こういうときは相手の目を見てはっきり言うだろう。あの女のそういうところが嫌いだ。


 拳を握りしめて、大河の言葉を待つ。


 そんな真奈を見つめ、羽菜は不安で不安で仕方がなかった。

 大河はよくも悪くもはっきりした人間だ。誰にでもはっきりと言うところがあり、そこが男女ともに好感を持たれている部分である。

 嫌だと思えば嫌といい、駄目だと思えば駄目と言う。

 この場面で避けたいのは、大河が「ウザい」と口にすることだった。

 大河の表情はよく見えないが、真奈が言葉を発するまでに結構な時間があった。

 声が小さくて羽菜たちには何を言ったのか聞き取れなかったが、恐らく雰囲気的に告白でもしたのだろうと思った。

 大河なら「聞こえなかった」や「声が小さい」等も言いそうだ。

 もし自分が一生懸命想いを伝えた時、そんな事を言われたらどうだろう。想像しただけで吐きそうだ。


 羽菜には見守ることしかできず、必死に心の中で真奈の応援をしていた。


 その隣で羽菜と同じく事の成り行きを見つめていた悠太は、声を出して笑いたいのを我慢していた。

 昨日あれだけ自暴自棄になり文句を言い、今まであれだけ高飛車な発言をしてきた真奈が、告白に手間取り、相手の顔を見ることなくボソボソと想いを伝えているのを見ると笑いが込み上げてきた。


 いつものあの勢いは殺され、その辺の女よりもか弱そうな真奈。大河の前でしおらしくなり、逆効果になっている状況がおかしくてたまらなかった。

 しかし、ここで笑ってしまうと羽菜からの好感度が下がってしまう上に、尾行してきたのがバレてしまう。

 肩を震わせながらも必死に我慢し続けた。


 俯いて何かに耐えるように体を硬くしている真奈。その後方でじっと静かにこちらを見ている二人。

 やりにくい、その一言に尽きる。

 大河にとって真奈は恋愛対象ではなかった。好きな女の友達。

 好きか嫌いで言うと、嫌いじゃないから好きの部類になる。けれど、好きという感情を持つ程の仲ではない。


 今まで告白をされてこなかったわけではない。こういう場面はそれなりにあった。ただ、そのときは羽菜が好きで、他と付き合う気がなかった。

 だが今はどうだ。羽菜はこちらに微塵の気もなく、他の男に惚れている。もしかして、という淡い期待もない。告白を断る理由がなくなった。


 真奈は羽菜の友達。

 仮に付き合ったとしたら、どうなるか。

 気をきかせて二人になるように、してくるだろう。しかし、あの二人もそろそろ付き合いそうな雰囲気だ。このままいけば、この四人でカップルが二つ誕生する。そうすると恐らくダブルデートをしたり、今まで以上の繋がりになってくる。


 それも、悪くない。


 ここで断ると、微妙な空気になる。羽菜は自分よりも真奈の味方だろうから、真奈を振った男とは距離を置くだろう。故意的に避けられるのは、嫌だ。


 答えは出た。


「あー、まあ、俺付き合ったことねえからそういうのよく分かんねえけど、それでもいいなら、まあ」


 好きな女は後方で事の成り行きを見守っているが、目の前の女と付き合うことを選んだ。


 目の前で赤面しているこの女は本気で自分を好いてくれているのだろう。それはひしひしと伝わってくる。その本気に本気で応えるような誠実さはなかった。

 羽菜と付き合おうとはこれっぽっちも思っていない。ただ、まだ好きなのは事実。少しでも一緒にいたかった。

 真奈を利用する形になってしまい、罪悪感が全くないわけではない。

 きっと真奈が自分にとって大事な友人だったなら、誠実になり断っただろう。

 真奈は好きな女の友達。誠実さを用いる程の仲ではなかった。


「ほ、ほんと?」


 瞳に涙を溜めて凝視してくる真奈を見ると言葉が詰まった。


「ほ、ほんとだ。嫌か?」


 ここで嫌と言われたなら、後戻りしただろう。


「ううん、全然。それでいい」


 嬉しそうに笑う真奈を見下ろすと、胸に残っていた罪悪感が減った。

 まあ、悪くない。

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