第3話 聖海祭


青い空に浮かぶ雲は、手を伸ばせば届きそうで、アスランは手をかざした。一羽の鳥が飛行機のように空を横切っていった。

山の中腹にある、草だけの色気のない丘で、寝転びながらジーベルのことを考えていた。あの日、涙を流した彼女に、気の利いたことは何ひとつ言えなかった。君の好きな場所に連れて行く。ジーベルを少しでも励ませればと出た、咄嗟の言葉だった。ジーベルは涙を流しスッキリした様子で、別れる頃にはいつもの笑顔を見せた。


アスランは考えていた。ジーベルと約束をしたが、海に行くのは簡単なことではなかった。海の周りは背の高い柵で覆われ、監視官が常に周辺の見守りをしている。セミルの父は、示威運動の際海に投石し、それが監視官に見つかり王政へ連行されてしまった。海に近づこうとする者、海を汚す者は重い罰を受けることになる。この村で1番近く、きれいに見えるのは以前ジーベルと見た市場の通りである。アスランはどうにかしてもう少し近づく方法はないか考えた。しかし、その日、いい案は思いつかなかった。




「アスランおはよう」

「おはようジーベル」


アスランが横に向けた体を前に戻すと、ビュゼは何かに気づいたように嬉しそうに笑っていた。


『ねぇねぇアスラン、もしかしてジーベルといい感じ?』

「な!そんなわけないだろ!!」


教室の視線がアスランに集まった。


『ふふん。そうですかぁ〜』

「なんだよ‥‥」

『なぁ〜んか、ジーベルに声かけてもらって幸せそうな顔してたから』

「し、してないよ、別に」

『ま、どっちでもいいんですけどね〜』


お見通しよという目をして、ビュゼは新しいおもちゃを見つけたように満足気だった。

この時アスランは、ビュゼとのやりとりを見つめる鋭い視線に気づいていなかった。


「おい、アスラン。貴様、ジーベルとずいぶん仲が良いようだな」


放課後、教室を出ようとしたアスランをコスカンが引き止めた。


「別に、みんなと変わらない」


『嘘つけ、鼻の下伸ばしやがって。まさか貴様如きがジーベルと付き合えるとでも思ってるのか』


「だから、なんもないって。しつこいな。そんなに好きなら告白でもすればいいだろ」


『あぁ、言われなくてもそうするさ。彼女を来月の聖海祭に誘って、そこで想いを伝える。だから早いうちに邪魔者は潰しておく必要がある』


「僕は君の敵でもなんでもない。彼女とはなんの関係もないんだから」


『ふっ‥‥まぁいいさ。僕から彼女を奪ってみろ。貴様のじじぃが持ってる土地も山も全て、次の日にはお前たちの手元から離れていくだけだ。行いには気をつけるんだな』


コスカンは3匹の小判鮫をひっつけ、悠然と泳ぐジンベイザメのように、大きな態度で去っていった。

しかしアスランは、少しだけコスカンに感謝した。聖海祭‥‥そうだ、その手があったか、とコスカンは思った。


聖海祭。それは、この国で年に一度開かれる神事祭である。海を讃え、国の繁栄と平和を願う祭りで、当日は曲技飛行隊のアクロバット飛行や花火が打ち上がり賑わいを見せる。

そして何より、夜の祈祷の時間には、砂浜に入り海を囲いお祈りをする。唯一この日だけ、人々が海に近づくことが許されるのだ。

ジーベルに海を見せるならこの時がいいとアスランは考えた。しかし、またひとつ課題が浮き上がってくる。コスカンのことだった。先ほど、ジーベルを聖海祭に誘うと言っていた。きっとジーベルなら、コスカンの誘いを上手に断るのだろう。では、自分はどう誘おう。コスカンに牽制され目をつけられている今、学校でジーベルに近づくのは得策ではないとアスランは思った。




静かな青い空の夜の中、アスランはあることを思いついた。


「おじぃ、便箋と封筒ある?」

『お?そんなもの何に使うんじゃ』

「決まってるだろ、手紙を書くんだよ」


アスランは手紙を書いてジーベルに届けることにした。しかし、いざ机に向かうと、何から書き始めればいいか分からず、筆は止まったままだった。考えるほどに渦の中に引き込まれていく。30分が経った。悩みに悩んで、祭りに一緒に行こうということ、今日のコスカンとの出来事、そして今後の学校での態度を不自然に思わないでほしいという旨を書いた。読み返してみると、ロマンチックな言葉ひとつない簡素な手紙だったが、分かりやすい方がいいと、アスランは書き直さなかった。封筒にアスランよりとだけ書いて鞄にしまった。




朝の白い光が差し込む教室には誰もいなかった。もうすぐ、朝休み決まってサッカーをするカンとブラークがやってくる。アスランは昨晩書いた手紙をジーベルの机に入れた。引き出しを開けてすぐ分かるように、手前に入れておいた。


『うぉ!アスランどうしたんだよ早いなあー!一緒にサッカーしたくなったか?!』

「あ、いや。大丈夫。今日はいつもより早く目覚めただけだよ」

『そっかそっかー!今度一緒にサッカーしよーな!おい、カン待てよー!』


机の上に鞄を放り投げると、泥だらけのサッカーボールを脇に挟み、ブラークはカンの元へ向かった。教室はまた、アスランひとりになった。教室にはアスランの心臓の音が小さく響いていた。


この手紙は、ジーベルとした約束を守るためのお誘いの手紙であって、決して自分の願望を叶えるために書いた手紙ではなかった。そのつもりであった。しかし、なぜこんなにも心臓が落ち着かないのか、アスラン自身もその答えは分からなかった。手紙を読んでジーベルはどんな気持ちになるのだろうか。文章は冷たくなかっただろうか。しっかり読み返せばよかったとアスランは後悔した。まだ時間はある。よく考えて書き直そう。そう思い、ジーベルの机の引き出しを開けようとした時。


『いっちばーん‥‥あれ、アスランおはよう!今日ははえーな!』

「あ、うん。おはよう。今日はいつもより早く起きてしまったから」

『そーいや、お前酒場の水漏れ直してくれたんだってな!あの店は、俺の父ちゃんの兄ちゃんの店なんだ!喜んでたよー!』

「あぁ、そうなんだ。力になれたようでよかったよ」

『それでさ〜@#¥&@?!‥‥』


やってきたジハンの能辯に捕まり、アスランは手紙を取り戻すことができず、少しするとジーベルとビュゼが教室に入ってきてしまった。


『おっはよ〜』

「おはようアスラン」


「あぁ、おはよう」


前を向いたままそう答えた。

ジーベルが椅子をひき、引き出しを開ける音が聞こえた。少しして紙と布が擦れるような音も。ジーベルの動きに合わせてなる音全てが、アスランの耳に刺さるように入ってきた。

一限目が終わるとジーベルの周りはすぐに賑やかになった。この日はふたりとも、手紙のことについては何も触れず、アスランは帰宅した。




次の日アスランはいつもと同じ時間に登校した。カンとブラークの鞄は机の上に置いてあり、その他にも何人かの生徒が席について各々の時間を過ごしていた。

席に座ろうと椅子を引くと、机の中から薄桃色の紙が顔を出していた。取り出してみると、封筒だった。裏返すと封筒には、"ジーベルより"とだけ書かれていた。その文字を見つけ、アスランの心は、プレゼントを開ける前のような幸福感に包まれた。気持ちが溢れてしまう前に、アスランは手紙を鞄にしまった。


「アスラン、おはよう」

「あ、ジーベルおはよう。今日は早いんだね」

「うん。少しだけ早く起きちゃったの」


傍から見ればいつもと変わらない会話である。しかしそこには、ふたりにしか分からない、心地の良い緊張感と、少しだけ甘い空気が存在した。



太陽がゆっくりと沈んでいく。アスランは急いで家に帰り、手紙を開いた。封筒の上の方を慎重にハサミで切ると、1枚の便箋が入っていた。まっすぐと立つジーベルの文字が並んでいた。


"アスランへ

手紙ありがとう!とても嬉しかったです。

聖海祭って初めて聴いた。花火まで上がるなんて楽しそうね。待ち合わせて一緒に行きましょう。

それと、コスカンのことだけど、彼の目を気にして私たちが話せなくなるなんておかしいと思う。でも、この村でコスカンに目をつけられると大変だってこともよく分かったわ。

私は今まで通りアスランと話したい。何かいい方法を考えましょう。それではまた、学校で。

ジーベルより"


本来手紙とはこう書くべきものなのかとアスランは感動し、自身の文才の無さに落胆した。アスランは手紙を何度も読み直した。嬉しかった。ジーベルはどんな気持ちでこの手紙を書いたのだろう。匂いを嗅ぐと、えんぴつの匂いと甘い匂いが混ざった。

手紙を読みながら、心は少しずつ冷静さを取り戻し、ジーベルからの提案にひとつの答えを出していた。



「ジーベル、ノート見せてくれてありがとう」

「え?」

朝、アスランは一冊のノートをジーベルの机に置くと、目も合わせずに自分の席に座った。


"交換ノート" これがアスランが考えた、内緒で会話をする方法だった。ジーベルはそのノートが意味することをすぐに理解し、サッと鞄にしまった。


ノートには、日々のなんでもないことを綴った。


"昨日の夜ジェンギスと喧嘩したよ。そしたら晩御飯に僕の苦手なピーマン炒めが出てきた"


ジーベルも今日の出来事を綴った。


"飼っている猫が帰ってこないの。もう3日も経ったのに"


"今日の算数全く理解できなかった。ジーベルは何の科目が好き?"


"アスランいつも寝てるんだもん。私は国語が好き。本を読むのが好き。アスランは図工が好きでしょ"


"よく知ってるね。じゃあ、好きな色は?"


"アスランの髪の色。少し青が混じった黒が好き。アスランは?"


"白が好き。つるっとした触り心地が良さそうな白"


ノートを開けばジーベルの声がした。ふたりは少しずつお互いのことを知っていった。ゆっくりとしたやりとりが、浮き輪の上でプカプカ揺れているように心地良かった。


"もうすぐ聖海祭だ。お昼にはたくさんの屋台が出るよ。当日はあの分かれ道のところに集合しよう"


"分かったわ。私、お祭りなんて初めて。楽しみにしてる"




アスランは、鏡を見ながら小指で眉毛を整えた。持っている中で1番シワのついてないTシャツを選んだ。


『おぉ、なんだか気合が入っとるのぉ』

「おじぃには関係ないでしょ。あと、今日帰りは遅くなるから」

『‥‥デートか』

「な、違うよ!友達と祭りに行くんだ!最後の花火まで見てくるから遅くなるだけ!」

『最後までということは、祈祷にも行くのか?』

「うん。転校してきた友達が、海を見たいって言うから」

『‥‥アスラン、わしはあの海は神様だと思っとる。おまえさんとは違ってな。だが、あまり海に近づきすぎるでないぞ』

「‥‥どういう意味?」

『‥‥まぁ、そのまんまの意味さ。ほら、小遣いをやろう。楽しんできなさい』


ジェンギスはひとつの忠告と3枚のコインをアスランに渡した。アスランはそれを握りしめ、約束の場所に向かった。


白いレースのワンピースに、麦わら帽子をかぶった後ろ姿が見えた。アスランはこっそりと近づき、帽子に手をかけ勢いよく奪った。

「うわぁっ!」と肩をすくめたジーベルは、眉毛をきれいな八の字に曲げて振り返った。

いつもふたつに束ねている髪は、きれいな三つ編みになっていて、リボンが揺れていた。


「へへ、驚いた?」

「もう!アスランびっくりしたじゃない!」


ジーベルは頬っぺたを膨らませてみせた。こんなふうにいたずらするのも、目を合わせて話せるのもしばらくぶりだった。


「なんで麦わら帽子?」

「一応‥‥、コスカンに見つかるとまずいんでしょ?アスランのおじいさんの件もあるし」

「あ、そういえば、あいつもジーベルを誘うって言ってたけど」

「うん。誘われた。けど、友達と行くからって断っちゃった」

「懲りないやつだね〜」

「あのタイプはしつこいよ」


アスランは驚いた。あまりにも自然に会話ができていることに。ジーベルの悲しい過去を知っているのは自分だけという特別感からか、コスカンに勝利した優越感からか。そんなことを考えるなんて、自分は少し嫌なやつだなとアスランは思った。



市場はすでに大変な賑わいを見せていた。紙吹雪が舞い、管楽器の演奏が出迎え、甘い匂いがふたりを包んだ。入り口に立っていたピエロがピンク色の飴をジーベルに渡した。ジーベルはそれを受け取ったが、すれ違う人にぶつかり落としてしまった。


「この村ってこんなに人が住んでたのか」


押し寄せる波は自分が進みたい方向へは簡単に行かせてくれなかった。アスランは器用に人と人との間を潜り抜けた。ジーベルは先を行くアスランの手を握った。


「はぐれちゃうから」

「あ、うん、そうだね。飴、また貰おう」

「ううん、いいの。歩いてるだけでも楽しいね!屋台がいっぱい!それに甘い匂いがする。なんだろう」


匂いの正体はカステラの屋台だった。


「食べる?」

「うん!アスランは甘いもの好き?」

「好きだよ」

「じゃあ一緒に食べよう!」


ジーベルはほかほかのカステラが入った袋を幸せそうに抱きしめて歩いた。


「あーん」

「‥‥えっ?なに?」

「アスラン口開けてー」

「‥‥っ」


アスランが渋々口を開くと、ジーベルは持っていたカステラをポイっと自分の口に放り込んだ。


「へへ。さっき驚かされたお返しよ〜」


したり顔のジーベルには黒い翼と尻尾が生えていた。そんな彼女に、心はむずむずとこそばゆくなり、悔しくなったアスランは、ジーベルの三つ編みの片方をきゅっと引っ張った。ジーベルは楽しそうだった。



『わー!疾風隊だー!!お母さん見て見てー!かっこいい!僕大きくなったら疾風隊に入るんだー!!』


子供の声が聞こえた瞬間、ふたりの耳を劈くようにエンジン音が響き渡り、見上げると、いくつかの飛行機が、あっという間に空の奥へと飛んで行った。曲技飛行隊、通称、疾風隊だ。


すごいスピードだった。

空をハサミで切るように5機の飛行機は、色とりどりの煙を放ちながら、くの字に並び、まっすぐ飛んで行った。それぞれの方向に開花すると、煙の軌道が5方向に広がり、空には扇のような模様が描かれた。

きれいだった。飛行機は風を味方にした鳥のように、自由に、華麗に飛んでみせた。

まっすぐな線を描いたり、ハートを描いたりした。

5機の飛行機は再度合流すると、隊形を密集隊形へと変化させていきアーチを描く。魔法のように、一瞬にして空に5色の虹がかかった。

また、別の場所からは2機の飛行機が背面飛行で空へ進入すると、ぶつかりそうなほど近距離で交差してみせた。


そうして人々の歓声と温かい拍手の中、飛行機は遥か彼方へ飛び立っていった。



「‥‥すごい。速くてかっこいい」

「あれは、疾風隊っていう飛行部隊。王政の城の近くで飛行訓練をしてるんだって。空の警備隊って呼ばれてる」

「‥‥空の警備隊」


ジーベルはそう繰り返すと、煙の残る空をぼんやりと眺めていた。


「ジーベル、夕方には祈祷が始まるよ。夜には花火も打ち上がる。それまで屋台を回ろう」

「う、うん、そうだね!はやく、海も見てみたい」


アスランはジーベルの手をとり、市場の奥へと進んだ。



空は少しずつ、オレンジ色の幕を下ろした。夕方5時。王政の城の鐘が鳴り響き、城のベランべにニケイラが現れた。


『みなさま。本日は、このタンル海に感謝を伝える年に一度の神事祭でございます。みなさまの幸せな笑顔に、神もお喜びのことでしょう。まもなく、祈祷が始まります。くれぐれも海に触れることはありませんよう、日々の感謝をお伝えください』


ニケイラの言葉を合図に、柵の扉が開かれた。


「ジーベル、行こう」

「うん。なんだか緊張してきた」

「大丈夫、僕についてきて。子供は優先して入れてくれるって」


石の階段をふたりで手を繋いで降りてゆく。ジーベルの手のひらは汗で濡れていた。

砂浜はさほど広くはなく、すぐに人でいっぱいになった。真っ白でサラサラの砂浜には、ゴミどころか枝一本落ちていなかった。


「近くで見れて良かったね」

「‥‥うん」

「‥‥ジーベル、どうかした?」

「‥‥ううん。‥‥きれいだなって。水が透明」

「本当だね」


ふたりは砂浜に座った。ジーベルはその後、ひとことも話さなかった。ただ、海を見つめていた。何を考えてるのと聞きたかったが、アスランも何も話さず、同じように海を見つめた。

祈祷の時間、ジーベルは胸に手を当て目を瞑った。アスランが目を開くと、ジーベルはまだ目を瞑っていた。ここでも、何を願ったのか、アスランは聞くことができなかった。長いまつ毛の隙間から、真珠のような涙が砂浜に落ちるのが見えた。アスランも再度目を瞑り、自分の中に芽生えたもうひとつの願い事を唱えた。

最後の花火が打ち上がり、それを見ながらジーベルはまた涙を流した。



「ジーベル、お祭りどうだった」

「感動した。こんなにも美しい景色があるんだって。私、何も知らなかったんだって」

「‥‥まぁ、楽しかったなら良かった‥‥」

「アスラン、この景色を見せてくれてありがとう」


言葉とは反対にジーベルの心は、アスランではなくどこか別のところを向いているようだった。


帰り道、ジーベルはずっと上の空で、アスランは、いつかジーベルが遠くへ行ってしまうような、そんな予感がした。そして、心が少し痛くなった。








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