第10話 時の流れ



最近気づいたことは、毎日は、あっという間に過ぎていくということ。アスランは引き出しに入っていた先住者のノートを開き、1ページ破るとペンを握った。


ここに来て1週間ほどの頃は、仕事終わりの止まない耳鳴りに悩まされ、眠れない夜を送っていた。眠れないのはきっと、耳鳴りだけが原因ではなかったが、何も考えたくなくて、とりあえず耳鳴りのせいにした。夢の中でもハンマーを握り鉄塊を叩いていた。寝ている時くらい静かな幻を見せて欲しいものだと、アスランは思った。


体を起こし頭に浮かんだことを、とにかくなんでもいいので綴っていく。何もない時は、何もないと書く。何度も繰り返して書く。これがアスランが見つけた、ここで生きていくための方法だった。頭の中の石が吐き出され、ごちゃごちゃの本棚が五十音順に整理されていくようだった。

今日も窓からの光に目を覚ますと、そのまま机に向かい、紙いっぱいに綴っていく。時間は10分間。


夏が来た。顎から落ちた雫が紙に滲んだ。気温は上がり、朝からじんわりする暑さである。顔を洗い朝食を5分で済ませる。アスランが待ち合わせ場所へ向かうと、まだ少し眠たそうなサムとジェラールの姿があった。



『ふぁ〜、早起きだけは慣れないなぁ〜。アスランは毎朝スッキリした顔してるよね』


「村にいた時、早く起きて薪割りしてたから」


『えらいな〜』


そう言うとまた、小さな口をめいっぱい広げあくびをした。3人はサムを真ん中にし、横並びで歩いていく。


『そういえばさぁ、アスランとジェラールはいつから仲良くなったの?』


『仲良くねーよ』


『えー、でもジェラール、前は近づくのも嫌がってたのに』


『‥‥‥‥』


『アスランのこと認めたんだ!』


『違う!』


『いやぁ、気持ち分かるよジェラール。アスランはほんとに飲み込みが早いし、その上謙虚で勉強熱心だし、周りのこともよく見てるもんねぇ』


『もういい!俺は先に行く!』


ずんずんと前を進むジェラールを見て、アスランは少し嬉しい気持ちになった。最近のいい事といえば、ジェラールが以前に比べ話してくれるようになったことである。きっかけは、たぶんあの夜だ。



もうすぐ見回りがくるとジェラールから忠告を受け、アスランはすぐに部屋に戻った。その10分後、部屋の前を通過する革靴の音が聞こえてきて、足音はすぐにどこかに消えた。ジェラールの忠告がなければ、アスランには何かしらの処分が下っていたかもしれない。 


次の日の朝。工場へ向かうジェラールが見えて名前を呼んだが、ジェラールはスンと前を向いたままだった。作業が始まり、アスランは横目でジェラールの様子を見た。板金ハンマーで、車体の裏側を慎重に打ち込んでいる姿が見えた。

いつもと変わらないように見えたが、アスランは、ジェラールの顔が少し赤く熱っていることに気づいた。工場内に立ち込める熱風のせいかと思ったが、赤い面積は時間が経つにつれどんどん広がっているように見えた。昼食時も、ジェラールはひとり工場に残った。アスランが少し早めに戻ると、静寂の中、ジェラールはタイヤの取り外しを行っていた。


くるくると慣れた手つきでナットを外した。手品を披露するような、素早く、澱みのない、リズミカルな動きにアスランは釘付けになった。太陽は真上に登り、工場内の暑さは、1日の最高気温に達していた。アスランのこめかみ辺りを雫が通過した。タイヤを車から外し、それを持ったまま動きを止めると、ジェラールは2歩後退りをした。そして、ゆっくりと崩れるようにその場に倒れた。


「ジェラール!!」


意識を失ったジェラールの体は熱を閉じ込めているように熱くなっていた。医務室に連れて行こうと上半身を起こそうとしたが、土のたっぷり入った土嚢袋のように、簡単には持ち上がらなかった。しばらくすると、サムと数名の隊員が戻ってきたので、3人がかりで医務室へと運んだ。ただの風邪だから、数日寝ていれば大丈夫だと先生は言った。


アスランたちはすぐに工場へ戻り、午後の作業に取りかかった。18時。1日を終え、夕食を済ませると、アスランは医務室へ向かった。


医務室の電気は消されていたが、扉の鍵は開いていた。起こさないように、静かに扉を開けると、暗闇の中から『サムか』と声がした。カーテンの隙間に手をかけ中を覗くと、ジェラールは、少し期待するような顔から一変して、眉間に皺を寄せた。サムにはこんな表情を見せるのかとアスランは思った。



「‥‥体調大丈夫?」


『‥‥‥‥』


「明日も無理しない方がいい」


下を向いたまま、ジェラールは何も言わなかった。「じゃあ」とアスランがカーテンから手を離したその時。


『お前、なんでここに来たの?』


カーテンに、ベッドに腰掛けるジェラールの影が写った。


「君が体調崩したって聞いたから」


『違う。この工場に。なんで来た』


「あぁ、そういう意味か。‥‥呼ばれたから‥かな」


5秒の沈黙が流れた。


『‥‥むかつく』


「え?」


『お前見てるとむかつくんだよ!!周りから期待されて、持ち上げられて、それなのにお前は、なんのことですかみたいなとぼけた顔してやがる‥‥。俺は、あいつに勝つため、それだけのためにこれまで努力してきて、やっと掴めそうだったのに‥‥』


「誰かに勝つためだけに、今ここにいるの?」


『なに?そんなことが理由かって?お前みたいな奴には分かんねーよな。親に認めて欲しくて、好きでも、得意でもないことを心を殺して続けてきたんだよ!!』


ジェラールの声は壁に跳ね返りアスランの体にぶつかった。また、10秒ほどの沈黙が流れた。


「うん、ごめん。分からない。僕は必死にもがいてここに辿り着いたわけではないから」


窓の外は、暗闇に丸い月が浮かんでいる。カーテンの向こうで鼻を啜る音が聞こえた。


「でも、君の頑張る理由をバカにしようなんて思わない。誰かに勝って、両親に認めてもらう、それが君の目指すところなんだろ」


『‥‥』


「目標っていうのは、気づいたらどこかに行ってしまって、出てきたり、いなくなったり、なくなったと思って探してみても見つからなかったりするらしい。だからちゃんと自分の心に潜っておかなくちゃいけない。特に、夜はいなくなりやすいらしいよ。僕にはその目標すらないけど」


『‥‥なんのこと言ってんだ』


「校長先生の受け売りだよ。努力と幸運は良き友なんだって」


『‥‥お前もそう思うのか』


「分からない。僕次第かな」


動かない黒い影を少しの間見つめ、「ゆっくり休んで」と、アスランは部屋へ戻った。

次の日、隣の班には、荷物が少し軽くなったようなジェラールの姿があった。





1ヶ月経つと、工場の匂いにも慣れていた。いつから気にならなくなったのかは思い出せなかった。2ヶ月が経つと、班長はミスを犯した3人を叱咤するようになった。製造部隊員として認められたが故であったが、12歳の彼らの心は日々すり減っていった。そんな夜は3人で集まり、互いを労い合うことで精神を保った。

3ヶ月が経ったある日、修繕作業のテストが行われた。ファルクはアスランが修繕した車の周りを一周すると、親指を立て白い歯を見せた。合格のサインだった。半年が経つと、3人はそれぞれひとりで作業をするようになった。自身の決定により責任を伴い働くというのは、自由を与えられたようで思いのほか気楽であった。



時の流れ、人間の適応能力というのは残酷である。何も感じなくなったことにも気づかなかった。躊躇している暇はなかった。余計なことを考える時間はなかった。少しも休んではいられない。やることは山積みで、ハンマーを振りおろし、旋盤に食らいつく毎日が終わることはない。ある日持ち場に届いていたのは、先月修理したばかりの車だった。また別の箇所が故障してしまったようだ。黒く塗りつぶされたキャンバスには上から白を塗って新品のようにみせる。破れてしまった風船の穴を塞ぐ。疲弊したゴムはまたすぐにどこかが破れてしまうだろう。アスランの手はどんどん汚れ真っ黒になり、水で擦っても落とすことが難しいほどであった。


夕食を終えた3人は、外に出ていくつかの星をぶら下げた夜空を眺めた。深く息を吸い、吐き出す。こうして毎晩、体の中の溜まった空気を入れ替える。



『あ、なんか今日の風は少し暖かい気がするね』


吹いてきた風に目を閉じながらサムが言った。


『気のせいじゃね?』


「‥‥たしかに、少しあったかい」


3人がこの工場に来て、もうすぐ1年が経とうとしていた。






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