第7話 茶色の小銭入れ
佳穂理は午後からも小さな事務所で事務の仕事をしていると言った。
私はあの十六歳の少女が一生懸命生きている事を思うととても意地らしく力一杯抱き締めたい衝動にかられた。
それからも私は佳穂理を昼の時間に約束し食事をしたりして会う様になった。
あの時、佳穂理は返事をしてくれなかったが何時も誘いに応じてくれた。
午後から深夜まで働いている佳穂理の事を思えば少しでも体を休める時間が欲しかっただろうに。
私の身勝手さを恥じながらも度々、昼の時間に佳穂理を呼び出していた。
ある時は桜の名所の公園で写真を撮ったり、ある日は、半島の先端の灯台へドライブなどして楽しい時間を過ごした。
私は佳穂理の店にも時々立ち寄ったが何時もお客がいて繁盛していたので店ではあまり会話が出来なかった。私は佳穂理の元気な姿を見て安心して帰るのであった。
私は佳穂理と会うたびに佳穂理への思いが益々強くなっていた。
そんな付き合いが数年続き何時もの様に昼の時間に松林のある公園でコンビニ弁当を食べながら佳穂理は言った。
「うちの娘が来年結婚する事になったのよ。お陰様で相手の人も凄くいい人で、私もようやく親としての責任を果たせそうなの」
「そうか、それはお目出とう」と言って私は佳穂理を見ると、佳穂理も私を見て優しく微笑むのだった。
この日は晩秋の海からの潮風が少し冷たかったが、気持ちは暖かくなった。
私は庭に出て庭木の落ち葉の掃除を始めた。
松の木にはもう雪吊りがしてあった。
あの年の冬も降雪が少なかった。
その為か春の訪れも早かった。
私は庭の掃除をしながら、あの港近くの公園で目に涙を浮かべ、恨みを込めた佳穂理の悲しそうな表情が蘇った。
あの年も春の訪れが早かった。
三月になるともう春の気配がして日差しも春らしくなった。
その日は日曜日で二人共仕事は休みだった。
私はその日の午後に港の近くの公園で佳穂理と会う約束をして待っていた。
やがて佳穂理は車でやって来た。
暫く公園をとりとめのない会話をしながら散歩した。
「娘さんの結婚の日取りは決まったのか?」と私は聞いた。
「ええ、六月の良い日に決まったのよ」と、佳穂理は答えていかにも幸せそうに微笑んだ。
「そうか、それはお目出とう」と言って、又暫く会話が途切れた。
「そこのベンチに座ろうか」私は佳穂理を促してベンチに腰掛けて大きく息をした。
佳穂理と二人で並んで遠くの景色を眺めていた。
春の風が心地よかった。
私はポケットから随分と使い込んだ茶色の小銭入れを取り出して佳穂理に見せながら「これ、覚えているか?」と聞いた。
佳穂理は驚いて、そして懐かしそうにその茶色の小銭入れを見ながら
「勿論覚えていますよ。あなたが遠くへ転勤する前にプレゼントした物ですよね。
まだ持っていてくれたのですか、嬉しいわ」と言って又、懐かしそうにじっと見ている。
「あぁ持っていたよ。今はもう使ってないが、大切にしまっておいたよ」
それから暫く会話が途切れてしまった。
佳穂理はまだその小銭入れを懐かしそうに見ている。
「佳穂理、これが俺の真剣な気持ちだ」
「真剣な気持ちって、どう言う事ですか?」
佳穂理は怪訝な表情で私を見ている。私は遠くの景色を眺めながら
「だから佳穂理、俺たちも一緒にならないかと言う事だよ」と言っていた。
佳穂理は「冗談でもそうなれば嬉しいわ。でもそんなバカな冗談は止めてくださいね」と言って呆れたように笑っている。
「そうか、やっぱり冗談にしか聞こえないのか」
私は空を見上げ大きく背伸びをした。
「だってあなたには奥さんもいるしお子さんもいるのにどうして一緒になれるの」
と佳穂理は又、笑いながら言った。
「それじゃお前はさっき冗談でも嬉しいと言ったけど本気だったらもっと嬉しいのか?」と私が聞くと佳穂理は、その私の問いには答えずに「もう少し歩きましょ」と言って私と目を合わせずにベンチから立ち上がり歩き出した。
それはそうだろう。こんな問いに佳穂理は答えられる筈がないと思った。
少し前を歩く佳穂理の肩が震えている。
振り返って私を見つめる佳穂理の目からは涙が溢れていた。
多分、私の残酷な問いに怒りをぶつけているのだろう。
佳穂理はどうにもならない現実に向かい合っているのだ。
私の無神経さが佳穂理を苦しめている。
私はもう何も言えなかった。そしてそっと佳穂理の肩を抱き寄せた。
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