8 宣戦布告


 「ミリー! ちょっ、どこ行くの⁉」


 監督生の談話室を出たミリーは、先ほどと変わらぬ歩幅を保って道を切り裂いていく。彼女の険しい表情を見た生徒たちが素早く廊下の左右に寄るおかげで行く手を阻むものは一切ない。見晴らしのいい視界の先一点だけを見つめ、ミリーは迷いなく前へと進んでいった。


 背後を追いかけるモリーの声も小さくなる。モリーは懸命にミリーの背に続いたが、彼女との距離はまるで縮まらなかった。

 ジュールやイエナたちは談話室から廊下に顔を出し、遠くに行く二人を見つめていた。四人の視線が合えば、互いの思うことを推測するのは容易だった。


 ミリーの厄介な導火線に火がついた。

 四人は自分たちにミリーを止めることなど出来ないと十分に思い知っている。

 ただこの先の展開を見守ることしかできないのだ。


「ミリー!」


 モリーの声など聞くつもりもないのだろう。分かっていても、モリーは彼女の名を呼ぶことを止めなかった。モリーもまた、深刻な表情で談話室を後にした彼女がどこに向かうのかはなんとなく想像がついた。が、ミリーと付き合いの長い四人と違って、モリーは自分が憧れの先輩の助けになれるかもしれないことをまだ諦めてはいない。


些細なことでもいい。一つでも多く、ミリーに好印象を残したい。それが、まだミリーに認められたばかりのモリーが最初に思いつくことなのだ。

 それにしても、身長は大きく変わらないのにミリーの一歩一歩の速いこと。

 階段を上がる速度も落ちるばかりか加速していく。

 モリーは彼女の脚捌きを一瞥し、息が切れてきた自分の体力のなさを省みた。


「ちょっと、失礼してもいい?」


 モリーが自らを律してため息を吐いたのとほぼ同じくして、ミリーが廊下の隅にある教室の扉を丁寧に叩く。

 顔を上げればそこは実験室の入り口だった。


「ミリー? どうしたの? 次のクラス、ミリーは取っていないよね?」


 突然のミリーの来訪に最初に気づいたのはつい先ほど実験室に入ったばかりで扉の近くに立っていた一人の女子生徒だった。

 湿気の影響でボリュームアップした亜麻色の髪はどうにか三つ編みで抑え込まれている。長い前髪を額の中央で割って左右に流しているからか、彼女が着用している眼鏡がやたら強調されて見えた。


「ミリー、そろそろ授業が始まっちゃうよ」


 ミリーが実験室を見回す後ろから、へろへろとした足つきのモリーが遠慮がちに声をかける。かなり体力を削られたらしい。モリーは大きく吸い込んだ息を同じくらい大胆に吐き出した。


「あれ?」


 そこでようやく正面を向いた瞳が捉えたのは、ミリーに声をかけた眼鏡の女子生徒だった。

 モリーがミリーを追いかけてきたことに気づいた彼女は、ミリー越しにモリーと目が合い「あ」と口を開く。

 モリーは控えめに彼女に笑いかけ、胸の下で小さく手を振った。眼鏡の女子生徒もそれに応える。


「えっと……授業じゃないってことは、何か別の用事、なのかな?」


 気を取り直し、眼鏡の女子生徒はミリーに再び訊く。ミリーの顔は確実に彼女の方を向いた。けれどすぐに視線は彼女を素通りし、実験室で授業の開始を待つ生徒たちの塊へと向けられる。


「あの、私、このクラスのリーダーを任されてる一人なの……なにかあれば、力になるよ?」


 眼鏡の女子生徒はミリーに無視されたことも気にせず、微かに首を傾けて続ける。

 濁りのない純朴な声は穏やかで善意に満ちていた。


「──いた」


 しかしミリーにはその声は届かない。監視員のごとく油断のない眼で室内を隅々まで見渡したミリーは、一人の生徒を見つめてピタリと瞳の動きを止める。次の瞬間にはスタスタと実験室の中を横切っていた。


「あっ、ミリー……?」


 眼鏡の女子生徒は実験室の隅にある数人の生徒の輪に向かうミリーを反射的に追いかける。モリーもその後に続いた。ミリーの狙いは思った通りだ。


「ミリー? あれ、どうしてここにいるの?」


 ミリーが向かった輪の中心にいたのは机に頬杖をついて談笑していたマノンだった。

 マノンはミリーが近づいてくることに気づくなりにこやかに頬を緩ませた。確かに口は笑っている。が、目元の表情筋だけが少し不自然だった。あまり笑っているようには見えない。


 やはりミリーはマノンに直接話をしに来たのだ。

 モリーは眼鏡の女子生徒の隣に並び、高まる緊張を抑えるためにゴクリと息をのみ込んだ。

 マノンが次にどの授業を受けるのかミリーは当然のごとく把握していた。

 ベンチにいたあの日から、彼女はミリーにとって重要危険人物。彼女の学園内での動きは余すことなく調べ尽くしている。

 自分を囲む生徒たちの真ん中で椅子に座ったままのマノンの前に堂々と立ってミリーは静かな声で告げる。


「一つ、伝えておきたいことがあって」

「伝えたいこと? へぇ。なんだろう」


 マノンの愛らしい笑みが挑戦的なものへと移ろう。頬杖を止め、マノンは机の上で指を組む。彼女の爪はエメラルドの輝きに揺らめいていた。


「前の学校ではどうだったか知らないけれど、あなたはこの学園では新参者なの。新参者のマナーって知ってる? 身の程をわきまえろ。初歩的なことでしょう?」


 ミリーはマノンの机に両手をついて前かがみになって迫る。これまでもこの学園に転校してくる生徒は数人いた。が、こうやって直々に学園のマナーを新顔に叩き込むのは初めてのことだ。しかも相手はこれまで散々喧嘩を売ってきた礼儀知らず。


 なんて親切な行為なのだろう。ミリーは自分の寛容な態度に自惚れて微笑む。

 学園の支配者にここまでされて平気な顔をしていられるはずがない。

 ミリーは既に勝ち誇った気分になって自分を見上げてくる猫のような瞳をじっと見下ろした。


「……マナー、ねぇ」


 マノンは視界を覆うミリーの優雅な眼差しを見やり、フン、と鼻で笑ってみせる。

 思った反応と違う。

 一寸の狂いなく不快な対応を選択するマノンの頑固さにミリーの健やかな表情に僅かな陰りが覗く。


「それなら、もうすぐ授業が始まるのにその邪魔をするあなたの行動はなんなんだろうね?」


 マノンは身体を前方に傾け、ミリーに対峙するようにして無邪気に問いかける。


「せっかくリアンナが協力を申し出てくれたのに、それも全部無視するし。それが学園のマナーって言うなら、わたしは守りたいと思わないけどなぁ」


 ミリーの斜め後ろで二人のことを止めようか躊躇っている眼鏡の女子生徒に視線を送り、マノンは前に倒していた身体を椅子の背もたれまで後退させる。


「……はい?」


 目の前の黒髪女が何を言っているのかミリーには到底理解できなかった。

 どうにか会話に出てきた中で理解できたものを求め、ミリーは自分の斜め後ろに立つリアンナをちらりと振り返る。


「ひっ」


 ミリーと目が合った途端、リアンナは即座に肩を跳ね上げて縮こまった。無理もない。後ろを見たミリーの表情は難しく、彼女を睨んでいるようにも見えたのだから。


「彼女に頼るまでもない。だから断って何が悪いの」

「断りもしてないのに。はは。ミリーって面白いのね」


 ミリーの険しい眼差しがマノンに戻るが、マノンはミリーとは対照的に瞳を輝かせるだけだった。


「あなた……」


 面白くない。

 まったく反抗的な態度ばかり見せるマノンにミリーは痺れを切らす。次第に苛立ちを隠せなくなってくる。今にも爆発して乱暴な言葉を吐いてしまいそうだ。

 しかしそれでははしたない。

 ミリーはなんとか気持ちを落ち着かせようとマノンから視線を外す。先ほどまでマノンと談笑していた生徒たちが彼女の背後にいることに気づき、ミリーはその顔を一人一人観察する。


 ミリーと目が合いそうになれば、彼女たちは示し合わせたように明後日の方向へと顔を向けていく。

 単純な不快感に襲われる。

 彼女たちは恐らくマノンの友人たち。共通するのは、これまで学園の女王様を怖がっていたこと。

 後ろにいるリアンナをはじめ、彼女たちは変なこだわりを持っているくせに比較的自己主張が弱く、長いものには巻かれるタイプだ。いや、巻かれるというよりも、嫌な思いをしたくなくて陰に隠れ続けるだけ。


 ただ凪を求めて自らの殻に閉じこもり、それだけならまだいいが、そのくせ被害者面ばかりする陰鬱さも併せ持つ。だからこそミリーはあまり好ましく思っていなかった。

 生き生きとした表情を見せた先日の演劇部の連中も例外ではない。彼らにとってみれば自分はただの悪役でしかないのだ。


 今もそう。

 彼女たちに今、何か害を与えたわけでもないのに。彼女たちはまるで自分が極悪人と言わんばかりに空気だけで断罪してくる。

 鬱陶しい。厄介者。早くこの場から去って欲しい。

 そんなこと、口に出さないだけで態度で丸わかりなことを彼女たちは自覚していないのだろう。


 本当に、みっともない。

 ミリーは彼女たちを見た後で、最後に再びマノンを見下ろす。そんな友人たちの輪の中心にいるマノンはこの期に及んでも椅子に座ったまま動く気配すら見せない。大きく構えたまま、口元では余裕の笑みを浮かべてミリーのことを見つめている。

 まさに背後に立つ彼女たちのお頭と言える風格。

 ミリーの表情が自然と苦虫を嚙み潰したように歪んでいく。


「弱者の味方になって、救世主のつもりなの?」


 ぶっきらぼうに放たれた言葉にマノンは首を振る。呆れた。些細な仕草にもしっかりとそんな感情が込められているのが伝わる。


「そんなの、そっちの被害妄想でしょ」


 言いがかりをつけられたと言わんばかりに、マノンはミリーを憐みの眼差しで見やった。


「敵も味方もなにもさ……同じ学園に通う者同士、助け合うのが普通でしょ?」


 マノンは両肘を机について両手を組み、ゆったりとした動きでその両手に顎を乗せる。


「そうそう。誰かさんが言ってたなぁ。それが、"マナー"、だよね?」


 ミリーに同意を求めたのか、マノンは愛嬌に満ちた笑顔で頭を傾けてみせた。

 二人の間にだけ静寂が流れる。マノンを囲う友人たちが壁となり、ほかの生徒たちには二人の会話は聞こえていなかった。それぞれが雑談をする声が、やがて静寂に包まれたミリーの耳に少しずつ音として広がっていく。


「なぁ! 今日の実験は外でやるらしいぜ。皆、さっさと移動しろー」


 音が滲み、ミリーたちの意識が外部と溶け合った、ちょうどその時だった。一人の男子生徒が実験室に集う生徒たちに威勢の声を放つ。


「ロンディーネ。さっき先生にそう伝えられたんだ。ロンディーネも手伝ってくれ」

「分かった。ありがとう」


 実験室にいた生徒たちが各々外へ向かう間を縫い、最初に移動を促した男子生徒がリアンナの元へと歩いてきた。彼はリアンナと同じくこの授業のリーダーを務める生徒らしい。リアンナは彼に言われた通り生徒たちに移動先を伝え、率先して実験室を出ていった。


「外での実験かぁ。うん。それも楽しそう」


 マノンは実験室を出ていく生徒たちを眺めながらそう呟き、一度身体を伸ばしてから真っ直ぐに立ち上がる。


「ミリー、わざわざ来てくれてありがとう。マナーの話、すごく参考になったよ」


 先に動き出した友人たちに続いて実験室を出ていこうとするマノンは、その前にミリーを振り返って楽しそうに声を弾ませた。


「じゃ。ミリーたちも授業に遅れないようにね」


 ばいばい、と友人にするように陽気に手を振り、マノンはミリーの反応を見ることもなく歩き出す。

 最後に実験室を出ていくマノンの背中をミリーは疎ましそうに睨む。機会を逃すことなく余計な一言を挟みこんでくるのは彼女の得意技なのだろうか。

 ミリーはマノンの嫌味に舌打ちを返す。すると、視界の上部で何かがゆらりとうごめいたような気がした。


 気のせいかと見上げると、実験室を煌々と照らしていたシャンデリアの明かり一つに違和感を覚えた。

 明かりを灯す丸いガラス球の形が、魂が抜けたかの如く二重に見える。

 不思議に思い、ミリーはガラス球から離脱していく白い半透明な物体を凝視した。最初は見間違いか、はたまたゴミか何かかと思った。けれど目を凝らせば、"それ"はゴミでも錯覚でもないことが判明する。


「霊獣……?」


 似てるといえば、太ったクラゲの形をしたてるてる坊主。小さくつぶらな瞳が二つ確認できる。

 シャンデリアの丸いガラス球に扮していた手のひらほどの小さなモンスターは、ふわりふわりと宙を泳いでマノンのケープに隠れていく。


「モリー、あれ、見えた?」

「うん。しかと、この目でも捉えたよ」


 自分と同じく実験室に残されたモリーに念のために訊ねれば、モリーは自信を持ってはっきりと答えた。

 鉄壁の精神を持つ頑固な黒髪女をこのまま放置してのさばらせておくわけにはいかない。丹精込めて育てた美しい花畑が一匹の害虫によって滅ぼされるのも一瞬のこと。少数とはいえ着実に味方を増やすマノンを黙って見過ごせばいずれ女王の立場すら危うくなる。

 とはいえ彼女の弱点を掴むことは難しかった。これだという突破口がなく手が焼ける。が、そんな出口の見えない暗闇からもそろそろ解放される兆しが見えてきた。


「せいぜい偽善者ごっこでもしてればいいわ」


 胸の奥底から曇りなき自尊心が湧いてくる気がした。こんなに清々しいのは久しぶりだ。つられて声色まで明るくなる。

 気分がいい。

 ミリーはシャンデリアの丸いガラス球の明かりを見上げ、勝利を確信した笑みを浮かべた。

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