第36話

 女子たちがトイレから出て行ったことを、遠ざかる足音で確認した。

 扉を開け、手を洗ってゆっくりと教室へ戻る。


 鞄も一緒に持ってきていればよかった。まさかまだ校内に羽菜がいたりするのか。赤くなった目を見られたくないし、何より今会えば嫌悪感が一層増してしまう気がする。

 さっさと教室から鞄だけとって帰ろう。


 そう思い、なるべく下を向いて廊下を歩いていると「真奈ちゃん」と、まさに今聞きたくなかった声がした。

 立ち止まると小走りで近づいて来た、大嫌いな女。


 唇を噛み、なるべく目が合わないように視線を逸らす。


「真奈ちゃん、大丈夫?教室に鞄だけ置いてあって、なかなか戻ってこないから心配したよ」

「……そう」


 声を出して、しまったと思った。

 どう聞いても鼻声で、泣いていたということが簡単にバレた。


「どうしたの?目、赤いよ。何かあったの?」


 こういうとこが、嫌いだ。

 いかにも心配だというような目で見てくる。

 善良なんです、優しいんです、そう訴えられているようで苛々する。

 たかが鞄を教室に置いていただけで、少しの間教室に戻らなかっただけで、ちょっと目が赤いだけで、眉を下げて心底心配そうな表情をするな。

 放っておくという選択肢がこの女にはないのか。


「…ちょっとね。もう大丈夫だから」


 苛々する。苛々する。


 顔が引き攣っていると、自分でもわかる。

 上手く笑えているだろうか。


「で、でも」


 真奈が無理して笑っている。その原因が自分にあるとは到底思わず、自分に相談したら迷惑がかかると思い、無理して平気なふりをしているのではないか。羽菜はそう考えた。


「真奈ちゃん、もし嫌なこととかあったら言ってね。私たち友達でしょう」


 羽菜の精一杯の励ましだった。友達が何か抱え込んでいるのなら、力になりたい。

 その一心だった。


「…あ、ありがと」

「ううん、だって真奈ちゃん、本当に辛そうなんだもん」


 真奈は限界だった。

 一体誰のせいでこんな思いをしていると思っているんだ。


 いつも弱々しく生きてるだけのくせに、大河の心を奪って。なんであんたは可愛いとか陰で褒められて、自分は悪口を言われてるの。悠太だって羽菜の味方で、冷めた視線をこっちに送ってくる。なんであんただけ良い思いをしてるのよ。

 勉強を頑張って、毎日毎日頑張って、大河に好かれようと頑張って、羽菜と親友ごっこを頑張って。

 毎日毎日限界なのに、どうしてあんただけへらへら笑って生きてるの。

 それって不公平じゃないの。


 羽菜には悠太と大河がいて、周りの子たちだって羽菜を褒めて味方についてる。

 じゃあ、わたしは。

 わたしには誰が味方してくれるの。


 その思いがぐるぐると頭の中をまわり、目の前にいる女が一層憎くなってくる。


 羽菜と親友ごっこをやっているのだって、大河に好かれたい一心でやっていること。

 なのに、もう何年も親友をしているのに、大河との進展は何もない。

 大河はずっと羽菜しか見ておらず、いつまでたっても自分は羽菜の友達という認識しかされない。


 なんのために嫌いな女と親友やってんの。大河に好かれるためなのに、全然好かれない。こっちを見てもくれない。見た目を変えても、視線をくれない。


 精神的に限界だった。


「真奈ちゃん、帰ろ?」


 目の前が一瞬真っ暗になった。


「な、んで」

「え?」

「なんであんたと帰らないといけないの」

「えっ」


 一度出た言葉は、取り消せない。


「友達面しないでよ。ふざけないでよ。なんであんたと一緒になんか」

「ま、真奈ちゃん?」


 一度出てしまうと、どんどん溢れてくる。止まらない。止められない。


「なんなの、なんなの、なんであんたばっかり良い思いをしてんの!どうしてわたしには何もないの!!」


 ついには大声を上げてしまい、はっとして羽菜を見ると驚いた表情のまま固まっていた。

 やってしまった。

 いやでも、本心だ。この際だから思っていることを全部ぶつけてしまおうか。

 そう思い、羽菜を睨みつけた後、黒いものが視界に入った。


 気になり、ちらっと視線をやると、黒い制服を着た男子生徒が二人。

 悠太と大河だった。


 まさか、ずっと見ていたのだろうか。


 これから羽菜に溜まっていたものを吐き出してやろうというところだったが、大河の姿をとらえると、徐々に冷静さを取り戻し、とんでもない場面を見られてしまったと後悔した。


 教室に戻り、鞄をとって帰ろうとしていたのだが、結局教室へ行くのをやめ、その場から走って逃げた。

 後ろから「真奈ちゃん!!」と自分を呼ぶ声がしたが、走って走って、上履きのまま家に帰った。

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