第17話 ケンカは犬も食わない
X(旧Twitter)で開催中の#BL超短編企画(主催:万年青二三歳様)参加作品です。
力任せに叩きつけた弁当箱はシンクの中で鈍い悲鳴を上げ、蓋と一緒に、中に入っていた短い串やぺたんこに潰されたアルミカップが飛び出す。
「何回目だよ。やるから大丈夫って言って、なんで飯作ってねぇんだよ。できないならできないないって、最初から言えっていつも言ってんじゃん!」
「ごめん。ちょっと休憩しようと思ったら、そのまま寝ちまって……」
怒鳴りつけた先には、だらしなく寝癖をつけ、よれよれのスーツを着た秀人がいた。
項垂れ、しょんぼりと落ちた肩。
申し訳なさそうに眉を寄せている顔。
この姿を見るのは、九月になってもう何回目だろう。
いい加減、見飽きてしまった。
もう嫌だ。
胸の騒つきが止められない。
「別れよう」
「え?」
「じゃあな」
衝動にまかせて口にした別れの言葉。
それを残したまま、俺は弁当箱だけ出した通勤リュックを引っ掴み、玄関から飛び出した。
マンションの階段を駆け下り、エントランスから駅へと続く坂道を、重力に任せてひた走る。
朝晩だけ秋の皮を被った地球。
冷たい風が体にぶつかってきた。
煮え滾っていた頭が、急激に冷えていく。
心臓がバクバクして、冷や汗も出ている。
あてもなく走っていた俺は、体の変化に耐えきれず足を止めた。
ふと視線を上げると、高台から下を見下ろすように作られた公園が目に入る。
俺は迷うことなく、誰もいない公園のベンチに腰を下ろした。
どうしよう。
俺、別れるって言った。
そんなこと言うつもりはなかったし、そもそも別れたいなんて思っていない。
それでも衝動的に別れの言葉を口にしたのは、ここ数週間の鬱憤が溜まっていたからだ。
鬱憤といっても、悪いのは俺でも秀人でもない。
強いて言えば、仕事が悪い。
人事は「ひとごと」とはよく言ったものだ。
元々昇任が決まっていた俺は、てっきり同じ部署の係長になると思っていた。
でも、蓋を開けてみれば、まさかの総務部の係長。
どうやら、総務部内で発生したダブル不倫のとばっちり人事らしい。
一方、秀人は長年希望していた商品開発部にめでたく異動が決まった。
この秋、二人揃って異動となった俺たち。
新しい職場環境に慣れるため、一時的に仕事優先で動こうと話し合って決めていた。
家事に手が回らないこともあるだろう。
だから、手を抜けるところは手を抜こう。
そう決めていたはずだった。
でも、秀人はこれまでの生活を変えようとする気配がない。
食事当番の日は「作るからご飯は買ってこなくていい」と言って飯を作る。
掃除の頻度も「俺がやるから」と言って今までと同じ。
けれど、それが続いたのは一週間くらいのこと。
「俺がやるから大丈夫」
そう言ったくせに、やると言った家事はやらない。
疲れているようだったから、秀人がやると言った家事は俺がやることに。
それが何度も続くと、さすがに俺も苛立ってくる。
「できないことはできないでいいから、最初からそう言ってくれ」
できならできないなりに、代替案を考えなければならない。
俺も心の準備ってもんが必要だからな。
だから、俺はそうお願いした。
それでも秀人は頑なに改善しようとしなかった。
俺が爆発したのは、そういった経緯があったからだ。
でも、別れようってなんだよ。
何言ってんだよ、俺。
ずっと一緒にいたいくせに。
本当なら今すぐ家に帰って、秀人と話し合うべきだ。
でも、秀人から「そうだな、別れよう」って言われるのが怖い。
帰りたいけど、帰れない。
どうしよう。
どうしたらいい?
じわりと涙が滲み、視界がぼやける。
秀人に酷いことを言った俺に泣く権利なんかないのに。
ポタリと落ちた雫。
それを拭ったのは、会いたくて、でも会いたくなかった秀人だ。
「一人で泣くな」
息を切らした秀人は、とても苦しそうだった。
かっこいい顔は歪み、息が乱れているのに唇を噛み締めている。
「な、んで、ここに……」
「純平、何かあるとこの公園にいるだろ」
「へ?」
「そんなことより。俺は絶対別れないからな」
「え、あ……それは、ん⁉︎」
俺も別れるつもりはない。
そう言おうとして、口を塞がれた。
秀人の、口で。
きつく抱き締められ、後頭部に回った秀人の手が頭を固定する。
息すらも奪うようなキスに思考が白んでいく。
でも、今は快楽に陥落されるわけにはいかない。
縦横無尽に動き回る舌を止めるには、噛むしかなかった。
「ってぇ!」
「話を聞けって」
「嫌だ! ごめん、俺が悪かった! 手を抜くとこは抜く。かっこつけて今まで通りやろうとしない。だから、絶対に別れない!」
「だぁかぁらぁ……人の話を聞けって!」
舌を噛まれても叫び続ける秀人に頭突きを食らわせる。
俺も痛かったけど、これでようやく秀人は黙った。
「俺も悪かった。別れようって言ったのは勢いで、本当に別れるつもりはない。でも、俺のお願いをちゃんと実行してほしい。じゃないと、共倒れになる」
「うん、わかった。俺もごめん」
「いいよ」
互いに頭を下げて謝って、仲直り。
俺の家出と破局危機は呆気なく去っていった。
冷たい風に吹かれ、体が冷える。
虫の鳴き声が秋の気配を連れてくる。
ぶるりと震えた体は、秀人に引き寄せられた。
俺よりも大きな体は筋肉質で、とても温かい。
秀人で暖を取りながら、俺たちは手を繋いで坂を登り始めた。
それにしても。
「てか、かっこつけたくて今まで通りやろうとしてたのかよ」
「まあ、そう……だな。ごめん」
「いいよ。その代わり、今日の飯代は秀人持ちな」
「もちろん。なんでも買っていいぞ」
坂の途中、煌々と宵闇を照らすのはコンビニの光。
俺はたちはその光に吸い寄せられるようにコンビニへと足を進めた。
「なんでも? 本当にいっぱい買うからな」
「どうぞ。でも、ほどほどにな」
「はぁい」
軽口はいつも通り。
胸の騒めきは、頭上に輝く星の彼方へと飛んでいった。
疲れた体は、癒しを求めて秀人に擦り寄る。
この温もりから離れたくない。
そう思ったのは、俺だけじゃないみたいだ。
コンビニで買い物をした俺たちは、店員の視線にも構わず手を繋ぎ続けた。
固く繋がれた手と手。
俺と秀人は、寄り添いながら家路を急いだ。
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