第六話:「皆仲良く手を繋ぎましょう」って学級目標に掲げるべき?

真っ白で、一目見ただけでも明らかに上質だとわかるであろう布団に寝かされていた洛林杏ルオリンシンだったが、ようやく仙根と妖根が少しずつ戻ってきたためか、徐々に意識を取り戻していく。

 うっすらと開けた瞼の先には、こちらを心配そうに覗き込んでくる最愛の兄、洛星宇ルオシンユーの顔があった。

「……林杏リンシン!目が覚めたか!」

「……にい、さん……」

「……身体の方はどうだ?」

「うん、私は大丈夫。それより……」

 ここはどこなのか。何故自分は今こうして起きているのか。兄と共に黒化されていたはずなのに。

 様々な疑問が頭の中で飛び交い、洛林杏ルオリンシンは思わずキョロキョロと辺りを見渡す。

 全体的に家具が少なく、白を強調としたシンプルな作りの解放感のある部屋。

 寝かされている自分を、未だ心配そうに顔を歪ませながら黄金の瞳で見つめてくる兄。

 思っていたよりも元気な洛星宇ルオシンユーの様子に少しばかり安堵のため息を漏らした洛林杏ルオリンシンだったが、突如としてその雰囲気をぶち壊しにかかる者が現れた。

 いや、現れたと言うと語弊になる。正確には、『ずっとそこにいたけど、推しに失礼な事はしまいとめっちゃ努力してその場で静止していたが、ついに我慢ができずに膝から崩れ落ちて泣き喚いて存在感を主張してきた』と言った方が正しいかもしれない。

「うあああ動いてる林杏リンシンちゃんも抜群にかわいいぃぃぃ……無理死ぬかわちい推しが生きてるだけで俺への最大級のファンサじゃん尊みが大気圏超えて銀河系爆発させちゃう呼吸が荒くなりすぎて二酸化炭素過剰放出で地球温暖化が進んで世界が滅びるやばい無理死ぬ……」

 ダンゴムシのように地面に丸まりながら、水泳選手のような肺活量で推しへののろいをぶつくさに呟き続ける余楽清ユイルゥチンのその様に、さすがに驚かざるを得ない。

 ちなみに、悶絶するまでに追い込まれた背中と肋骨のヒビは、余楽清ユイルゥチンが意識を失っている間に李汀洲 リーテイシュウが再び訪れて治癒の神通力を施してくれたので、今はもう完治している。

 連日ずっと余楽清ユイルゥチンのために神通力を使い続けた李汀洲 リーテイシュウに『またですか』と嫌味な視線を向けられつつも、『治してくれたら師尊シズンとの一日逢い引きデートの権利を差し上げる』と高雨桐ガオユートンが自らの師を売った事によってすぐさま身体が完治したのは、まだ記憶に新しい。

 勝手に変態親父との約束を取り付けてきた高雨桐ガオユートンをみっちり締め上げつつも、こうして推しを前に悶える事ができるのはある種感謝に値するのかもしれない。

 洛林杏ルオリンシンは、ダンゴムシユイルゥチンに行儀悪くも人差し指を指しながら、余楽清ユイルゥチンの隣に寄り添っている困り顔の高雨桐ガオユートンに話しかけた。

「……あれ、楽清ルゥチンだよね?彼どうしたの?何か変な物でも食べたの?」

「えっと、林杏リンシン……師尊シズン星宇シンユーとのかの戦い後、まだ頭が混乱しているようでして……」

「俺はそんな話信じてないからな」

「ひえっ……」

 いつものように何回繰り返したかわからない我が師匠の状況説明をしただけなのに、洛星宇ルオシンユーの黄金の瞳が鋭く光る。

 未だこちらに疑いをかけてくる妖王から、信頼などは一切得られていないようであった。

 洛星宇ルオシンユーのその沈みきった嵐のような静かな睨みを大人しく受け止めながら、高雨桐ガオユートンはとりあえず何も知らない洛林杏ルオリンシンに事の顛末を伝えようと話し始めた。

 未だ射るような目でこちらを見つめてくる妖王の瞳には気づかない振りをしながらも、自身の話を静かに頷きながら聞き入る妹の方に、高雨桐ガオユートンは心の中で(まともでいてくれてありがとう)と土下座する他ない。

 しばらく頷くだけで無言で話を聞いていた洛林杏ルオリンシンだったが、全ての顛末を聞き終えた後、何かを考え込むかのように静かに目を瞑った。

「……そう、そんな事があったんだね……」

 深く思い詰めるようなその声色は、可憐で慎ましやかな物であるが、どこか物憂げな雰囲気を携えている。

 まさか、自身が眠りについている間に再び壮絶なる戦いが繰り広げられていたとは思わず、もう戦いに身を染めてしまってほしくないと切に願っていたはずの兄がかつての仲間をまた傷つけてしまった事への悲壮から、何も言えずにただ視界を閉ざす他なかった。

 一方、いつもはうざいほどに饒舌な余楽清ユイルゥチンが珍しくも言葉を発する様子がないため、高雨桐ガオユートンがふと彼の方を振り向くと……。

「……師尊シズン、いい加減こっちの世界へ戻ってきてください」

 余楽清ユイルゥチンは、ただただその場で立ち尽くしながら白目を剥いて涙を流していた。

 その様はまるでどこかのホラー映画の幽霊のような有り様であり、不気味な事この上ない。

「んあ?ああ、悪ぃ……推しの沼にハマりすぎて危うく溺死するところだった」

 高雨桐ガオユートンからの呆れ返った色を含んだ声かけにようやく我を取り戻した余楽清ユイルゥチンは、頬に伝っていた涙を強引に拭いながら、鼻声で言葉を紡ぎ出した。

「んじゃ、早速本題に入るな。お前の首に巻いてある枷を取ったはいいが、一つ約束してくれ。罪のない人たちには手を出すな。それだけを守ってくれたら、枷を外した状態でこの仙城内であれば自由にしててもいい」

「……お前たちがこちらに危害を加えたりしなければ、俺たちも大人しくする。だが、俺たちは忌み子の半仙半妖。今までどれだけの奴らから疎ましく思われ、石を投げ付けられて来たか……そう簡単に俺たちが自由に過ごせるとは思えない」

 そう呟く洛星宇ルオシンユーの表情は、今までの仕打ちを思い出しているからなのか心なしか歪んだ物へと変化していた。

 奥歯をギリッと噛み締め、やるせないとでも言うかのように細い眉を釣り上げる。

 それに釣られるように、洛林杏ルオリンシンもまた眉尻を下げながら悲しみの滲んだ瞳で兄を真っ直ぐに見つめた。

 そんな二人の様子に、自然と余楽清ユイルゥチンも胸の奥にチクッとした痛みを感じつつ、安心させるかのように努めて優しい表情を浮かべた。

「それに関しては、俺からも弟子たちに厳重に言っておいた。道友たちにも理解してくれるまで説明するし。まあ、もしもそれでも喧嘩吹っ掛けられてきたら、その時は正当防衛として少しはやり返してもいいとは思うけど……」

師尊シズン、彼がやり返すとなったらそれこそ仙城が血の海になってしまいます」

「だーいじょうぶだって!コイツめっちゃ強いし、力の加減くらいできんだろ?」

「そんなの当たり前だ」

 えっへんと胸を張って言い切る余楽清ユイルゥチンに対し、洛星宇ルオシンユーもまた自信を持って力強く頷いた。

 あと数日も経てば仙根も妖根も完全に元通りになり、妖王としての戦闘力を取り戻す事ができるはずだ。

 本来の強さを取り戻した洛星宇ルオシンユーであれば、余楽清ユイルゥチンと比較しても大差のない力を発揮する時がやってくる。

 強者は、他者を制圧する力を持つだけではなくそれをコントロールする事にも長けている。

 とりあえずは先の事は決まったとばかりにふんふんと頷く余楽清ユイルゥチンに対し、大人しく話を受け止めていた洛林杏ルオリンシンはそっと彼の元へと歩み寄り始めた。

 推しが突如として自身の元へと寄って来る事に対し、余楽清ユイルゥチンは驚きと歓喜で飛び上がりそうになったがそこはぐっと堪え、壊れたロボットのようにギギギと首を動かして洛林杏ルオリンシンの方へと視線を向ける。

「あの、楽清ルゥチン……」

「へぁっ!?なにどうしたん!?」

 恐る恐るといったように上目遣いで見つめてくる洛林杏ルオリンシンのそのあまりの可憐さに、思わず声が裏返ってしまった余楽清ユイルゥチンの情けない姿。

 しかし洛林杏ルオリンシンは挙動不審な余楽清ユイルゥチンの様子には特に追及する事なく、ふと恐縮したような表情を浮かべながらペコリと頭を下げた。

「……私たちを、助けてくれてありがとう……」

「……お安い御用だよ。何かあったら、いつでも俺に相談してきな」

 健気に礼を述べる律儀な洛林杏ルオリンシンのその様子に、余楽清ユイルゥチンは年上らしい柔和で余裕そうな笑みを浮かべながら彼女の頭を優しい手つきで撫で付けた。

 兄と違い、元々余楽清ユイルゥチンに対して恨みなどはなかった洛林杏ルオリンシンは、撫でてくれる白い手にもっととねだるように自然と頭を自ら擦り付ける。

 その様の何と可愛らしい事か。

「お礼言われた猫みたいに頭押し付けられたやばい幸せ可愛い無理尊さが限界突破上目遣いの破壊力凄まじい今なら空も飛べそう」

 あまりの尊さにその場からそそくさと虫のように這って逃げ出した余楽清ユイルゥチンは、自身の中で消化しきれないこの尊さを何とかしようと再びダンゴムシのように丸まって独り言を呟き始める。

 そのあまりにも情けないダンゴムシユイルゥチンを見やりながら、高雨桐ガオユートンは呆れ返ったかのようにはぁっと深いため息を溢してしまう。

 オタクとして気持ちはわかるが、あまりにもキャラブレが酷いのでいい加減にしてほしいと思わずにはいられない。

 一方、冷静沈着で生真面目だったはずの余楽清ユイルゥチンのそのあまりの変わりように最初は少し驚いていた洛林杏ルオリンシンたったが、以前とは違いどこか生き生きとしている彼の様子がおかしかったのかぷっと小さく吹き出す。

「……ふふ、彼、本当に人が変わったみたいになっちゃったね。何だか凄く明るい性格になって……」

「……」

「……兄さん?どうかしたの?」

「……いや。何でもない」

 思わず小さな笑い声を溢す洛林杏ルオリンシンとは違い、洛星宇ルオシンユーはどこか警戒心を解いていない威嚇する猫のような眼光を余楽清ユイルゥチンに向けていた。

 問いかけてくる妹の声も耳に入らず、洛星宇ルオシンユーは未だダンゴムシと成り果てている余楽清ユイルゥチンに威圧感のある低音で言葉をかける。

「……おい、余楽清ユイルゥチン

「んー?」

「俺はまだお前を完全に許したわけじゃない。故に、お前の事をいっさい信用もしていない。お前がどうして人が変わったかのようになったのか、そして俺たちを解放した理由すらもまだ完全にはわからない状況で信用なんかできるはずもない。それだけは覚えておけ」

 鋭い声色でそう言うや否や、勢いよく立ち上がった洛星宇ルオシンユーは隣で小さな笑みを浮かべる洛林杏ルオリンシンの手を取ったかと思うとそのままその手を引いて、二人に用意されたばかりの居室をそそくさと出ていってしまった。

 急に引き摺られるように兄に引っ張られていく洛林杏ルオリンシンのおどおどとした戸惑う顔を見つめつつ、余楽清ユイルゥチンはあえてそれを止めずにその二つの背中を無言で見送った。

 途端、シーンと静まり返る広々とした部屋。

 こんな時にどんな会話をすればいいのだろうとキョロキョロと辺りに視線をさ迷わせる高雨桐ガオユートンの傍らで、今まで静かに口を閉ざしていた余楽清ユイルゥチンがふと小さく呟いた。

「……アイツ、マジで性格ひん曲がってんなぁ。なーんでこんな奴が人気あるのかねぇ」

星宇シンユー様の悪口を言ったら、私が貴方を本当の底なし沼に沈めてやりますよ」

「お前本当に俺の事舐め腐ってんだろ」

 先ほどまてキョロ充と化していた高雨桐ガオユートンの素早い切り返しに、余楽清ユイルゥチンは思わず苦笑いを浮かべた。

 推しの悪口を言われれば、どんな引っ込み思案だって黙っていられなくなるのは同じオタクとしてよくわかるからこそ、皮肉にも文句は言わないでおく事にする。

 仙城を好きに使っていいとは言ったものの、慣れない場所で、尚且つ弟子たちとの折り合いもこれからどうなるのかと思案する余楽清ユイルゥチンのその表情は、どこか物憂げで儚さを帯びているのであった。






 


 仙城に面する、修行で用いる事の多いこの広い中庭を、ルオ兄妹はゆっくりと歩んでいた。

 せっかくだから仙城の色々な所を見て回りたいという洛林杏ルオリンシンの願いに従うためにしぶしぶと彼女の後を着いていく洛星宇ルオシンユーだが、その表情は依然として暗い物である。

 研ぎ澄まされた聴力が仇となり、中庭に生える大木の陰に隠れるようにしてこちらをこそこそと覗いてくる余楽清ユイルゥチンの弟子たちの会話が耳に入り、不快感は頂点に達していた。

「見ろ。洛星宇ルオシンユー洛林杏ルオリンシンが枷もなしに自由に歩いているぞ」

「おお、恐ろしい。いつ殺されるかわかったもんじゃない」

師尊シズンはなぜコイツらを自由にしてしまったのか……」

「どうやら話によると、こちらから危害を加えないかぎりはあちらからも手を出さないという取り決めをしたらしいが……三界を滅ぼそうとした妖王の約束事なぞ信用できるわけがない」

 ひそひそと声を潜めながらもはっきりと聞こえてくるその不快な内容に、洛星宇ルオシンユーの眉間に自然と皺が寄っていく。

 何も知らない、自身に指一本すら触れるなぞ到底できないであろう有象無象が話している事なんて何の価値もない事は理解している。

 しかし、やはりこうして直接耳に入ってきてしまっては気持ちのよいものでは当然なかった。

「……」

「……兄さん」

 ぐっと握り拳に力を込める洛星宇ルオシンユーに、ふと優しい温もりが寄り添ってきた。

 一回り小さな白い手が拳に重なり、自身を抑えるかのように優しく名を呼んでくる洛林杏ルオリンシンを見下ろしながら、しぶしぶといった感じで洛星宇ルオシンユーは拳から力を抜いた。

 しかし、その拳はすぐに凶器へと化してしまう事になる。

「にしても、前から思ってたがあの妹の方は可愛い顔をしているなぁ」

「女っ気のない私たちにとっては眼福だ」

「そうだ、師尊シズンの目を盗んで今晩居室に連れ込んで……」

 弟子たちが低劣な言葉を吐き、ニヤニヤと気色の悪い笑みで洛林杏ルオリンシンを見やった瞬間、突如として一人の若者の身体が宙に浮いた。

 刹那の出来事に何が起こったのか理解ができない弟子たちだったが、宙に浮く若者の首に大きな手がかけられ、ギリギリと締め上げられているのに気づくと途端に言葉を失ってその場にへたり込んでしまう。

 呼吸を奪われバタバタと足をバタつかせる若者を冷酷な目で睨み付ける洛星宇ルオシンユーの瞳からは、明らかな殺意が見て取れた。

 こめかみには太い青筋が浮き出ており、首を締めている手の甲にも血管が張り巡らされている。

「たかが人間ごときが、俺の妹を邪な目で見るとは……どうやら地獄を見るよりも苦痛な目に合いたいようだな」

「う、ああっ……がっ……!」

 まるで海の底のような、冷えきった声色。

 その尋常ではない兄の様子に、洛林杏ルオリンシンは慌てて彼のたくましい腕にすがり付いて懇願した。

 このままでは、大切な兄がまた手を血で染めてしまう。

「兄さん、ダメ!死んじゃう!」

「何やってんだお前ら!」

 いよいよ若者の顔から色が抜け始めた所で、突如として余楽清ユイルゥチン洛星宇ルオシンユーの背中に飛びつき、コアラの子供のようにしがみついた。

 背後から、首を締めている手を引き剥がそうと添えている自らの手にも渾身の力を込めるが、洛星宇ルオシンユーの握力は相当な物なのかびくともしない。

「離せ馬鹿野郎!」と怒鳴り付けても、洛星宇ルオシンユーは背中に引っ付いている余楽清ユイルゥチンに見向きもしなかった。

「黙れ、コイツらは俺の妹を侮辱した。命を持ってして償わせる」

 未だ冷たさを保っている声色は、まるで地の底から這うような迫力を伴っている。

 居室から出ていったルオ兄妹が気になってこっそりと後を着けてきたはいいが、まさか序盤の序盤からこのようなトラブルを起こしにかかってくるとは思っても見なかったため、余楽清ユイルゥチン洛星宇ルオシンユーの腕を掴みながら途方に暮れた。

 (どうしてこうなったんだよ全く……!また神通力使って止めても、今の洛星宇ルオシンユーは枷なしだから今度こそ本格的なバト○ロワイ○ルになっちまうし……)

 ガッチリと若者の首を締めている手の力が緩む事は全くなさそうである。

 どうにかして打開策を編み出さねばと、混乱する頭を働かせる余楽清ユイルゥチンの中で、ふととある方法が思い浮かぶ。

 をやってしまった暁には、今度こそ洛星宇ルオシンユーからぶちのめされる未来がやってくるかもしれないが、今はなりふりかまってられない。

「あーもう、どうにでもなれ!」

 そう叫ぶや否や、余楽清ユイルゥチンは一旦洛星宇ルオシンユーの背から降りると、彼と若者の間に挟まるように身体を滑り込ませる。

 そのまま洛星宇ルオシンユーと向かい合うように立ち上がり、彼が驚く間もなく目の前の小麦色の頬に両手を添えると、すかさず艶やかな唇に自身の唇を乗せた。

「んー!」

「!?っ……」

 そう。余楽清ユイルゥチンはあの時のように、またもや洛星宇ルオシンユーに口づけをしたのだ。

 柔らかな薄い唇を、己の唇で優しく食むようにふわふわと吸い付けば、少しばかり洛星宇ルオシンユーの肩が震える。

 苦肉の策とはいえ、男同士で二度も口づけを交わさなければいけない事実に内心泣きたい思いでいっぱいの余楽清ユイルゥチンであるが、滅多に隙を見せる事のない洛星宇ルオシンユーを油断させるにはもうこれしか思い付かなかったのだ。

 しかし、意外にもこの方法は効果覿面であった。

 突然の口づけにまたもや驚愕で身体を硬直させた洛星宇ルオシンユーは、今の出来事を受け入れる器を持っていなかったために言葉をなくしてただただ棒立ちする他ない。

 同時に首を絞めていた腕からもふっと力が抜けて若者から手を離した事により、若者は急速に空気を肺に取り込んで大きく咳き込んだ。

 危うく死の一歩手前まで来てしまっていた若者を取り囲むかのように他の弟子たちが急いで駆けつけるが、未だ呆けた様子の洛星宇ルオシンユーと、もはやゼロ距離と言っても過言ではない程に近い距離で彼を見つめる余楽清ユイルゥチンのその様子に、沸々と怒りが沸いてきて止まない。

「なっ……また師尊シズンのいたいけな唇を奪ったな!」

「お労わしや師尊シズン……二度もこんな男から唇を奪われるなんて!」

「このままだと師尊シズンの貞操も危ない……!」

「……兄さんと楽清ルゥチンの口づけ……なかなかに……」

 あっちこっちで好き勝手に言いたいことを言う弟子たちや、なぜか頬を赤らめてうっとりとした表情を浮かべる洛林杏ルオリンシンの様子など気にも止めず、洛星宇ルオシンユーはふと我に返るとすかさず近い距離にいた余楽清ユイルゥチンの肩を押し退け、顔を真っ赤に染め上げながら彼を鋭い眼光で睨み付ける。

「貴様っ!?一度とならず、二度も俺に穢れた口づけをするなぞ……殺してやる!」

「だってよー、普通に止めてもお前絶対止まんないじゃん。結果的にこういう不意打ちキッスの方が効果抜群だし?」

 顔がトマトのように赤らむ洛星宇ルオシンユーとは裏腹に、余楽清ユイルゥチンはどこ吹く風といったような飄々とした雰囲気で言い退けた。

 まるで、キスなど対して重要ではないとでもいうようなプレイボーイ的な態度だ(但し、立派な童貞である事は内緒だ)。

 洛星宇ルオシンユーに野次を飛ばす弟子たち、それに子供のように突っかかっていこうとする洛星宇ルオシンユー、兄を必死に止めようとする、未だ顔の赤い洛林杏ルオリンシン、そしてなぜか木の陰から無言でこちらを見つめてくる高雨桐ガオユートン(着いてきただけ)……。

 このカオスな状況を何とかせねばと、余楽清ユイルゥチンは大きく息を吸い込んだかと思えば、今度はありったけの大声を発して仙城中の人々の鼓膜を震わせた。

「弟子ども、全員中庭にしゅうごーう!」

「!?」

 その怪獣のような叫び声に、城の中にいた弟子たちもおろおろとしながら大人しく中庭へと向かう。

 次々と弟子たちが中庭へと集まり出し、ついに任務で不在の者以外の全員が集まった。

 敬愛する師匠や同窓たち、そしてルオ兄妹が集まる中庭でいったい何が繰り広げられるのかと皆一様にドキドキと胸を高鳴らせる。

 ふと、一人の勇気ある若者がおずおずと挙手をし、余楽清ユイルゥチンに言葉をかけ始めた。

「し、師尊シズン……どうかされましたか?」

 その質問に、待ってましたとばかりにパアッと笑顔を浮かべた余楽清ユイルゥチンは、こほんと一つ咳払いをした後、再び大きな声で言葉を紡ぎ出した。

「命令!今後いっさい、ルオ兄妹の悪口言うの禁止!もちろんちょっかいかけるのも!破った奴は普段の修行に加えて腕立て伏せ腹筋プランクそれぞれ千回追加すっからな!」

「ぷ、ぷらんく……?」

 よくわからない横文字に若干戸惑いつつ、弟子たちは今しがた宣言されたその内容にいささか疑問と不満が込み上げてきた。

 何となくだが、これではルオ兄妹に有利な内容にならないだろうか。

 なぜだか自分たちがないがしろにされているような感じを受け、再び一人の勇気ある若者が挙手をした。

「し、しかし師尊シズン……やはり、妖王をこうも自由にさせてしまわれては、我々も怖くてたまらないのです……」

「だーいじょうぶ!もし今みたく何かされたとしたら、俺が駆けつけて濃厚キッスして止めてやるから!というかお前ら、自分が嫌な事は人にしちゃいけないって習わなかったんか?何もやってないのに暴力振るわれたらそりゃ俺もコイツの事ボッコボコにすっけど、今のはお前らが悪いんだから多少は自業自得!はいもう今回の件はこれで終わり!仲直り!解散!セイグッバイ!」

 不安そうな弟子たちを一掃しようと、余楽清ユイルゥチンが声高らかにそう宣言しながら両手をパンっと一つ打てば、途端にその場がシーンと静まり返る。

 こんな話じゃ納得できそうにない。そもそも師尊シズン自身がめちゃくちゃ胡散臭くなってるからあんまり信じられない。

 そのような事がまるまる顔に書いてあるかのように訝しげな視線を寄越してくる弟子たちなぞ気にする素振りも見せず、余楽清ユイルゥチンはふと何かを思い出したかのように威厳のある声を発した。

「あーあと、もう一つ」

 その瞬間、先ほどとは打って変わってピシッと背中を伸ばして列を正し始める弟子たち。

 その様子を見ながら、ルオ兄妹は『アイツって意外とまだ人望はあったのか』と失礼な事を心の中で呟きつつ、自分たちも余楽清ユイルゥチンの言葉に耳を傾けようと口を結ぶ。

 件の人物である余楽清ユイルゥチンは、自信満々に胸を張ると、今度はニコッと花が咲くような天真爛漫な笑顔を浮かべた。

 深い海のような、はたまた満天の星空のような済みきった蒼い瞳が細められ、艶やかに色づく唇が柔い三日月を描く様は、まさに天女のような蠱惑さを秘めている。

 そのあまりの無垢な美しさに、弟子たちや陰で見ていた高雨桐ガオユートン洛林杏ルオリンシンなどは顔を真っ赤に染め上げて口を半開きにする他なかった。

 挙げ句の果てには、なんとあれだけ余楽清ユイルゥチンを毛嫌いしていた洛星宇ルオシンユーまでもがほんのりと頬を赤く染め上げている。

 怒りで赤くなるのとはまた違う、妖艶さに当てられ執着心が芽生えた時の頬の赤は、儚くも美しい色をしていた。

 皆が皆、顔を赤くして黙り込んだのを見やり、余楽清ユイルゥチンはますます自信ありげに口角を上げた。

 美形って最高。マジで使えると、清楚な見た目に相反した思考を巡らせているのは内緒である。

「もうこれから畏まった演技なんてしねぇ。俺は俺らしく、やりたいようにやらせてもらう。素の俺はこんな感じだからよろしくな~」

 そう言い終わるや否や、余楽清ユイルゥチンは颯爽と中庭に背を向け、自身の部屋へと戻るために踵を返した。

 その束の間の出来事を消化しきれない弟子たちは、師匠の背中が完全に見えなくなったのをいいことに再び好き勝手な事を呟き出した。 

「……あれは本当に師尊シズンなのか?」

「何か、やっかいな妖怪にでも取り憑かれてしまったのか?」

「ああ、お労わしや師尊シズン……あときっすとせいぐっばいとはいったい何なんだ……?」

 一方、一部始終を木の陰からこっそりと見ていた高雨桐ガオユートンは、やれやれといった手振りをしながら余楽清ユイルゥチンの居室へと歩みを進めた。

 これで、これからは我らが師尊シズンは本格的に頭がおかしくなったと認識されただろう。本人的にはその方が動きやすくていいのだろうが、一番弟子である己の事も少しは労ってほしい。尻拭いをするのは誰だと思っているんだと、心の中で愚痴を言わずにはいられなかった。 

「あーもう、知らん知らん。どうにでもなれ」

 心底呆れ返ったかのようにそう呟きつつ、いつしか高雨桐ガオユートンの背中も見えなくなっていった。

 一方、ルオ兄妹と言えば。

「……兄さん、大丈夫?」

 余楽清ユイルゥチンに口づけをされてからあの美しい笑顔を見て以来、まるで地蔵のように硬直し動かなくなってしまった洛星宇ルオシンユーの頬をペチペチと軽く叩いてみる洛林杏ルオリンシン

 しばらくペチペチとし続け、ようやく戻ってきた洛星宇ルオシンユーが最初に口に出したのは。

「……毎回毎回、何かあるごとに俺はアイツに口づけされなきゃいけないのか……?」

 やはり、余楽清ユイルゥチンに二回も施されてしまった口づけへの疑問であった。

 頭の上にクエスチョンマークを浮かばせながら、洛星宇ルオシンユーは未だほんのりと赤い顔を冷やそうと、無言でちょうど良さげな小川を探し始めるのであった。

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