35 手を引かれれば
「危なかったね。GaMA試験どころじゃなくなるところだった」
外に出たミリーは密かに騒いでいた胸の鼓動を落ち着けようと深呼吸する。
「監視員さん、不眠症だったなんてね」
イエナは弱弱しく笑いながら眉尻を下げた。
「こんな危険を犯してまで、イエナはそれを使って何をするつもりなの?」
「ふふふ。私ね、いつも空に憧れているの」
「空?」
「ええ。空には境界線なんてないでしょう? 縛りつけるものも何もなく、大空を泳ぐって、とても軽やかで気持ちいいだろうなぁって」
「でも、私たちだって箒があれば飛べるじゃない」
「そうだけど。でもそれは、本物じゃないでしょう」
「本物?」
東校舎から離れ、人目につきにくい場所まで移動したミリーは近くの木に寄りかかりながら腕を組む。彼女の前ではイエナが硯と黒綴を使って合成術の準備を始めていた。
「空を飛ぶ手法は昔から変わらない。変えることができないって、皆、そう認めてる。でももし。もし、不可能だと思っていたことを可能にできたら。大きな挑戦ができたのなら。きっと、それ以外の悩みなんてちっぽけだって思えるはず。なーんだって、笑いたくなっちゃうくらいに」
イエナは制服に括りつけていた巾着を開けて中から大きな羽根を取り出した。真っ白な羽根は粉雪を彷彿とさせる。
「これはハクチョウワシの羽根。小さい頃に貰ってからずっと大事にしてたの」
「そんな大事なもの、合成術に使っちゃっていいの?」
「ええ。友だちのためだもの。後悔なんてないわ」
イエナは晴れやかな笑顔で頷いた。
「ミリー、髪の毛を一本くれないかしら?」
「髪の毛?」
「うん。私のも、ほら、こうやって……」
そう言いながらイエナは自分の髪を一本抜いて硯に置いた。まだ彼女が何をしようとしているのか分からない。けれど彼女の澄んだ瞳を見るに、断る理由もなさそうだ。
ミリーはイエナに倣って自分の髪の毛を一本引っ張った。ぷつん、と抜けた髪の毛は月明りを飲み込む。
「ありがとう」
髪の毛を受け取ったイエナは羽根と二人の髪の毛を黒綴ですり合わせていった。次第に液体が滲み出る。何度も見た覚えのある光景だ。そこでミリーはハッと気づく。
黒綴を使った合成術を成功させた者はいない。
いくら道具を手に入れようとも、最後に術を完成させられなければすべてが水の泡だ。
「ねぇ、イエナ──」
もしかしたら最初から無謀な試みでは。そう思いミリーが口を開いた時、イエナが嬉しそうにこちらを見上げてきた。
「完成だよ」
イエナは出来上がった液体をスパイスの空瓶に移し、コンコン、と爪先で瓶を叩く。イエナの爪先が起こした振動に揺れる紫の液体が微かに光ったようにも見えた。
「イエナも、ネイル魔法を使うのね」
「ふふ。本当は学園内の敷地では使いたくないのだけれど。道具を拝借している以上、そこを遠慮するのはおかしいわ。でも、このことは内緒ね?」
イエナがネイル魔法を使うところを見るのは初めてだった。平気で規則を守らないミリーとは違い、彼女は普段からきちんと規則を守っているからだ。が、言われてみればそれ以上に学園内への侵入、道具の拝借をしている最中だった。
「誰にも言うわけないでしょう」
ミリーはクスリと笑いながら肩をすくめる。
「さぁ、ミリーも飲んで? 三口ずつかな。多分……十五分くらいしか持たないけれど」
「何が起きるの?」
「それは飲んでからのお楽しみ」
一体何が起きるのだろう。
ミリーは知らず知らずのうちに胸を高鳴らせている事実に気づく。
もうこうなれば彼女の言う通りにするのが正解だ。それ以外にこの弾む心の行方などどこにもない。
イエナから小瓶を受け取ったミリーは一、二、三、と液体を飲み込んだ。
ミリーから小瓶を返されたイエナも同じく残りの液体を喉に流し込む。
反応が出るのは少し経ってからのはず。ミリーは授業の記憶を呼び起こしながら静かに空を見上げた。──と。
「うっ……‼」
ドクン、と心臓が大きく波打った。次第に動機が早くなり息が苦しくなる。ミリーが胸を抑えると、イエナも同じような反応を見せていた。
高熱でうなされた時を思い出す。いや、まさにその感覚そのものだ。体温が急激に上がったせいか額には汗が噴き出していた。
「イエナ……?」
何をしたの?
そう訊ねる前に視界が歪む。くらくらして立っていることが困難だった。ふらつきながら木に身体を預けると、背骨を下から上へ一直線に熱いものが走っていった。
その熱を最後にすべての異常が身体中から消え去る。ミリーは恐る恐る目を開けた。
「見て、ミリー。ふふ。成功だね」
目の前でそう言って笑うイエナに違和感を覚える。彼女の顔、髪、身体に変化は見えない。が、唯一、その背中に見慣れないものが生えているのだ。
「……翼?」
イエナの髪色に白色を垂らしたような色をした大きな翼だ。ミリーは何度も瞬きして彼女の姿を確かめる。見間違いではない。
「ミリーも」
イエナはにこりと笑ってミリーを指差す。ミリーが自分の背中を振り返るように首を回してみると、その視界にあり得ないものが入り込んできた。
「翼⁉」
そうだ。イエナとは色が違うが自分にも翼が生えている。
「どういうこと? イエナ」
「翼の魔法で空を飛んでみたら、きっとなにもかもが小さく見えるよ」
「そりゃ、爽快だろうけど……っ!」
「ね? ほら行こう、時間もないんだし」
「え? うわぁっ‼」
イエナに腕を引っ張られて身体が宙に浮いていく。イエナを見上げると、彼女は器用に翼を動かして宙に浮かんでいた。
「ミリーならできるよ。飛びたい、って思いながら背中に力を入れるの」
「背中に? こ、こう……?」
「そうそう! 流石ミリー、飲み込みが早いね」
イエナは嬉しそうに拍手する。ということは、彼女の手は離れているということ。ミリーは慌てて足元を見下ろした。確かに浮いている。飛んでいるのだ。
「飛べた……⁉」
「うん。飛んでる。飛んでるよ、ミリー」
「……すごい。箒、使ってないのに」
木のてっぺんがつま先よりも下にある。ミリーは信じられないという顔をしてイエナを見やった。
「もっと上まで行こう? 空は広いよ!」
「え?」
ミリーを誘うや否や、イエナは翼を力強く動かして遥か上空を目指して飛び出す。
「イエナ⁉ あんまり遠くまで行くと危ないかもっ」
「大丈夫! 十五……あと十二分は持つから」
「本当に……?」
疑心暗鬼になりながらもミリーはイエナを追いかけ上空へ飛び立つ。不安は残るが胸が高鳴り続けているのだ。表情には出さずとも確実に心が踊っている。それを自覚したのか、ミリーは意を決してイエナの隣に並んだ。
眼下に広がる街明かりが学園に向かった時とは全く違って見える。同じ角度からみているはずなのに。一体、街はいくつの表情を持っているのだろう。
「箒よりもずっと早く飛べるのね」
「ハクチョウワシは鳥類の中でも飛ぶ速度が速いんですって。だから、きっともっと速く飛べるよ」
「へぇ。それは試してみないと勿体ないかもしれないわね」
「ミリーもそう思う?」
イエナとミリーは目を見合わせた。互いに頷き合い、左手と右手で手を繋ぐ。
「いっくよー‼」
イエナの無邪気な掛け声とともに二人は一気に加速した。風を切る音がダイレクトに鼓膜に伝わるようだった。冷たくも爽やかで澄んだ空気が二人の顔面にぶつかる。鼻先で左右に分かれていく風は大胆に髪を踊らせていく。
手を伸ばせば星に手が届きそうだ。が、決して触れることは出来ない。幻想的な明かりはどこまでも果てしない。それなのに自分たちをすぐ傍で見守っているかのように瞬く。
慣れない飛行に身体は上下し、不安定な車の運転に揺られているようだった。けれどそれすらもスリリングで楽しく、ミリーの胸に残っていた不安もいつの間にか風に吹き飛ばされていた。
これが箒ならばいつ振り落とされるか気が気ではないはず。でも。
「もっと早く‼」
今は自らの意思そのもので身体一つで空を泳いでいるのだからそんな懸念は全くない。
急速降下も上昇も、旋回だって自由自在。
晴れやかな笑顔には心の底から歓喜したくなるほどの心地良さが広がる。イエナの笑い声が風に溶けて聞こえてきた。繋いだ手の先を見やれば、ちょうど同じタイミングでイエナもこちらを向く。
彼女の髪の毛が流れ星のように空をなぞっていた。
「ねぇ、何もかも、なんてつまらないことなんだって思わない?」
「ええ。だって私たち、今、空を飛んでいるんだもの。自分の翼で。星空の中を!」
イエナの問いかけにミリーは大きな声ではっきりと答える。凛とした中に滲む彼女の満ち足りた喜びにイエナは頬を弛ませた。
その後約十分間、二人は翼の魔法で空を飛び回り月明りの舞台を独占した。
終わってしまえばあっという間だった。十五分と聞いた時には何も出来る余裕はないと思っていたが、地上に帰ってきた今は何もかもが可能な気持ちになっていた。
ミリーは新鮮な空気を一杯に含んだ肺を広げ、さっきまで自分たちが飛んでいた星空を見上げる。まだ頬には冷たい風の余韻が残っている。
彼女の傍らではイエナが硯と黒綴を片付けていた。貯蔵庫に戻すのはまたリスクがあるので、後日折り合いを見て返しに行くと言う。
「ねぇイエナ」
片付けを終えようとするイエナに向かってミリーが声をかけると、彼女はしゃがんだまま「んー?」と返事する。
「私、あなたのこと羨ましかったの」
「え?」
思いがけない言葉だったのか、イエナは片付けの手を止めて顔を上げる。
「初めて出会った時、イエナは自分を隠さず全てを伝えてくれたでしょう。私には、そんなことできなさそうだから」
「ふふふ。何を言うのミリー。ミリーに褒められるなんて、びっくりしちゃうでしょう」
「……かな? ふふ。ごめんね」
「ううん。いいの。ふふ、ありがとう、なんだか恥ずかしい」
顔を赤らめたイエナはぱっと手元に視線を戻す。不意に褒められたからかイエナの動きは先ほどよりもぎこちない。
ミリーもまた、下を向いてしまった彼女の表情を見ることはできなかった。
自分が人を褒めることはそんなに奇妙なことだろうか。
困惑しているようにも見えるイエナの反応に一抹の寂しさが残る。
けれど赤みの残る彼女の耳元に気づいてしまえば、僅かながらも心が安らぐ気がした。
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