第18話 いつかまた


サムがジェラールを連れ戻ってきた。まだ自分たちも整理できていない頭の中を、少しずつ整えながらジェラールに説明した。



『だから共に行こう。戦争が始まれば、ジェラールだって戦場に駆り出されるかもしれない』


話が終わると、ジェラールは、椅子に座り下を向いたまま動かないルステムを見つめ、サムとアスランに視線を移した。




『俺は‥‥行かない』


ルステムが顔を上げる。夜8時40分。誰も予想していなかった返事に、部屋の温度が少し下がる。



『俺は、戦争で死んであの世に行く。そうしたら、やっと父さんに認めてもらえる気がするんだ』


サムがジェラールの右手を掴んだ。

 


『そんなことはない!ちゃんと帰って顔を見せてあげるんだ!君の家族もみんな、記憶を失くして死ぬんだぞ!後悔してからでは遅い!』



『お前らには分らねぇかもしれねぇが、国のために身を捧げ灰となった息子を誇りに思う親もいる。丸腰で逃げてきた息子じゃなくてな。顔を見せれば、何を言われるかだいたい想像はつくんだ』


ジェラールは、サムの手をそっと離すと、アスランの方を向いた。


『俺の目標は、あの日からずっと離れずに心にいる。そしてまだ叶っていない』



秒針の、時を刻む音が響く。

今度はジェラールがサムの手を優しく包んだ。そして優しく目を細めた。3年間一緒にいて、初めて見せた表情だった。


『サム、ありがとう。お前のおかげで、ずっと楽しかった』


下を向いたまま答えないサム。

長針は、先ほどの場所から5歩進んでいた。

残された時間が、削られるように減っていく。

包まれたサムの小さな手に力がこもる。



『‥‥行こう、アスラン』


「サム!!」


『行こう。時間がない』


左腕で目を擦り、大きな手に包まれていた右手は、名残惜しそうに離された。

そのまま扉の前へ向かうと、ドアノブに手をかけ、振り返った。



『ジェラール!いつかまた必ず会えると信じてる!その日まで少しのお別れだ』


『うん』


『アスラン、急ごう。時間がない』



サムは前だけを見て、廊下を走っていく。ジェラールを説得することもできただろう。きっと今だって、心の中はまだ、決断を下している途中なんだ。本当は振り返って、ジェラールの元へ戻りたいはずだ。しかしサムはその道を選ばなかった。

アスランは、少し先を走るサムの背中を追いかけた。



『アスラン、前に好きな人はいるかって聞いたよね』


「うん」



『僕の好きな人は、とても頑固で無口で、なかなか気難しい人なんだ。僕は勇気が出なくて、自分の思いを伝えられなかった』



「うん」



『今度会えたら、伝えられるかな』



「きっと、伝えられるよ」



サムがどんな表情をしているか、アスランには見えなかった。廊下にあるのは、少し急ぐ靴音だけだった。隠すように、サムは鼻を啜った。

ただ真っ直ぐ進もうとするその背中を黙って応援したいと、アスランは思った。



寮を出ると、門まで小走りで向かう。


『どの道を進もう』


「街まで抜けられる道は、正面の道しかない。まだ帰っては来ないだろうから、見つからないように石壁に沿って歩こう。外灯の光に気をつけて」


一歩踏み出し、サムを自分の後ろに隠した。


「僕が前を行く。人影を見つけたら合図するから、ススキの茂みに隠れるんだ」


『分かった』


前方、左右を確認し、寮の門を抜ける。虫の鳴く声が聞こえた。月は相変わらず雲に隠れたまま、外灯は10メートルおきの間隔で道を照らした。師団は敷地内を捜索しているようで、門の外は静かだった。



『師団の人たち、ここにはいないみたいだね』


「きっと工場周辺と裏の森を捜索してるんだ。もうすぐ寮にも来るよ。あと少し遅かったら見つかってたかもしれない」


アスランは壁に沿わせていた体を離し、大胆に前へ進んだ。外灯の光の下、自分の影から逃げるように走る。人影はない。次はもっと大胆に走り抜けてみようと、2本指を使いサムに合図を送る。


怪しまれている様子はない。変わらず、隊員の姿も見えない。完全に油断したアスランは、道の真ん中を歩いた。


半分ほど来た時だった。ふたつ向こうの外灯の下、こちらに向かってくる人影が見えた。



「サム、誰かいる。そこの茂みに隠れて」


『了解』



外灯の下にきた時、一瞬だけ顔が光に照らされた。その影は、こちらが何者なのかよく理解しているように、銃口を向け、迷うことなく近づいてきた。アスランは立ち止まり、その影を待っていた。3メートルほど先まで来た。アスランは両手を上げ、前へ進んだ。



「ジーベル」



『先ほど、上官より連絡がありました。工場裏の森に侵入した人間がいると。犯人の特徴を聞いて、私はアスランさんのことが頭に浮かびました。そして、どうか違う人であってほしいと願っていました』


「こんな人間でがっかりした?」



『いいえ』


向けていた銃口をゆっくりと下ろし、銃をホルスターへしまう。



『星が、綺麗ですね』



アスランは空を見上げた。



「ほんとだね」



『いいんですか?自分が造った飛行機が飛ぶところ見ていかなくて』



「君は、それが何を意味しているのか分かってるのか」



『ええ。私は、はやくあの空へ往きたい』



見上げたまま、夜の風を感じるように目を閉じた。



『あとこれを。ノートを返そうと思って、アスランさんを探していました。出会えてよかった』



腰に挟んでいたノートを差し出した。



『整理していたら、荷物の中からアスランさんの名前が書かれたノートが出てきたんです。昔、交換日記をしていたというのは本当だったんですね。中身は見ていないので、安心してください』


アスランは差し出されたノートを受け取ろうと手を伸ばした。その時、ジーベルがノートを持っていた手を引っ込めた。



『あれはいつだろう。‥‥返そうと思っていたんです。たしか‥‥次の日』



「え?」



『そう。卒業式の次の日』



アスランはハッとし、目を見開いた。

ジーベルの中に、アスランとの記憶がかすかに残っていた。

思わず、細い手首を掴み、少しだけ自分の方へ引き寄せた。



「ジーベル‥‥」



『いってきますは言わないです。ただいまと言えないから』



「‥‥君は幸せかい?」



アスランの声は夜の闇に溶けていった。ジーベルは、垂れた金色の前髪を揺らし、唇を三日月の形にして微笑んだ。



『昔、誰かに教えてもらった気がするんです。幸せとは、そんなことも考えないくらい、没頭できる何かがあることだって。だから私は今、幸せなんだと思います』



アスランの心の中を、ひとつの言葉が駆け巡った。



"一緒に行かないか?"



言葉にしなくても、アスランの目はそう訴えかけていた。

ジーベルは微笑むだけで何も言わなかった。それが返事だった。


掴んだ細い手首を離すと、空っぽになった手でノートを受け取った。



『おい、壁の向こうから音がしないか』

『誰かいるのか』


男の声と足音が、ふたりの切ない空気を切り裂いた。



『逃げて。私が時間を作ります』



「うん」



『生きて。決して見つからないで』



「‥‥ジーベル、いつかまた」



アスランがもう一度ジーベルの手を包み、絡まった指はゆっくりと解け、最後まで繋がっていたふたりの人差し指がするりと離れた。


アスランは手を上げてサムに合図を送る。ふたりは壁に沿って走ってゆく。後ろでジーベルの声がした。


『私は、第七師団疾風隊隊員、ジーベル・シャルルです。こちら、敵人は確認できませんでした』




あと20メートルほど行けば、街へ続く道に出られる。道の先は、怪獣が眠っているかのような静かな闇。

アスランは呼吸を整えた。目を瞑り、ふと、ノートを開いた。3年前の卒業式、最後に残したメッセージ。



"すてきな夢が見つかってよかったね"



そう書かれたアスランの文字を、誰かが丸で囲んでいた。



最初の"す"そして、3文字目の"き"



丸で囲まれた言葉を繋げ、ぽつぽつと呟くように声に出した。


ノートの文字が滲んでいく。上から雨が降って来たのか、アスランの視界も悪くなる。


雨は止まない。喉が締まるように、呼吸がすこし苦しい。



『アスラン、どうしたんだ!進まなきゃ』


肩を揺らすサムは、振り返ったアスランの表情に、その手を離した。

真っ赤になった目を、右腕で擦る。



「そうだな。走ろう。前を見て」



ノートを抱き、ゆるい地面を踏み締める。また、涙が出る。



『‥‥アスラン、どうしたの』


「違う。これは、悲しい話じゃない。嬉しくて‥‥。でも、涙が止まらないんだ」






高い石壁に挟まれた道を10分進むと、壁に沿ってツツジの木が並ぶ道へと変わった。高さ2メートルほどの丸い木が並んでいる。

サムは、あるツツジの木のところで立ち止まった。


『ここに、抜け穴がある』


木と木の間の隙間に潜ると、その部分だけ、壁の下に四角い穴が空いていた。成人男性がひとりくぐれるくらいの穴だった。匍匐前進で進むと、壁の向こうは枯れた田んぼ道が広がっていた。

硬くなった土の道を進んでいく。

先にあったのは、別れ道だった。



『アスラン、僕は南にある実家に向かうよ。事情を話して、妹だけでも助けようと思う』


「分かった。僕もこのまま進んで西の村へ向かう。ジェンギスを助けに」


『ジェンギスさんは、記憶の薬接種したの?』


「うん」


『‥‥そっか』


「僕のことを忘れてしまっても、それでもいい。会いに行きたいんだ」


『うん!僕もだ。あの友人とも、また会えるといいね』


「サムも。いつかまた会おう。絶対に」


『アスラン、ありがとう』



サムはアスランを抱きしめた。

アスランもそれに応えるように、サムを強く抱き寄せる。



「じゃあ、また」



ふたつの影は、それぞれの道に向かい進んでいった。


その姿を見ていたのは、今にも溶け出しそうな、はちみつ色をした夜の月だけだった。






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