7 爪先の特権



 今日の魔法史のクラスは教師の都合により休講となった。どうも朝食との相性が悪かったらしく、腹痛を起こしてしまったとのことだ。ユーマニックフードを好む彼のこと。きっと身体に悪いものでも蓄積していたのだろう。

 ユーマニックフードの悪影響については調べ尽くしている。ミリーは教師の自業自得だと納得した。普段は生徒に色々とルールを課すというのに。当の教師がこれでは、同情どころか呆れた感想しか出てこない。


 図書室で自習をすることになったミリーは、同じ授業を取っているジュールとイエナとともに机を囲む。

 他の授業で出された宿題を済ましてしまえばちょうどいい。ジュールはそう言ってどちらかと言えば休講を歓迎していたが、ミリーはそうとも思えなかった。

 宿題など、出されたその日のうちにとっくに終えているからだ。


 仕方なく、ミリーは前回の小テストで満点が取れなかった合成術の予習をすることにした。次の抜き打ちテストは絶対に満点を取ってやる。ミリーは静かな意地を燃やして柔らかくなってきた教科書を開く。

 ミリーが隣を見やれば、宣言通り防衛魔法学の宿題に取り組むジュールの真剣な横顔が見えた。黙っていれば本当に非の打ちどころのない完璧な容貌をしている。彼と出会った瞬間から、絶対に他の誰にも渡したくないと思ったものだ。


 実際に付き合ってみると、口を開けば思いのほか自慢話が多いことには辟易したが、慣れてしまえばどうということもない。彼の隣をキープできればそれだけで気分が高揚してくる。自分の魅力をより引き立ててくれるのは、美貌と雄々しさを兼ね備え、学園内でもセクシーキングとして称えられる彼くらいしかいない。


 ミリーが勉強よりもジュールの横顔に夢中になっていることに正面に座るイエナも気づいたようだ。ジュールを見つめるミリーの熱視線を微笑ましそうに見やる。

 イエナの微かな笑い声が耳に届いたのだろう。下を向いていたジュールの視線がミリーに向く。


「どうした? やっぱり合成術は退屈か?」


 周りの生徒の迷惑にならない控えめな声でジュールはクスリと笑う。


「防衛魔法学のほうがよっぽど興味があるもの。先生のことは、少し苦手だけれど」


 ジュールが取り組む宿題を一瞥し、ミリーはふぅ、と頬杖をついて脱力する。


「ふふ。この前も、堂々とネイル魔法を使って注意されたそうね」


 イエナが学園内の噂話を聞き入れたのか、ミリーを気遣うようにこそっと囁く。


「そうなの。杖をしまっていたから、出すのが億劫で。そっちの方が早いもの」


 ミリーは教師に注意された時のことを思い出し、瞼を落としてつまらなそうな声を出す。


「ミリーは杖を使わずとも、ネイルでも十分に魔法を使いこなせるものね」

「ええ。生徒にだけネイル魔法を禁止するなんて、それこそ横暴な規則でしょう」


 制服の杖携行用ポケットから僅かに顔を出す自分の杖に視線を落とし、ミリーは「窮屈ね」と続けて呟く。


「ネイル魔法はある程度の能力がないと魔法を暴発させたり、失敗することが多いからな。問題が起きないように学園側は予防策を張ってるってわけだ」


 ジュールは形のいい唇を斜め上に持ち上げて意地悪に笑う。


「まぁ俺としては、皆が杖を使ってくれるのは嬉しいことだけど」


 ミリーが恨めしそうな瞳をジュールに向けたので、彼は降参、とばかりに両手を上げて爽やかに笑ってみせる。


「ジュールの家は杖製作の始祖だものね。杖の素材となるユニエラの人工栽培に成功させたのだから。天然のユニエラが絶滅してからは、ヴィヴァル家の作る杖がないと多くの人は魔法を使いこなせなかったと思うわ。本当、皆の恩人ね」


 イエナはジュールの気持ちを察し、あまり彼を責めないようにとミリーに微笑みかけた。

 魔法を使うために人間が持つ能力を介す手段は主に二つある。一つが古来から言い伝えられてきた杖を使うことだ。

 杖は透明感のある幹が特徴的なユニエラという木からしか作ることができない。


 大量伐採によって天然のユニエラが採れなくなってからは、ヴィヴァル家をはじめとした一部の人間が利権を持つ人工栽培されたユニエラのみで杖の生産が続けられている。

 ユニエラは普通の樹木とは違い、同じ種でも様々な色の幹となって成長するため、人々が手にする杖も自然と個性的なものになっていく。


 ミリーが選んだのは、燃え盛る火のごとく鮮やかな赤とオレンジが混ざった杖だ。十人十色とはいえ、ここまで明るい色をした杖も珍しい。だからこそミリーもこの色を選んだ。誰かとお揃いになるような杖は面白みに欠ける。気に入って選んだのだから、杖を使うことが嫌いというわけでもない。


 が、やはり、ユニエラの樹液を混ぜ込んだジェルに杖と同じ働きをさせる技術を編み出した組織の功績の方がミリーにしてみれば興味深かった。

 魔法を使う手段のもう一つがそのジェルを活用したネイル魔法となる。


 木そのものを使う杖とは違い含まれるユニエラの成分が少ないため、ネイルで魔法を使いこなすためにはある程度能力が安定していないと難しい。日常の些細な魔法を除けば、多くの人が杖を主流に使っているのが現状だ。

 しかしその大きな壁が逆にミリーの野心を焚きつける。

 学園内で禁止とされているネイル魔法をミリーが頻繁に使うのも、自分の能力の高さを見せつけるのにうってつけだからだ。


 授業以外で教師に見つからないように簡単な魔法にネイルを使う生徒は多い。けれど中級以上の魔法をネイルで使いこなせるのは自分くらいなもの。

 教師に苦言を呈されることすら、立場が違えば優越感に変わる。


 一方で、恋人であるジュールは杖製作の名家ヴィヴァルの子息ということに誇りを持っているのか、ネイルすらつけていない。ミリーはそのことを少し配慮し、甘えた声でジュールの肩にしなだれかかる。


「ヴィヴァル家は立派だと思う。でも、それとこれとは話が別なの。ジュール、私は、あなたがヴィヴァル家であることに惹かれたというわけでもないのだから。ジュールが何者でも、私はあなたのことが好きなの」

「あら。惚気でも始まるのかしら」


 イエナは手元のノートで口元を隠し、ふふふ、と恥ずかしそうに笑う。

 ミリーが両手に施したネイルの艶々とした光沢を眺めていると、その指先をジュールの滑らかな手が包み込む。


「規則なんか関係ない、奔放なところも好きだよ」


 顔を上げると、ジュールが額にキスしてきた。甘く上品な中に滴るスパイシーな香り。間近に迫った彼の瞳に自分の顔が映れば、ミリーの表情が無意識のうちに綻んでいく。

 セクシーキングという短絡的な異名をつけられるのも無理はない。

 ミリーは幸福そうな笑みを浮かべ、手を伸ばして彼の髪にそっと触れた。


「ふふふ。本当、お似合いね」


 二人を前に、イエナは赤くなった頬を手で扇いで熱を冷まそうと試みる。が、もはや二人には周りの視線など見えていないらしい。

 イエナが困ったようにはにかむ傍で二人が互いに微笑み合った直後、授業の終わりを告げる鐘が鳴る。

 そこでようやく二人は夢の世界から帰ってきた。

 教室を移動する生徒たちが蠢きだす。廊下の喧騒が大きくなるにつれ、イエナに倣って二人も次の授業の支度にとりかかる。


「……なんか、随分と騒がしいな?」


 学園内でも比較的静寂を保っている図書室から出たせいだろうか。ジュールは妙に騒がしく聞こえる生徒たちの声に眉を顰める。


「なにかあったのかしら?」


 イエナも同じ感想を抱いたようで、首を傾げて廊下を行き交う生徒たちの表情を窺う。

 ミリーも不思議に思い、きょろきょろと辺りを見回して手掛かりを掴もうとした。途中、三人組の女子生徒の一人と目が合った。ミリーと目が合った彼女は、ハッと目を丸くしてからひそひそと仲間内での内緒話を始めた。


「……変ね」


 確かに妙だ。

 自分たちが図書室で自習をしている間も、特に大きな騒動はなかったように思えたのに。

 疑問に思いながらも廊下を進んでいくと、前方に見慣れた顔がいくつか見えてきた。ミリーたちが自習をしている時間に同じ授業を受けていたヴァレンティナとレジーの二人だ。二人の隣にモリーと、カッパーの髪色をした男子生徒の姿も見える。

 モリーと一緒にいたその男子生徒はミリーたちが近づいてくる姿に気づき、モリーに手を振ってから違う方向へと消えてしまった。


「ねぇ」


 モリーが友人と別れたことなど気にもせず、ミリーはヴァレンティナたちに声をかける。三人はミリーの声にびくりと肩を跳ね上げてからそわそわとしたよそよそしい笑みを向けてきた。


「や、やぁミリー。自習はどうだった? いーよなぁ。俺も自習したかったよ」

「レジーは自習の時間も寝るだけでしょ。それより、何かあったの? 三人とも、なんかやけに落ち着きがないし」


 ミリーはレジーの取り繕った奇妙な笑みを神妙な面持ちで見やる。


「えっと……別に、なんもないよなぁ?」

「嘘。ヴァレンティナ、何があったの?」


 レジーでは話にならないと判断したのか、ミリーはすぐさまヴァレンティナの方を向く。彼女は明らかに困った顔をして「ん?」と頭を傾けて不器用にもはぐらかそうとしてくる。そこで。


「モリー?」


 ミリーは最後の一人であるモリーを鋭い瞳で捉え、絶対に逃さないように微笑みかけた。


「ええ、ええっと……」


 すぐには答えられなかった。が、前の二人とは違い、モリーはコホン、と咳払いをしてから自分の呼吸を落ち着かせる。どうやら話してくれるらしい。


「……い、今、飛行学の授業を受けてたんです。今日は、新しい飛行法を考えようってことで、みんなで色々と試行錯誤して、挑戦してたんですけど……」


 やけに丁寧なモリーの口調から、ミリーは自分にとって面白くないことが起きたのだと察した。慎重に彼女の話の続きに耳を傾ける。ミリーの背後ではジュールとイエナが横目で目を見合わせて様子を窺っていた。


「マノン、も同じ授業を受けてるんです。で──」


 マノン。

 その名前だけでミリーは嫌な予感がしてきた。

 モリーたちがやけに気まずそうにしているのも恐らく彼女が絡んでいるせいだ。ベンチで鉢合わせて以来、二人の間に流れる空気が一貫して不気味だからだろう。


「マノンは、紙を折って作った鶴を飛ばして、それに乗ろうとしたんです」

「へぇ。陳腐ね」


 ミリーの本音が飛び出ても、モリーはめげずに話を続ける。


「鶴を飛ばすために、まずは小さかった鶴を大きくしてから、そのまま見事──コホン、つつがなく、鶴を飛ばしてみせたんです」


 マノンを褒めてしまいそうになったモリーは、一度言葉を言い淀ませてからもう一度咳払いをした。


「問題は、その方法。マノンは杖を使わないで、ネイル魔法で鶴を飛ばして、自分も乗りこなしたんです」

「……は?」


 数秒の間があった。

 モリーの報告を聞いたミリーは、何か聞き間違いではないかとヴァレンティナとレジーを無言で見つめる。が、二人ともモリーの言うことは正しいと、黙ってこくりと頷くだけだった。


「どういうこと?」


 じわじわと血が頭に上っていくのが分かった。図書室でジュールと見つめ合った幸福な時が遥か昔のことのように感じる。

 ミリーは不快感で顔を歪め、脳裏に浮かんだマノンの笑顔を睨みつけた。

 ネイル魔法を学園内で堂々と使うのは自分だけの特権だった。

 これがもし、些細なことならどうでもよかった。

 けれど話を聞く限り、マノンは教師も見ている授業の場で堂々とネイル魔法を見せつけたのだ。加えて言えば、飛行術は中級以上の魔法領域に値する。


 これまでにももしかしたらネイル魔法でミリーと同じくらいの魔法が使いこなせる生徒だっていたかもしれない。しかし女王様に目をつけられてはいけないと、多くの生徒たちは目立つことをしないように心掛けてきた。


 その暗黙の了解をあの新参者の転校生は臆することなく破ったのだ。

 学園の規則などこの際どうでもいい。

 記憶の中でマノンが再び満面の笑みを向けてくる。


「ミリー⁉」


 我慢の限界に達したミリーは、仲間たちに何も言わずにくるりと身を翻して真っ直ぐに歩き出す。

 慌てたモリーが彼女を追いかけると、ジュールたちも顔を見合わせながら後に続く。

 走っているわけではない。が、ミリーの歩幅は通常よりも大きく、またその足運びも速かった。進むにつれ速くなっていく彼女の速度にどうにか追いつこうとモリーは懸命に脚を動かす。


「アストリッド‼」


 ぜえぜえと息を吐くモリーを背に、ミリーは雷鳴にも勝る声量で一人の生徒の名前を呼ぶ。

 ミリーが訪ねたのは監督生たちが集う談話室だった。開かれた場所にしよう、の名のもとに開かれたままの扉を越え、ミリーは火のついていない暖炉の前に座るアストリッドにつかつかと詰め寄っていく。


「ミリー? どうしたの……? なんか、こわ──」


 驚いたアストリッドが立ち上がったのも束の間、すぐにミリーに距離を詰められ彼女は壁に背をついてしまう。

 逃げ場を失くしたアストリッド。他の監督生たちも何事かとミリーの行動に目を見張っていた。


「あの子。あのマノンって転校生。あの子にちゃんとこの学園のこと教育したの?」

「え……? マノン? うん。いつも通り、教えられることは全部伝えたよ」

「全部って、本当に全部? 躾に隙はないの?」

「ない、と思う。うん。ない。ないない」


 ミリーの剣幕に圧倒されつつも、アストリッドは自分の行いを振り返って自信を持って答える。


「アストリッドが新顔に意地悪するわけないって。な?」


 ミリーに追いつき、話の行方を見守っていたレジーがアストリッドを庇うように念を押す。アストリッドも彼の言葉に力強く何度も頷いた。


「確かに。アストリッドが手を抜くはずないものね」


 アストリッドから離れ、ミリーは自分にそう言い聞かせる。彼女の目を見れば嘘をついていないことは明白だ。確かに彼女は誠実だ。

 そう思うと同時に胸の中で渦巻いていた疑念が確信に変わる。


「問題はぜんぶ、あのマノンにある」


 静かな語調が、まるで嵐の前触れのようだった。

 憩いのベンチを先取りして待ち構える挑発的な態度。

 日陰の隅で活動していた演劇部に野心を与え、学園の風紀を乱した。

 おまけに、学園内では自分だけの特権であるネイル魔法にまで手を出すなんて。

 いつも余裕に満ちていたミリーの表情が次第に引きつっていく。


「明らかに、喧嘩を売られているわ」

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