すういむ

押田桧凪

第1話

 きみは「ちらい」と言いました。きらい、と言えそうで言えないくらいの歳で、私はきみを水に誘いました。だけど、断られました。小春ちゃんは春に生まれて、今年で五度目の夏を迎えました。


 庭先に広げたビニールプールに足さえつけたがらないので、大の大人である私が勝手に入ってぱしゃぱしゃと水面を撫でてみます。興味を持ってもらえるように最大限のことをしようと。ふん、とむくれているのかせっかくのお天気なのに小春ちゃんは私を視界に入れないようにしています。


 そうだ! 入浴剤があった。ええ、もちろんプールが台無しになるのは承知の上です。小春ちゃんはぶくぶく泡が立つものが好きなのです。それに、カラフルな色が現れるのだって好きに違いない、と私は考えていました。


 ペットボトルに入れた水と絵の具で『いろみず』を作ってお店屋さんごっこをした時も、小春ちゃんは「おれんじじゅーすはいかがですか~」「おいくらですか?」「せんえんです~」と上機嫌でした。私は玩具銀行券と印字された紙を一枚取り出します。どうしても、こういうのは言い値で買ってしまいます。ああ、日ごろの節約癖がここで発揮されないのはよくないですね。


 泡が立ち始めると、ようやくそれに気づいたのか小春ちゃんは「わーー!」と私のそばに駆け寄って、目を輝かせます。よかった、きみがいてくれて。いや……、よかった、きみがこの夏をきらいにならなくて。いやいや、違う。きみがこれからの夏を、きらいにならないよう、私がそう思わせられるようにしようって決めたから。だから、よかった。私はそう思いました。



 週末のことです。小春ちゃんがパパと買い物に行っている間、私はひそかに『おうち縁日』の準備を進めていました。流行りのかぜが再流行していて心配なのと人混みはまだ怖いだろうと思ったので家で体験できる夏祭りを、と私が提案するとパパも乗り気のようでした。先週つかったビニールプールに水を張って、スーパーボールやヨーヨーを浮かべると一石二鳥です。


 小春ちゃんたちがかえってくると、私は「切り分けたスイカもあるよー」とテーブルの上に焼き鳥やりんご飴、冷やしたラムネ瓶などを並べていきます。より一層、祭りに来たという感じがして小春ちゃんもおおはしゃぎです。ハッピを着ているせいもあってか、小春ちゃんは私を屋台の人として認識しているらしく「いくらですか~」と訊いてくるので、今度は立場が逆転しているなと、おかしくなって思わず笑ってしまいます。


「せんえんです! あぁっ、違う! もっと安くて、えっと……無料!」「むりょう? むりょうなの?」「うん。無料、今日だけぜーんぶ無料」「わーい」「パパ、むりょうだって。よかったね」「うん、無料ってすごいね。じゃあ、こは、これもかな?」「うん、それもむりょうだよ、きっと」「わーい」


 そんなやり取りをしていると、夏の暑さも少しは薄まってくるような気がして、きみとのこの時間がずっと続きますようにと暮れかけの夕日を眺めながら私は考えていました。



 その翌週のことでした。幼稚園で仲良しの「あきとくん」がスイミングスクールに通っている、と聞いて小春ちゃんは「プールやる」と一言呟きました。で、でもこはは……。うまく、言葉が続きません。


 お風呂だってトレーニングというか、格闘というか、とにかく大の水嫌いの小春ちゃんはいつも入るまでにしぶって長い時は一時間以上ごねていることがあるくらいです。スクリューから泡が出る船のおもちゃを買って、それをお風呂に浮かべてみせて「わぁっ!」となって入ることの方が多いので、「小春ちゃん=プール」という選択肢がまだ私の頭の中でカチッとはまらなかったのです。幼稚園から帰って、すぐ手洗いをするように促しても石けんの泡で遊ぶことの方が目的だったりするので、はたして小春ちゃんにプールが向いているのか私は不安でした。


 あきとくんは運動神経が良く、「すっごいあしがはやくてー、てつぼうがじょうずでー、なわとびもいっぱいとべてー」と小春ちゃんはこれでもかと言うくらい誉めたたえます。もしかしたら、あきとくんは小春ちゃん以外の女の子にもたくさんモテているのかもしれません。仲良し、ということは取り合いになったりしているのでしょうか。そんな、乙女?てきな対抗心に燃え、小春ちゃんのスイミングの体験日が決まりました。


 私はどう思うのが正解かを考えていました。もともと、水に誘ったのは私です。だから、きみが泳げるようになったらうれしい。でも、今すぐにとは望んでいない。ゆっくりとした歩みでいい、だけど進もうとしている。私は、それを止めない。だから、行ってらっしゃい。胸の奥ですっくと立ちのぼる入道雲とひまわりが、小春ちゃんが迎える夏を応援しているように感じました。



 体験でやって来た小春ちゃんは、すでに習っているあきとくんとは別のコースにいました。どうやら、帽子についたワッペンの色でコースが決まるようです。受付の人にアームヘルパーと帽子を貸してもらい、海水浴に着ていく水着を着て、小春ちゃんはプールサイドに入っていきました。


 私が知る限り、初めて見る足取り、そして初めて見る顔でした。その日の小春ちゃんは、とても「おとな」な顔つきをしていて、ちょっとでも触れたら今にも弾けてしまいそうなブドウのような実を思わせるぴっちり開いた目と、それからハリのある肌をしていました。かく、かくとロボットのように足は動き、でもそれは遅いわけでも速いわけでもなく、つま先が向けられたゴールを意識しているかのようなマラソン選手のようでもありました。 


「大丈夫? 一緒に行かなくていい?」と階段の方に向かって歩き出す小春ちゃんに言いました。むしろ、心配なのは私の方でした。


「いい、こないで」ときみは言い張りました。私は生まれて初めて、いや、小春ちゃんが生まれてから初めて距離を感じました。二階にあるギャラリー席から一階のプールにいるきみをガラス越しに見つめているからではありません。そういう、物理的な距離ではありませんでした。突き放すのとも違う、小春ちゃんなりの決意を感じて、私は静かに震えました。たぶん、うれしかったのだと思います。私は、成長と名のつく感情の芽生えが──いえ、まだこれは片鱗のようなものであることは当然分かっています──だけど、うれしかったのです。


 最初は赤い台の上に乗って歩くことから始まります。白いプールのふちに腰かけて、慎重にのぼりおりしながら、歩きます。途中で穴があいたところがあって、そこは先生の手につれられてゆらゆら水中を漂います。上から一心に小春ちゃんを見ていて、水がかたちを変えて小春ちゃんを受容していく過程に私はすごい、とただ一言そう漏らしました。それから、小春ちゃんがおっかなびっくり足を動かして、ひゅい、ひゅいと膝を曲げて水を蹴る様子を見ていて私も一緒にひやひやしました。怖いね、でも頑張ってるね、えらいね、すごいね。あらゆる賛辞を飛び越えて迫ってくる感動に、息を呑みました。さながら、呼吸しようと水面に顔を出した時のような感覚でした。


 まだ「顔つけ」は難しいみたいですが、両手を交互に使って白いふちを移動する「カニさん」ならそつなくこなせるようになってきました。体験のレッスンで泣かなかったのですから、100点だと私は思いました。きらいな水に、飛び込んでいく背中を私は見送ることしかできませんでした。だけど100点でした。きみは、とってもかっこよかったです。


「かっこいい? えー、かわいいがよかったぁ」「かわいいかぁ、じゃあ、かわいいかなぁ」「やったー!」


 きみが「かっこいい」がどれだけ立派な褒め言葉であるのかに気づくのがいつになるのかは分かりませんが、だけど、その日が来たら絶対に今日のことを教えてあげようと私は決めました。



 それから、正式にスイミングスクールに入会することになりました。黄色いカバンを持って、タオルとゴーグル、帽子の一式を忘れてないか確認してバスに乗り込んでいきます。小春ちゃんは、七歳になりました。つまり、今年で七度目の夏を迎えました。あんなに水イヤって言ってたのにねぇ、なんて無粋なことは言いません。


「来週、テストがあるから見に来てね!」「パパはお仕事があるから行けないよ、ごめんね」「えー、じゃあママだけでも!」「うーん……、よし分かった!」「やったー」「で、なに泳ぐの?」「クロール!」「ええっすごい。できるの?」「うん。およげるよ」


 きみの口から「およげるよ」という言葉を聞いて、私はふつふつと色んな気持ちがあふれてきて、でもこれは小春ちゃんに宿っているはずの気持ちで、でも言葉にならないままきみが受け取っているものなのだと私は思いました。うまく言えませんが、うれしかったのです。小春ちゃんの喜びは、私とは違うところにあるものだけれど、ちゃんと存在してるってことが。


 願いって通じるな、とその時なぜか私はそう思いました。顔つけ、バタ足、ビート板キック、呼吸つきビート板キック、クロール……。歩んでいく過程、きみがどこか遠くへ泳いでいく過程。25メートル泳いで、次は50メートル。その次は、背泳ぎ、平泳ぎ! まるで夏に置いてけぼりにされていくように私は六月で時が止まったアジサイのような役目なのかもしれない、と思ったのです。でも、ただ萎れるんじゃなくて、「夏が来てほしい」と願う気持ちに似ていて、その願いは通じるのだと思ったのです。


 小春ちゃんは、今では少し前に始めたあきとくんと同じクラスに追いついたそうです。そもそも、その原動力となっていたのがあきとくんなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれません。でも、泳ぐのが楽しいと知った小春ちゃんが無敵であることは確かです。


「ねえ、覚えてる? こはが初めてプールに行った日のこと」


 私はきみに語りかけます。

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