第4話 それぞれの居場所へ



外は珍しく、しとしとと雨が降っていた。


『‥‥お、アスラン、もう行くのか』

「あ、起こした?早く目が覚めたから。おじぃ、今日は足場が悪いから家から出ないほうがいい。あるものでご飯作れるよね」

『おお、そうする。ありがとうな』

「じゃあ、行ってきます」


アスランは傘を開き、小さな穴が空いているのを確認すると、柔らかくなった地面に足を踏み入れた。いつもより緑の匂いが濃く漂う道を歩いていく。海が見えた。何かに怒っているかのように、轟々と波を荒げている。いつもは穏やかなのに、少しの事でこんな風に崩れてしまうのかと、その豹変ぶりにアスランは少し怖くなった。


学校に着くと、ジーベルの姿があった。アスランより早く来ているのは珍しかった。


「ジーベルおはよう。早いね」

「アスランおはよう!」


そう答えるとアスランの手首をクイっと引っ張り「土曜日はありがとう」と囁いた。


「あぁ、うん。楽しかったのなら良かった。なんか帰り静かだったから、疲れちゃったかなって少し心配したけど」


「楽しかったよ、とっても。‥‥それに大切なものが見つかった」


「大切なもの?」


「そう。ノートに書いたよ。やっと見つけた、私の大切な夢」


ジーベルは、交換ノートに自分の夢を書いたと言ってきた。アスランはそれがどんな夢なのか知りたくて、すぐに家に帰りたい気持ちになった。交換ノートは、学校では開かないルールにしていた。トイレに持ち込んで読もうかとも思ったが、神聖なノートにトイレの空気が纏わりつくのは嫌だと考え諦めた。


『ジーベル、何読んでるの?』

「これね、元疾風隊の人が書いた本なんだって。疾風隊ができた歴史とか、訓練の様子が細かく描かれているの。内政のことも書かれてて、すごく勉強になる」

『えー、なんか難しそうなの読んでるわね。一緒にドッジボールしに行こうよー!』

「んー、じゃあ、あと5分だけ読んだらグラウンドに向かうわ。それでもいい?」

『おっけー!約束よ!待ってるからね!』 

「えぇ」


6人がいなくなった教室はカランと静かになった。アスランの背後には、ずっと気配があった。


「行かなくていいの?」


アスランは、前を見たまま問いかけた。


「学校ではあんまり話さない方がいいわ。さっきから、コスカンずっと私たちを見てる」

「君を見てるんだよ」

「よほど私のことが好きなのね」

「なんか性格悪くなった?」

「レディに対して失礼じゃない?」

「これは失礼」


リズムの良い会話が続いた後、ジーベルは席を立ち外へ出ていった。



この日は、いつもり少しだけ早く家に着いた。理由はひとつだった。ジーベルが書いた夢を知りたかった。傘を閉じるとそのまま壁に立てかけたので、垂れた雫で床が濡れていた。交換ノートを取り出し鞄を放り投げた。5ページ目。いつもより長い文章で綴られていた。


"アスラン、今日は素敵なお祭りに連れていってくれてありがとう。とても楽しかった。お祭りに行ったのは初めてだったの。甘いカステラも初めて食べた。私の家は食べるものに厳しいから。少し悪いことをしているような刺激的な時間だった。


空を飛ぶ飛行機は、自由の翼を手に入れた鳥のようだった。あんなに美しい海も、初めて見た。海と空がこっちにおいでって、私のことを手招きしているように見えた。そしたらもっと近づきたいって、もっと知りたいって思ったの。

もしかしたら、あそこが私の居場所なのかもしれない。


この国では、16歳になったら政府か町の工場に送り出されるって、お父さんが教えてくれたわ。それを聞いてね、政府の空衛部隊に入りたいと思った。それが私の夢。

夢って何も、安全な住処を見つけることだけじゃないんだなって気づいたの。今日聖海祭に行ったから。アスランありがとう。"



アスランは、少しの間動けなかった。力が抜けた体の上に岩を置かれているような重たさがあった。ジーベルにとっての幸せが見つかって良かったと思った。ノートの中には、数ヶ月前、小川で泣いていた彼女の姿はなかった。アスランは自分に、いいことだと言い聞かせた。明日もし話せたら、良かったねと伝えようと。

しかし、ドンと置かれた大きな岩がその心を邪魔した。岩の正体は分かっていた。



"ジーベルが遠くに行ってしまう"



悪魔が囁いた。ジーベルには、お前なんて必要ない。彼女は強い。政府に入ったらもっといい男を捕まえて、結婚して、幸せに暮らすさと。

アスランは想像しただけでも耐えられないと、悪魔を潰すようにノートを閉じ、布団に丸まった。体調を心配するジェンギスの声にも、アスランは反応しなかった。



昨晩は、交換ノートには何も書けなかった。しかし、ジーベルがせっかく教えてくれた夢だ。もし話す機会があれば、素敵な夢だねとだけ伝えようとアスランは考えていた。


「アスランおはよう!」


後ろからジーベルの、優しい声がした。


「おはよう、ジーベル」


振り返らずそう答える。そして、ジーベルがノートを鞄にしまう音が聞こえるところまでが一連の流れである。しかし、今朝はその音が聞こえなかった。その代わりに「あれ‥‥」という小さな声が聞こえてきた。ノートは入っていない。アスランは返事を書いていないのだから。

振り返り、練習したセリフを伝えようとしたその瞬間だった。


『ジ、ジーベル』


コスカンだった。アスランは、横に向けようとしていた体をすぐに前に戻した。


「コスカン、おはよう」


『お、おはよう。噂で聞いたんだが、君が王政の空衛部隊に興味をもってるって』


「え、えぇ。聖海祭の時に見て、かっこいいと思ったの」


『君に似合う素敵な夢だと思う。君は頭もいいし、運動神経もいい。父さんに君のことを話したら、ぜひ会わせてほしいと言ってきたんだ。父さんの弟が疾風隊の隊員なんだ。もし話せば、訓練の様子を見せてもらうこともできるかもしれない』


「えっ‥‥それは、すごく興味がある‥‥」


『ほ、本当か!?今晩父さんに話してみるよ!父さんは王政の知り合いも沢山いるんだ!きっといい結果を報告できると思う。少し待っていてくれ!!』


「え、あぁ、うん。ありがとう」


コスカンは満足そうな顔で自分の席に戻っていった。


「ねぇ、アスラン。今日ノー「ちょっと、トイレ」


ジーベルの声を遮り立ち上がった。今のアスランは、この手札しか持っていなかった。

教室を出ると自然と涙が溢れた。言いたかった言葉をコスカンに言われてしまった。喉の下が赤くなり、熱くなった。慎重に積み上げ作り上げてきた城を、ひと蹴りで壊された。ジーベルはアスランに話しかけていた。コスカンのことなんて気にする必要はないのに。

止まらないこの涙の名前を、アスランは知らなかった。


ジーベルと会話しないまま一日が終わった。帰り道、校門を出るジーベルの後ろ姿を見つけた。隣にいたのはジーベルと同じ、金色の髪の少年だった。コスカンは、幸せそうにジーベルの顔を見ながら話していた。何を話しているのか、今朝話していたことだろうか。

アスランは、小さくなるふたりの後ろ姿を見て気がついた。ふたりの纏う空気は、少し似ている。コスカンは裕福な家庭で育ち、教養もある。彼の周りにはその豊かさがもたらす"育ちの良さ"が漂っている。そして、それはジーベルも同じだった。教室を出た時、なぜ涙が出たのか。ジーベルは、コスカン側の人間だと気づいてしまったからだ。


その夜アスランは、交換ノートに一言だけ書き、眠りについた。


"すてきな夢が見つかってよかったね"




最近は雨の日が増え、今日もポツポツと雨が降っていた。自分の心のようだとアスランは思った。

あの日から、アスランとジーベルの関係は少し変わってしまった。正確に言うと、アスランはジーベルを避けるようになっていた。悔しさと情けなさとやきもちが、煮込み過ぎたスープのようにドロドロになって、どうしたらいいか分からなかった。ジーベルは全く気づいてない様子でアスランに声をかけてきた。


「おはようアスラン!」

「おはよう」

「昨日の夜ね、お母さんとクッキーを焼いたの」

「それは良かったね」

「紅茶のクッキーなんだけど、アスラン好きかなって思って」

「ありがとう。でも今はお腹いっぱいだから」

「‥‥そう‥」


ジーベルは取り出そうとした、リボンのついた箱を鞄に引っ込めた。


「アスラン、教科書見せてくれない?」

「ごめん。僕も忘れたからビュゼに聞いてみて」

「あ、そうなんだ。分かった」



「アスラン」

「‥‥」



アスランは振り返ることなく、ジーベルもそんなアスランを追いかけようとしなかった。ふたりの間には"おはよう"のたった四文字すら聞こえなくなった。アスランは最初の頃は数えていた。ジーベルと話さなくなって何日経ったか。しかし、途中からそれもやめて、もうどれくらいの間ジーベルと会話していないのかは分からなかった。最後に数えた日が2週間目だった。あれからも時々、ジーベルとコスカンが一緒に帰る後ろ姿を見かけた。今では、その姿を見ても何も思わない。


今週はずっと雨が降っている。この国でこんなに雨の日が続くのは珍しかった。

やはり毎日使うとなると穴が気になるな、とアスランは思った。歩くたびに、足が地面に沈むような感覚になった。洗ったばかりの靴はすぐ泥だけになった。泥に混じって葉っぱがへばりついたので、取ろうと思い、しゃがんで立ち上がった。その時だった。

アスランの行手を阻むように、道の先にジーベルが立っていた。ジーベルはこちらをじっと見つめていた。アスランは道を変えようか考えた。しかし確実に目は合っているので、今道を変えることは、"僕は君と話す気はない"と告げたことと同じになる。

ジーベルはきっと自分を待っていたのだろう。そしてこれは、彼女からの最終警告かもしれない。そうアスランは思った。そして、ゆっくりと近づいた。


「‥‥雨、続いてるね。気をつけて帰って」


アスランはそれだけ伝え、その場を立ち去ろうとした。


「‥‥どうして‥‥」

「え?」

「どうして、私たちこうなったの?」

「‥‥こうって?」

「アスラン、最近私を避けてるよね?私が気づいてないと思った?」

「‥‥ごめん」

「理由を知りたい」

「‥‥言いたくない」

「私には言えないこと?」

「‥‥そう」

「‥‥‥‥」

「‥‥ごめん」

「‥‥私、今週末コスカンと一緒に疾風隊の基地の見学に行くの」

「よかったね」

「‥‥それだけ?」

「いってらっしゃい」


少しの時間が流れた。ジーベルは何かを待つようにアスランを見つめた。それでもアスランは下を向いたまま、何も言わなかった。だから、ジーベルの頬を走る光にも気づかなかった。


「そう。分かった。もういい」



夜は苦しかった。心を括る糸は複雑に絡み合っていた。一度絡んでしまった糸を解くのは簡単じゃなかった。もし、もっと前の段階で気づいていたら簡単に解けたのかもしれない。いや、どうだろう。

窓の外は暗かった。雨の音が聞こえた。その音に集中していると、突然、猛烈な睡魔が襲ってきた。


『アスラン、起きとるか。寒くなってきたからシチューを作った。置いておくから、ちゃんと食べなさい』


「‥‥‥‥」


『あの日からか‥‥。一体何があったんじゃ』


ジェンギスはアスランが眠っているのを確認すると、蝋燭の火を消し、灯りを失った部屋に扉の閉まる音が響いた。




朝、窓の隙間から、涼しい気持ちの良い風が入ってきた。アスランは深く息を吸った。枯葉の匂いが冷たい空気に混ざった、秋の風だった。


「おじぃ、おはよう」

『おぉ、アスランおはよう』

「昨日は眠くなっちゃって、シチューごめん。今日はちゃんと食べるから」

『いいや、お前さんのペースでいいさ。今日は久しぶりに朝市に行ってくる。何か食べたいものはあるか』

「牛肉煮込んだやつ、食べたい」

『おぉ、分かった』


ジェンギスはそれだけ言うと自分の部屋へ戻っていった。


傘をささない朝は久しぶりだった。雨が明け、新しい風が吹いて、少しだけ世界が変わったようだった。その空気は教室の中にも広がっていた。窓から差し込む光にはら、柔らかい色がついているように見えた。


『アスランおっはよ〜』

「おはようビュゼ!」

『なんか機嫌いいわね』

「いい天気だから」

『まぁ、たしかに〜』


ジーベルはまだ来ていなかった。少しするとチャイムが鳴り、今日の始まりを知らせた。音が鳴り終わると同時にメーメット先生が入ってきた。


「あれ?ジーベルは?」


アスランは思わずビュゼに問いかけた。


『来てないね、風邪じゃない?』


ビュゼは肩をすくめた。


『みんなおはよう。突然だけど、今日席替えをします。いつもみたいにお見合い方式でするから。じゃあまずは男子、廊下に出てー。女子は好きな席選んでー』


お見合い方式とは、男子が廊下に行き、その間に女子が好きな席を選ぶ、その後、女子が廊下に行き、男子が好きな席を選ぶ。お互い、誰がどこを選んだか分からない状態で一斉に座る、というものだった。カンはドアの隙間から、ビュゼがどこに座るのか覗いていた。


『カンまじか〜』

『知らなかったぜー!ヒューヒュー』

『うるせーな!絶対ゆうなよ!』


男子の番になり、アスランは入り口から1番近い、廊下際の席を選んだ。隣が誰だろうとどうでもよかった。女子が入ってきて、全員が席についた。カンはビュゼの隣をゲットしていた。アスランの隣は、セレンという女の子だった。


『アスランよろしくね』

『うん、よろしく』


コスカンの隣の席が空いていた。そこに誰が座るのかすぐに想像できて、アスランは目を逸らした。


ジーベルは翌日から登校してきた。ビュゼの後ろ、コスカンの隣がジーベルの席だった。窓側の木漏れ日が差し込む場所だった。

席が遠くなると、目を合わせることもなくなった。コスカンは、毎日浮き足立っている様子だった。風はどんどん冷たくなった。地面には枯葉の絨毯が広がり、木は少し痩せ細ったようだった。肌寒い日が続いた。空っぽの風が、自分の心とよく似ているとアスランは思った。

掴めそうだった雲が少しずつ離れていく。




その日の朝は、同じ風を吹かせ、いつもと変わらない素ぶりを見せていた。ジェンギスに挨拶をして、アスランは学校へ向かった。セレンは何かを書いている。鉛筆の音からして絵を描いているのかなとアスランは思った。しかし、特には聞かなかった。昼休み、アスランはメーメット先生に呼ばれ職員室へ向かった。


「失礼します」

『やぁアスラン、貴重な休み時間にすまないね』

「大丈夫です」

『お昼ご飯は食べた?』

「はい」

『今日のメニューは?』

「おにぎりでした」

『いいねぇ、美味しそう』


メーメット先生はアイドリングトークをしながら、コーヒーを口へ運んだ。


「あの、話とはなんでしょうか‥‥」

『あぁ、そうだよね。こっちに来てくれる?』


アスランは職員室のさらに奥にある小さな部屋へ案内された。


『まぁ、座って』

「失礼します」

『じゃ、あまり時間もないし簡潔に。アスランは、王政直下の製造部隊があるのは知ってる?』

「はい。祖父に教えてもらったことがあります。詳しいことは知りませんが」

『そう。通称CARs(cause a revolution)ね。彼らは王政からの支持のもと、日々製造に励んでいる。何を作っているのかは隊員以外誰も知らない。技能試験を受け、一定の条件をクリアした者だけ隊員になれるというが、非常に狭き門だ』

「はぁ‥‥」

『実は昨日、この学校にある書類が届いた。アスラン、君をCARs隊員候補生として迎え入れたいという内容だった』

「‥‥‥‥え!?」


メーメット先生は1枚の紙を見せてきた。そこにはたしかに"アスラン・コルクトを候補生として迎えたい"と描いてあった。


『この村から候補生が出たのは、アスランでふたり目だよ。昔、なんとかバークって名前の男の人が若くしてこの部隊に配属されたらしい』


それは、アスランの父の名だった。


『いやぁでも12歳で声がかかったのは最年少か。本当、自分のクラスからふたりも候補生が出るなんて、俺も驚いたよ』


「え‥‥ふたり?」


メーメット先生は慌てて口を塞いだ。


「ふたりって、僕ともうひとり誰か候補生がいるってことですか?」


『あー、すまん。今のは聞かなかったことにしてくれ。口外禁止なんだ』


「‥‥‥‥女子ですか?」


アスランの問いかけにメーメット先生は、何かを察したようだった。


『あぁ‥‥』





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