36 「あ」
「あ」
二つの声が重なった。一方は単純な驚きに息が弾み、片や相反して戸惑いが滲んでいる。
「モリー。久しぶりね」
軽やかだった方の声が続く。逃げられることを避けてか、彼女はずいっと大きな一歩を取って見事な困り顔をした相手の前に立つ。
「ひ、久しぶり……ミリー」
行く手を阻まれたモリーはもはや成すすべなどないことを悟っている。無理やりに作った笑顔でどうにか返事をしてみせた。
手にした分厚い辞書をぎゅっと胸の前で抱きかかえ、冷たくなった指先の震えをどうにか隠そうとする。
笑顔を取り繕うまでは簡単だ。が、青ざめた顔色まではコントロールできない。
モリー自身は自分の血色のない不健康な顔色に気づいていないのだろう。
キリリと上げた口角が引きつっていることにもきっと自覚はない。ミリーと廊下で鉢合わせたことに動揺し、気まずさを感じていることは明白だ。
まずい。会ってしまった。どうしよう。
彼女の心の内が透けて見える。読心術はまだ習得していないというのにミリーはすっかり専門家にでもなった気分だった。
へらっと笑うモリーの表情をじっと観察し、ミリーは鼻先で僅かに息を吐いて肩の力を落とす。
けれど彼女なりに努力し、この場を乗り切ってみせるという意気込みは評価すべきことなのかもしれない。
「つつつぎは何の授業だっけ? あー、えっと、授業は取ってないか、自習時間だっけ」
少しの間離れていたとはいえモリーがミリーの予定を忘れているはずがなかった。考え込んで時間稼ぎを試みたのだろうが、素直な口はすぐに答えを出してしまう。
モリーはしどろもどろになりながら斜め上を見上げて人差し指で頬を掻く。
「えっとー、わたしはね? わたしは、えと……何の授業だっけ?」
ミリーの予定は完璧に把握しているのに肝心の自分の予定を忘れてしまったらしい。モリーは慌てた様子で斜め後ろに立つ友人に小声で訊ねた。
「魔法生物学、でしょ」
落ち着きのないモリーに向かって友人はこそっと耳打ちをしてみせる。ミリーを前に死をも覚悟したモリーの表情に対し、友人は温かな眼差しを向けていた。
モリーが後ろを向いたことでミリーも彼の存在に気がついたらしい。
微かに瞼を持ち上げた彼女の瞳が一回り大きくなる。彼はミリーと目を合わせ、自身がモリーの視界から消える絶妙なタイミングで軽く会釈をしてみせた。
つられてミリーも会釈を返す。ほとんど無意識だった。確かに彼は同じ学園の生徒だ。またどこかで再会するのだろうとぼんやり考えてはいたが、意図せぬ機会に突然目の前に現れると思った以上の衝撃を受けるものだ。
辛うじて瞬きは出来るものの、視線は彼の方を向いたまま釘付けになってしまう。
すると彼は緩やかに弧を描いた唇の前に自分の人差し指を持っていく。
──内緒ね?
またしても人の心が読めてしまった。どうやら彼は前に二人が池の畔に居合わせたことをモリーには秘密にしておきたいようだ。
ミリーは彼の前に立つモリーに視線を移し、ハッと息を吸い込む。
彼女の不自然な笑顔はとうに消え、今や目は白黒し眉は垂れさがって暗い顔をしている。
「モリー」
ミリーが声をかけると彼女はびくっと肩を跳ね上げて辞書を力強く抱きしめた。そんな反応をされたらまるで処刑を待つ死刑囚のようではないか。
ミリーは目を伏せ、最後に見た彼女の背中を思い出す。
リアンナの友人であるモリーがジュールとの浮気を知っていて隠していたことはショックだった。自分を慕ってくれたと思っていた彼女に突如として裏切られたような気分になったからだ。
しかしよく考えてみなくても悪いのは浮気をした当人たちで彼女ではない。
それに彼女自身も複雑な立場だったのだ。
一瞬にして地獄に突き落とされたあの時の屈辱を忘れ去ることは難しいだろう。隠し事をされるのも好きではない。けれどだからといって彼女を恨むわけでも憎むわけでもない。
ただ単純に、一人蚊帳の外に取り残されたようで寂しかっただけだ。
「モリー、ごめんなさい。あなたのことを責めているように思われているのなら、それは間違いなく私の落ち度。あなたのことを怖がらせたくなんてない。モリーは私のことを守ろうとしてくれたんだもの」
ミリーの穏やかな口調にモリーは恐る恐る顔を上げていく。ミリーの瞳には後悔の色が滲んでいた。
「私、あなたがいることが当たり前になっていて。いなくなるなんて、考えたこともなかったから。だからモリーの顔を見れなかったこれまでの間、心にぽっかり穴が空いたようだった。静かで、暗くて。寂しかった、のだと思う」
ミリーは切ない表情で俯き頭を下げる。自分の靴先が視界に入ってきた。あまり馴染みのない光景だ。
「ごめんなさい。あなたを怯えさせたくはないの。決して罪悪感など持たないで欲しいわ」
「ミリー……」
やっとモリーの声が聞こえてきた。先ほどの焦ったような口ぶりはない。
「もう、私のことなんて見損なってしまったでしょうけど──」
顔を上げたミリーは自らを嘲るようにクスリと笑う──と。
「何を言うの‼」
間髪入れずモリーの声が飛んできた。廊下に彼女の声が響き渡り、通り過ぎる生徒たちは何事かと視線をこちらに向ける。
「わたしの憧れを舐めないで! 絶対にそんなことはないから‼」
モリーは周りからの注目などに目もくれず、前のめりになってミリーに訴えかける。
「わたし、自分が情けなかったの。リアンナのこと、なんとかできるって過信してた。ミリーに言えない自分も臆病で嫌だった。そんな自分が許せなくて……」
モリーは視線を横に逸らして肩をすくめた。
例の技術室から逃げ去った時から、確かにモリーはあらゆる手段でミリーを避けてきた。しかしそれはミリーが怖かったからではない。彼女にきちんと事情を説明する勇気がなかったからだ。
自分の中で気持ちをしっかり整理してからミリーに隠し事をしていた事実を謝ろうと考えていたのだ。
そう。長い付き合いのあるリアンナとの友情を無下にすることも出来ず、彼女のことを信じていたのだと自分の言葉で説明できるようになるまで。
けれどその間にもミリーは浮気の話題から距離を置き、単独行動ばかりをするようになっていた。そうなってしまったら余計に彼女に近寄ることなど出来ない。
ミリーと話さなくては。
そう思ってはいるものの、時間が経つにつれ気まずさばかりがずるずると長い尾を引くこととなり、雁字搦めになってしまっていたのだ。
「むしろ、わたしがミリーに、愛想尽かされちゃったかなって思って……そう考えるだけで、怖くて、現実から逃げたかったの。避けたりして、ごめんなさい」
モリーは辞書を抱えたまま勢いよく頭を下げた。九十度を通り越し、頭と脚がくっつきそうなくらい身体が折り畳まれる。
先ほどから注目を浴びていたモリーだったが、大胆な謝罪に周りのざわめきも大きくなっていく。通り過ぎていた足はついに止まり、野次馬のごとく人が集まってくる。
「モリー、もういいわ。もうこのことは」
ミリーはモリーの肩を優しく撫でてそう囁く。
「あなたの想いが知れて嬉しい」
「ミリー……‼」
「ありがとう。モリーには敵わないわ」
「ミリーッ‼」
顔を上げ、一番に入ってきたミリーの微笑みにモリーは大歓喜しながら彼女に抱きついた。憐れにも彼女に放り投げられた辞書が宙を舞う。クインシーがモリーを微笑ましそうに見守りながらも飛んできた辞書を見事にキャッチする。
「っわ。ちょ、ちょっとモリー、危ないでしょう」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、ミリーはのしかかってくる彼女の重みに倒れてしまわないようにぐっと右足に力を込めた。
「だって。だってぇ! もう二度と話せないと思ってたからっ! 良かった……よかったぁ……!」
「わかった。わかったモリー。あなたの気持ちは十分に伝わってるわ」
「本当? うれしいいい」
モリーの感極まった声に思わず笑みがこぼれてしまう。ミリーは彼女の背中をとんとん、と叩き、「ありがとう」ともう一度感謝を伝えた。
ミリーから離れたモリーの満面の笑みには微かに涙の痕が見える。しかしモリーはそんなこと気にせず嬉しそうに身体を弾ませた。
「あっ。ねぇミリー。ミリーはネイル魔法が得意だよね? 今はもうジュールが傍にいないから言っちゃうんだけど」
「うん?」
「今度ね、新作のネイルが完成したの! 新作っていっても、カラーバリエーションのことなんだけど。これまで可愛い感じのパステルカラーって発色が難しかったんだけどね、ついに、ついにいい具合の調合に成功して!」
興奮した様子で鼻息荒く話を進めるモリーとは対照的に、ミリーは状況が飲み込めないまま首を傾げる。
「新作? どういうこと? モリー、開発者と知り合いなの?」
ミリーがきょとんと目を瞬かせたので、モリーは口を丸く開いて手を叩く。
「え? あっ、そっか。ジュールの手前言い難くて言ってなかったんだった」
「何を?」
「わたしのおばあさま、ネイル開発に携わったメンバーの一人なの」
「えっ⁉」
モリーは自分の爪をじゃーんと見せびらかすようにミリーに向ける。ミリーはモリーが告げた言葉に驚きを隠せずに目を丸め、珍しく気の抜けた表情を見せた。
「へへへ。ユニエラの木をそのまま使う杖推奨派のヴィヴァル家にしてみれば新興技術はあまり面白くないでしょう? だから黙ってたんだけどね」
「でも。モリー、あまりネイル魔法はやらないじゃない」
「そんなことないよ? ミリーみたいに堂々とやらないだけ。ふふ。ねぇ、それでどうかな? 今度新作を見に工房まで来ない? 発売前に試させてもらえると思うよ」
「え? あ。ええ、そうね、それはとても素敵なお誘いだわ」
「やったぁ‼ じゃあ、さっそくおばあさまに聞いてみるね!」
まだ異様な瞬きが止まらないミリーとは裏腹に、モリーは無邪気に両手を挙げて万歳をしてみせた。ぴょこぴょこと飛び回るモリーの後ろでは彼女の辞書を手に持ったクインシーが楽しそうに笑っている。歓喜のお裾分けを喜んで享受しているようだ。
確かに、世紀の瞬間を迎えたかの如く喜びに沸く友人を目の前にすれば、その気の昂ぶりが伝播してしまうのも仕方のないことなのかもしれない。
表情に驚きの余韻を残したままのミリーの口角も淡く持ち上がっていく。
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