第8話 候補生
『今日はもう部屋に戻って、夕食は6時半から食堂で。一階にある。明日からは実際に製造部隊に入ることになる。今晩はゆっくり休んだほうがいい』
アスランを工場の玄関まで送り出すと、ルステムは中へ戻ろうとした。
「あの、ルステムさんは」
『俺は工場に戻るよ。ファルクのことは明日紹介する』
そう言い残し背中を向けたルステムを、アスランは再び呼び止めた。
「あ、あの!‥‥」
『なに?』
「あ、いえ。ありがとうございました‥‥」
『‥‥206が俺の部屋。相談したいことあれば、後で来ていいから』
そう言い残すと、今度こそ背中を向け、ルステムは工場の中へと姿を消した。
アスランはひとり寮に戻った。寮はカランと静かだった。時間は5時過ぎ。6時半の夕食にむけてか、寮の玄関にはスパイスの香りが立ち込めていた。匂いに誘われるように、つま先は自然と食堂の方を向いた。ガラス窓から食堂の中が見えた。縦長のテーブルが奥から10台敷き詰められている。向かい合って、1台に50人ほど座れそうな長いテーブルだった。料理を受け取るであろう窓の奥では、割烹着姿の何人かが忙しそうに動き回っていた。
「今日はカレーかな」
アスランは、作業場のスニーカーを胸に抱え、階段を上がった。自分の部屋に戻るとベッドに腰掛けた。そのまま倒れるように横になると、強烈な睡魔に襲われた。起きあがろうとしても、頭と体はすでに泥のように重たくなっていた。車の中で寝たばかりなのにと思いながら、アスランの瞼はどんどん落ちてきて、壺に蓋をするように視界は暗くなった。
「はっ」
夢をハサミでちょんと切られ、アスランは目を覚ました。はっと目覚めた理由は、先ほどと比べ廊下が賑やかになったからである。扉に耳を当てると、仕事を終えた隊員たちがぞろぞろと戻ってきたようだった。6時20分。もうすぐ夕食の時間になる。
アスランが扉を開けると、部屋の前を通るひとりの隊員と目があった。
『な、なんでこんなガキがここにいやがる』
『あぁ、あれだろティムール推薦の候補生とかいう』
『けっ、こんなちっこいのに俺たちの仕事が務まるとは思えんがな』
突然の言葉に、アスランは何も言い返せず下を向くことしかできなかった。
『なー、俺の部下になんか用かぁ』
聞き覚えのある声と足音に、アスランは顔を上げた。
『げ‥‥ルステムの部下かよ』
『いや〜、ルステムなんでもないさ〜。君の部下が困ってたみたいだから助けようと思ってな』
『そりゃどーも。こいつは俺がちゃんと教育するから、お前らの心配には及ばない』
『そ、そーだよな。ほらお前、行くぞ』
男たちは尻尾を股に挟み、足早に立ち去って行った。
『今から夕飯。行くぞ』
「はい」
食堂に着くと、狭い廊下には長蛇の列ができていた。汗と湿った空気が混ざって、嫌な匂いが充満していた。ルステムが手を挙げると、人波の中から誰かがひらひらと手を振り返した。
『ハセン、友人』
「あぁ」
『ひとりで食べたかったらどうぞ。あそこから受け取って、好きなところに座って食べればいい』
「はい。ありがとうございました」
指差した手を下ろし、ルステムはハセンという友人の元へと向かった。
時計の針は6時29分をさしていた。食堂は6時半ぴったりにならないと開かないようだった。ガラガラガラと扉が開かれ、待っていた人たちは吸い込まれるように中に入っていく。
アスランも食堂に入ろうとしたその時だった。
『あ!お前!』
なんとなく自分に向けられた声のような気がして、アスランは足を止め、声のした方を見た。
立っていたのは、顔に煤を残したひとりの男の子だった。男ではなく、アスランと同い年くらいの男の子である。アスランは、彼が誰なのか一瞬で理解し近づこうとした。
『来るな!』
「え‥‥」
『‥‥お前、西区の村のやつか』
後ろでは『早く進めよー!』と誰かが叫んでいる。アスランは、彼に近づこうとしていた足を入り口に戻すと中へ進んだ。
中にもまた、長蛇の列ができていた。作業つなぎを着たままの隊員の後ろに並び、アスランはカレーを受け取った。ルーの中でとろける大きめの野菜は、気持ちよさそうに見えた。
カレーを受け取ったアスランは真ん中の列を選んだ。ひとりで食べている人が多い列だったからだ。ひとり分のスペースを空け、肘をつき足を組みながら食べる隊員の横に座った。隊員はグーで握ったスプーンを口へと運んだ。斜め前に座っている隊員はかき込むようにカレーをほおばっていた。アスランもいつもよりも早くスプーンを動かした。
食べながら食堂を見渡すと、友人と話しながら食事をするルステムの姿があった。
ぐるっと反対側を見渡すと、ひとりの男の子と目が合った。先ほどとは別の、しかしアスランと同い年くらいの小柄な男の子だった。隣にがたいのいい男が座っていたので、際立って小さく見えた。
男の子は目が合うとニコッと笑ってきたので、アスランはペコリとお辞儀をした。よく見ると、先ほど話した男の子が隣に座っていた。しかし、目が合うとそらされてしまった。
アスランは目の前のカレーに集中し、最後のジャガイモを食べると、残ったルーをかき集め、あむっと口に入れた。
食堂を出て部屋に戻ろうとするアスランを誰かが呼び止めた。
『ねぇ!ちょっと待って!』
小走りでアスランに近づいてきた男の子はやはり小柄だった。もうひとりの男の子は、ポケットに手を突っ込みながら後ろからのそのそとついて来た。
『君がアスランくん?!』
アスランは、どうして自分の名前を知っているのかと驚いた。
「う、うん。どうして僕の名前‥‥」
『僕らの学校で君の名前を知らない人はいないよ!なんたってあのティムールが1番に推薦したんだから!』
「1番?僕が?」
『そうだよ!紙もらっただろ?それに順位と評価が載ってたよ!アスランが1位で、ジェラールが2位、僕は3位だった。西の村からそんな逸材が現れるなんて、どんな奴だって噂になってたよ!』
男の子は手をズボンに擦り付け、『僕はサム。これからよろしくね』と手を差し出してきた。
「あぁうん。よろしく。じゃあ、後ろにいるのが、ジェラール?」
『‥‥‥‥』
『ごめんね。自分が1位じゃなかったことが気に食わないみたいなんだ』
『サム、余計なこと言うな!』
『本当のことだろう。まったくいつまで意地張ってるのさ。候補生は僕たち3人だけなんだから仲良くしようよ』
『‥‥』
『はぁ、まったく。ごめんね。僕とジェラールは同じ南区の出身なんだ』
「南区って、大きな工業地帯がある地域だよね。凄いなぁ、僕見てみたかったんだ」
『嫌味か?そんな地域出身のやつがへっぽこ村のチビに負けてやんのって』
『こらジェラール。はぁ。ジェラールは街で有名な精密機器メーカーの御曹司なんだ。彼は学校の成績でもスポーツでも、クラスの人間に一度も負けたことがないから、これはいい経験だと思う』
サムはやれやれという表情をした後、『改めてよろしく』とアスランに手を差し出し、ふたりはかたい握手を交わした。
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