6 女王の居ぬ間に


 マノンがミリーのベンチで読書をしたのは、結局二人が顔を合わせたあの日だけだった。それから噴水の前でマノンの姿を見た者はいない。

 ミリーの警告が効いたのか。

 マノンがベンチを去ってから二日後まではミリーをはじめ、誰もがそう思っていた。が、三日後には、そんな単純な方程式は通用しないことが発覚する。

 ランチを終え、授業に向かうためにミリーが校舎に一歩足を踏み入れた時のことだ。


「あーぶないっ‼」


 一人の男子生徒の叫び声が聞こえ、頭上に何か気配を感じたミリーが顔を上げた瞬間──


「きゃあああっ!」


 ミリーの右隣にいたヴァレンティナが甲高い声を更に裏返させて絶叫した。

 窓ガラスが割れそうなほどの鋭利な声に耳を塞ぐ余裕もなかった。ミリーとヴァレンティナの顔面を狙ったようにして、真っ赤な氷の粒が容赦なく天井から降り注いできたからだ。


「ミリー!」


 背後からジュールに身体を引かれ、ミリーは辛うじて災難から免れた。ミリーは制服のケープがほんの僅かに濡れるだけで済んだが、隣にいたヴァレンティナはまともに氷の滝を浴びて髪の毛からびっしょり濡れてしまっている。

 ぶるぶる震える彼女に、レジーが慌てて自分の制服の上着を被せた。


「なに……?」


 床に落ちてしまえば、空中では氷の粒だった細かな赤い塊たちはキラキラと美しく弾けて消えていく。


「演出魔法の一つだ。舞台とかで使われる、滝に見せかけた変異術だろう」


 茫然とするミリーの肩を撫で、ジュールが冷静に今起きた出来事を分析する。


「それは分かる。でも、なんでそれが今、ここで? しかも赤い滝。趣味が悪すぎる」


 ミリーはジュールの見解に食い気味に割り込む。ヴァレンティナを見やれば、可哀想なことに寒くて顔が真っ青になっている。おまけに化粧まで落ち、氷の色が赤だったこともあり、まるで大惨事に巻き込まれたかのような風貌だ。


「ごめんなさいっ! ちょっと失敗して、出す場所を間違えてしまいましてっ……!」


 ミリーの前に勢いよく滑り込んできたのは最初に叫び声を上げた男子生徒だった。こちらも顔を真っ青にして、開いた口が塞がらないほどに慌てている。


「君、確か演劇部の……」

「はいっ! そうですっ。ヴィヴァルさんっ!」


 過剰にはきはきした口調で答える男子生徒はジュールを見て目を泳がせた。彼と話すことに緊張しているのは明らかだ。


「ここで新入生勧誘のための劇をしてましてっ、新しい演出に挑戦していたんですけど……ごめんなさい! 僕はまだ先輩みたいにうまく使いこなせていないみたいで……」


 ランチの時間ずっと外にいたミリーたちは気づかなかったが、どうやら校舎の中では各部による新入生勧誘のための熾烈なバトルが繰り広げられていたらしい。

 彼が所属する演劇部は、中でも人通りが多く目につきやすい本館入り口のホールで劇を披露していたらしい。彼の後ろに見える素っ頓狂な格好をした数人の演劇部員を一瞥し、ミリーは状況を理解する。恐らくあれは魔法史の偉人たちの格好だ。


「……新しい演出って?」


 陳腐な寸劇などどうでもいい。ミリーが気になるのは、授業でもパッとしない彼らには見合わない高度な演出魔法を、何故、敢えて使おうという決断に至ったのかということだ。しかも、当たり前のように使いこなせずに自分たちに害が及びかけたのだから、あまり面白い展開とは言えない。


「先輩って、誰のこと? こんな魔法を使える生徒なんて、限られているでしょう?」


 最終学年にまでコマを進めた今、ある程度の学園内での能力ランクは把握している。演出魔法は実生活にはあまり役に立たず、学ぼうとする人間がそもそも少ない。にもかかわらず、ある程度の能力がないとうまく使いこなせない厄介な術種だ。

 彼ら演劇部だって、これまで冒険した演出などには手を出してこなかったのに。まず前提として、新入生勧誘にしても彼らがここまで派手な行動をしてきた印象などない。ひっそりと、仲間同士で楽しく活動をしていたはずだ。


 何かがおかしい。

 ミリーが腑に落ちない顔をして眉根を寄せると、演劇部員たちの向こう側から、ローファーのヒールが床を軽やかに鳴らす音がコツコツと近づいてくる。


「ごめんなさい。まさか、ちょうどいいタイミングで人が入ってくるとは思わなくて。わたしの監督不足だよ。まだ、ちょーっとだけ術を任せるのは早かったのかも」


 現れたのはマノンだった。ほんの少しだけ、誤差の範囲で下がる眉尻は気持ちばかりの申し訳なさを表現しているように見えなくもない。

 彼女の顔を脳が認識した途端、ミリーの全身にピリッとした緊張が走る。

 彼女とまともに顔を合わせるのは数日前にベンチで会った時以来だ。


「マノン? どうしてあなたが演劇部の演出を?」


 彼女の発言から、普段は大人しいはずの演劇部が斜め上の行動に出たのは彼女に一因があると読んだミリーは探るような語調で訊ねる。


「飛行学で同じクラスの友だちが演劇部に所属していてね、演出に満足できてないって言うから協力したくて。昨日まではわたしが演出魔法を担当していたのだけど、彼らも練習してきたし、今日は大丈夫かもって思って。途中までは調子よかったんだけどね。惜しかった」


 マノンはミリーに事情を説明しながらも、演劇部の男子生徒の肩を叩いて「もう少しだったね」と悔しそうに笑いかける。

 男子生徒は照れた様子で頭を掻く。僅かに流れた柔らかな空気に違和感を覚えたミリーはすかさず口を挟む。


「余計なことしなくていいの。まず、こんな場所でそんな大掛かりな魔法を使うなんて迷惑でしょ。実際、失敗してるんだし。っていうか、マノン、演劇部に入ったの?」


「演劇部には入ってない。ただ力になりたかっただけ。普段は目立つ場所で劇をすると、一部の人にヤジを飛ばされたりしてやりにくいって言ってたから。でも、そんなことじゃいつまでも演劇部の凄さを分かってもらえないなぁって思って。先生に許可を貰って思い切ってここを舞台にしたの。もう今日で三日目だよ。毎日好評で、新入部員も増えてるんだって。知らなかったの?」


 マノンは目をぱちぱちと開閉し、逆にミリーに訊ねてきた。ミリーはすぐには言葉が出ず、唇を結ぶ。演劇部など、いつも学園の隅っこで活動している印象しかない。ヤジに関しても、恐らくジュールの快活な友人たちのことを指しているのだろう。何度かそんな場面を見かけたような気がする。

 ミリーが何も言わないので、マノンは頬を緩ませて愛嬌たっぷりの笑顔を浮かべた。


「じゃあ、ミリーも知ったことだし、もういいよね? 新入生勧誘期間は限られてるの。来週いっぱいまでここで劇をするから、ミリーたちも一度くらい見に来てね。面白いから」


 そう言い、マノンは手に持っていた杖をヴァレンティナに向けて振る。彼女の杖は漆黒に星を散らばせた夜空を彷彿させるものだった。

 ヴァレンティナの唇は紫になっていて、あまり二人の話を聞いている余裕もなさそうな表情だ。しかし、マノンがひとたび杖を振れば、真っ赤な液体に覆われていたヴァレンティナの顔や髪がみるみるうちに乾いていき、濡れていたはずの制服もあっという間に水気を弾いていった。


「迷惑をかけたこと自体は謝るね。来週は、やっぱり演出魔法はわたしが担当するから」


 ヴァレンティナの顔色が健康的になっていくのを確認し、ほっと安堵の息を吐いたマノンは最後に彼女に向かってぺこりと頭を下げた。ヴァレンティナは乾いた頬を両手で包み込み、レジーと目を合わせてぽかんと口を開けている。何が起きたのかまだちゃんとは飲み込めていないようだ。


「じゃ。今日は撤収しよ」


 演劇部員たちに声をかけ、マノンは踵を返して軽やかに身体を回転させた。

 ミリーとマノンの会話を食い入るように見ていた演劇部員たちは、ハッと生気を取り戻したようにてきぱきと動き出した。


「俺たちも行こうか」


 ジュールが視線でミリーを促す。返事こそしたものの、ミリーの足の動きは鈍かった。

 演劇部員たちがマノンを取り囲み、賑やかに話している光景からなかなか目が離せなかったのだ。彼らのこともミリーは知っている。自分に声をかけてくる生徒はあの中には一人もおらず、たまに目が合っても申し訳なさそうに肩をすくめてそそくさと逃げていくばかり。


 これまで彼らは、女王様に目をつけられるかもしれない大胆なことをしようなど思いもしなかっただろう。けれど今回、彼らは果敢に新入生勧誘に挑んだだけではなく、女王様と真正面から対決する事態にまで発展しかねなかった。

 それでも平気な顔をして、今も何事もなかったかのように楽しそうに撤収作業に取り掛かっている。


 もし、マノンがいなければ。

 ミリーの視線が自然と彼女に向いた刹那、マノンの黒目が滑らかに動く。

 目が合ったのは、ほんの一秒。

 しかし、マノンはその些細な隙すら惜しむことなく、悠然とした笑みを送ってくるのだ。

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