第16話 海


時刻は3時30分。


聖海祭のため、疾風隊、青龍隊、その他師団の隊員の多くは、祭りの警備に駆り出されている。王政の敷地内に残っているのは宮殿の護衛班と、特級訓練兵だけであった。


空衛隊が不在のため、この日は1日、テストで不備が確認された機体の修繕にあてられた。作業は外で行われた。

枯葉が風に舞っている。見上げると、空を駆け巡る疾風隊のジェット機が見えた。アスランはそっと微笑み、どこまでも続く海へと視線を下ろすと、ぐっと口を噤んだ。



5時30分。空は、今日の終わりを告げるように紺色のカーテンを下ろした。隊員たちは南館に戻り、進行中の機体の製造にとりかかる。


『ジェラール、そこのハンマー取って。こいつはヘタってもうダメだ』


サムはいつもと変わらない様子だった。


『アスラン、少し残れるか。今日中にこいつを片付けたくてな』


工具入れを漁りながら、ファルクが聞いた。


「はい。大丈夫です」


その様子を見ていたサムが、アスランに合図を送った。秒針の音は、背後から近づいてくる足音のように聞こえた。意識を手元に戻す。ふと心配になり、右ポケットに隠した懐中電灯を確認する。大丈夫、忘れ物はない。その時、6時を告げるチャイムが鳴った。


「ファルクさんすみません。お腹が痛くて、トイレに行ってもいいですか」


『あぁ、もちろんだ』


「失礼します」


もう一度、サムに合図を送る。



南館を出ると廊下は渡らず、外へと続くアルミ扉を開く。外はもう真っ暗だった。

誰もいないことを確認しながら、南館の壁に沿って裏側へ回った。足音を立てないように草の上を歩く。羽を閉じ、息を潜める虫たちのように。

慎重になるのはいいが、あまりゆっくりはしていられない。静かに、しかし、なるべく早くあの海に向かわなければならない。


フェンスの扉を見つけた。チェーンでぐるぐるに括られ南京錠がかけられていた。アスランはフェンスを登り、向こう側に着陸した。30段ほどの石段を一気に駆け上がっていく。幅も高さもバラバラだ。おまけに少し湿っている。少しでも気を抜けば踏み外し、財布から落ちた小銭のように転がっていくだろう。


階段を上り切ると、草が狩られた一本道が続いていた。茂みに隠れた。人の気配はない。アスランが予想した通り、裏の森は警備の対象から外れているようだった。


ここまではとても順調。時計がないので、どれくらい経ったかは分からなかった。少しくらいオーバーしていても、許容範囲内だろうと考えた。

夜の森は、こっちにおいでと手招きしているようで、アスランは一瞬躊躇した。ゆっくりと足を踏み入れる。暗い。誰もいないのに視線を感じる。

進むにつれて道が狭まり、垂れ下がるつる植物がアスランの行手を阻む。少しだけ目が慣れてきた。蜘蛛の巣ごと手でかき分け進んで行く。道は雑草に侵食され、ほとんどなくなっていた。少しの足音は気にせず、逃げるように走っていく。誰かに追いかけられているわけではないが、そんな気がした。



そいつは突然現れた。

蔦の暖簾をかき分けると、そこが新世界の入り口かのように、足元には砂浜が広がり、その先には黒い海が見えた。白い月も浮かんでいる。空との境界線は、ほとんど分からなかった。夜の海は、魔物を隠すかのように、静かだった。

誰もいないのを確認し、アスランはゆっくりと森を出て砂浜に足を沈めた。靴の中に、サラサラと砂が入っていく。海に近づくと、波は穏やかだった。再度周りを確認すると、アスランは、足元にやってきた波を手で掬った。冷たい。舐めると塩の味がした。


「海だ」


遠くにオレンジ色の小さな光が散らばっているのが見える。南地区の聖海祭だ。


残念ながら、この風景に感動している暇はなかった。アスランは、つなぎと靴を脱いだ。事前に半袖と半ズボンを中に着ていた。作業用のゴーグルを装着し懐中電灯を取り出すと、水の中へ足を踏み入れた。予想以上に冷たかった。体が思うように動かない。これ以上はと拒絶するように皮膚が縮まる。意気込みが少しだけ萎む。腰まで浸かったところで、一度心を落ち着かせる。しかし時間はない。一瞬で覚悟を決めた。お腹いっぱいに息を吸い、懐中電灯のスイッチに指をかけ、水中へと侵入した。



目を開ける。ゴーグルの隙間から水が入ってくる。懐中電灯をつけると、逃げていく生き物の影が見えた。複雑に絡まった海藻の網が、アスランを捕まえようと近づいてくる。

魚が泳ぎ、海藻が浮いている。昔、絵本で見た海の中とよく似ていた。少しだけ奥に進む。水面が胸上まできたところで、頭を沈める。海は引き続き、ここには何もありませんよと、知らんふりをした。



もう時間は残っていない。水面は顎を少し超えている。口に水が入ってくる。これで最後だと決め、アスランは海の中へ向かった。

ゴロゴロと音が響く水の中。照らしてあたりを探すが、何も見つからない。


もう少し先に進もうとしたその時、何かがアスランの足を突っついた。懐中電灯を自分の足元へ向けた。水中を泳いでいたのは、一足の運動靴だった。息が限界を迎えたアスランは、運動靴を持ち、砂浜へと戻った。


濡れた服を脱ぎ、つなぎに着替える。隠すように運動靴を服で包んだ。

それからは、振り返らずに森の中を走った。横に伸びた枝葉が顔にぶつかる。時々茂みに隠れ、警戒する。帰りは行きに比べて早く感じた。階段を下りる途中、手を振るサムの姿が見えた。人の気配はないようで、急げと手招きしている。


濡れた服を投げ込み、フェンスに足をかける。


『アスラン、無事で良かった』


ぴょんっと飛び降り、手を払う。


「ありがとう。待たせてごめんね。あの後、ファルクさんは大丈夫だった?」


『うん。すごくお腹が痛いみたいで医務室に向行ったって伝えたら、すごく心配してたよ。純粋な人でよかった』


「助かったよ。急いで戻ろう、話は僕の部屋で」



サムはアスランの濡れた服を抱えた。

外灯に照らされたふたつの影が、息を潜め深海を泳ぐように、夜の中を走っていく。

この時、階段の上に現れた小さな光に、ふたりは気づいていなかった。



寮内の見回りも上手くすり抜け、無事部屋へ戻ってきたアスランとサム。

力が抜けたように、アスランはベッドに横になった。大きく長い息を吐く。


『おつかれ。本当に無事で良かった』


「警備隊は1人もいなかったよ」


アスランは起き上がり靴を脱ぐと、足にこびりついた砂を払った。


『それで、収穫はあった?』


「それが、特に何もなかったんだ。普通の海だった。でもひとつだけ運動靴を見つけた。あの服の中にくるまってる」


引き続き、砂を払うアスラン。サムが服を広げ運動靴を持ち上げた。



『うわぁっ!!!!!!』


そしてそれを、扉前へ放った。手が少し震えている。


「どうした?」


『‥‥アスラン、それ、中に入ってるの、人間の足だよ』


アスランは、ひっくり返った運動靴を拾った。


中に入っていたのは、真っ白になった人間の足だった。

全身に冷たい電流が流れた。


「どう‥‥しよう‥‥」


『だ、誰かに相談する‥‥?』


「‥‥いや、ゴミ箱に捨てよう。僕がいくよ」


扉を開けたアスランは、前に進めなかった。視線の先には、見慣れた革靴と黒のスラックス。鼻先に触れる、甘く、苦い匂い。

立っていたのは、ルステムだった。



『君たち、何してるの?』






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