第29話 私は、必要ありませんか?
もう片方の耳も丹念に手入れされた後、思う存分撫でまわされて乃蒼が満足する頃にはお昼を過ぎていた。
やっとのことで乃蒼の膝と手から解放された俺は、キッチンから響く調理の音を聞き流しつつ息をつく。
散々な目に……などと振り返るのは流石に失礼か。
受け入れたのは俺で、少なからず心地よかったのは認めるし、撫でまわされるのも嫌ではないのだから。
「灯里さん、運ぶのを手伝ってくれませんか?」
「今行く」
乃蒼から呼ばれて行ってみれば、今日の昼食はオムライスらしい。
半熟とろとろの玉子で覆われた半球状のそれが、燦然と皿の上で輝いている。
「ご主人様へ、とかケチャップで書いてみます?」
「メイド喫茶かよ」
「今日はご主人様のメイドさんですので」
さいですか。
美味しいオムライスを完食し、片付けも済ませたらまたしても穏やかな時間が続く。
ちなみに乃蒼はメイド服のまま過ごしていた。
帰るまで着替えないつもりなのだろう。
部屋にメイド服姿の乃蒼がいるのは慣れないけど、本人が望んでいるなら仕方ない。
午前中にあんなことをしたせいか、取り立てて別なことをする気にもなれず、二人で並んで映画鑑賞と洒落こんでいた。
観ていたのはちょっと昔のアクション映画。
銃撃戦、格闘戦、カーチェイスの末に大爆発、なんてお約束も揃えた一本。
乃蒼はアクション映画が結構好きらしい。
曰く「青春だとか恋愛は苦手意識が抜けなくて」とのこと。
華の女子高生がそれでいいのかと思うものの、趣味嗜好は自由。
なので、乃蒼と観る映画は必然的にこういうのが多くなる――のだが。
「……午前中に灯里さん
「俺は玩具じゃないんだぞ」
「わかっていますよ。むしろ、玩具扱いされるべきは私です」
「反応に困る言い方やめてくれ」
「吸血鬼の身体は頑丈ですから、灯里さんが多少乱暴に扱ったところで壊れたりはしません。……別の意味で壊れる可能性は、無きにしも非ずですが」
さわり。
俺の手に、乃蒼の手が重なる。
細く冷たい指先が手の甲を這い、骨をなぞり、円を描く。
横目で盗み見れば、僅かに熱を帯びた青い瞳が二つ。
信頼と思慕、そこに一滴ほどの情欲を垂らし、かき混ぜたみたいな雰囲気。
「……乱暴に扱うわけないだろ」
「そうですよね。そういう人です、灯里さんは」
乃蒼がガラス細工みたいな透明感に反して、頑丈なのは理解しているつもりだ。
でも、こんなに尽くしてくれる乃蒼を粗雑に扱うなど、出来るはずがない。
「お昼を食べたからか、少しだけ眠くなってしまいました」
「昼寝はいいけど部屋に戻ったらどうだ?」
「灯里さんの部屋がいいです。もっと言えば、灯里さんのお膝が」
強請るような上目遣い。
こてん、と傾げられる小首。
銀糸の如き髪が、緩やかに流れて。
「……寝心地は保証しないぞ」
「絶対いいので大丈夫です」
その自信はどこから来るのか。
ともあれ、寝にくいだろうと再びベッドへ場所を移す。
奇しくも午前と逆転した立場。
やけに緊張するな、と思いつつも膝を整え、乃蒼の頭を迎え入れる。
長い髪が無造作に広がらないよう抑えつつ、ゆっくり倒れてくる乃蒼。
数秒の時間をかけて頭が膝に乗ると、ちょうどいい位置を探ってもぞりと身じろぐ。
足首まであるロングスカートがほんの少しめくれ上がった。
制服のスカートはもっと短く、いつも脚が見えているはずなのに、ちらりと覗く肌色が妙に目に留まる。
「なにやら視線を感じます」
「……すまん」
「謝らないでください。灯里さんには私の全部を貪る権利があるんです。それにほら、今はご主人様ですし。見たいものがあるなら命令してみては?」
誘うように笑んで、スカートの裾を摘まむ。
「とんでもない命令したらどうするつもりだよ」
「具体的に言ってくれないとわかりませんね」
油断しきった雰囲気。
俺が手を出すなんて微塵も考えていない柔らかな眼差しに、少しだけむっとする。
「試してみるか?」
平静を装いつつ、慣れないセリフを口にしてみる。
今後のためにちょっと釘を刺すだけ。
そんな俺の思惑を呼んだのか、乃蒼は表情を崩さない。
「どうぞ、試してみてください」
両目を瞑る。
口角が僅かに上がってるのは余裕の表れか。
手元に転がった極上の果実。
どう食すも俺の自由。
……本当に、危機感が、足りてない。
こんな無防備な姿をさらさないで欲しい。
俺だって欲はあるし、こんなにも魅力的な異性と身近に過ごして好意を持たないほど鈍感でもない。
理性と欲の釣り合いが取れているだけ。
だから、乱されれば簡単に魔が差してもおかしくないと思っている。
たとえ全てを受け入れられるとしても、俺と乃蒼はそんな関係ではない。
額を覆う前髪を指先で分けた。
さらさらな銀色のカーテンを除けば、すべやかな色白の額が広がっている。
その額を狙い、親指で中指を抑え、
「てい」
「――っ!?」
対して力を込めていないデコピンが命中し、ぺちと情けない音が響く。
乃蒼もまさかデコピンをされるとは思わなかったのだろう。
肩を跳ね上げさせながら、不服そうに瞼を上げた。
「……普通、キスくらいする場面では?」
「そんなことできるか」
「唇と唇を合わせるだけがキスではありません。チークキスも立派なキスですし」
「だとしても無理だ」
挨拶同然のキスでもキスであることは変わらない。
そもそも外国の文化だからな。
「念のため伺いますけど、キスで子供が出来ないのはご存じですよね?」
「そりゃあ、知ってるけど」
「では、単に灯里さんが初心なだけ……と」
初心とかそういう問題か?
というか明るい時間から際どい話題を出すんじゃない。
「私にとっては嬉しい情報ですので、お気になさらず」
……やっぱり今日は乃蒼に勝てそうにない。
「時に、灯里さん。一つ尋ねたいことがありまして」
「……なんだ?」
「――昔、私が初めて血を吸った男の子は、灯里さんだったんですね」
当たり前のような流れで投げかけられた確認に、冷や水を浴びた気分になる。
乃蒼も学園長に聞いてみると話したきり音沙汰がなかったから安心していたが、ちゃんと知っていたのか。
だったら隠す必要も、意味もない。
「そうだな。親父曰く、幼馴染みたいな関係だったらしい」
だから肯定を示せば、膝の上で乃蒼が俺を真っすぐ見つめていて。
「――
長年の疑問が氷塊したように、しみじみと呟いた。
それが意味するのは、ただ一つ。
「……鎌をかけたな」
「すみません。ですが、こうでもしなければ聞き出せそうにないと思ったので」
「学園長に聞かなかったのか?」
「本当に初めて吸血した相手が灯里さんであれば真実を隠す可能性の方が高いと思っていたので聞いていません。それは灯里さんも同じです」
どうやら考えを読まれているらしい。
察しが良すぎるのも考えものだ。
乃蒼が膝からゆっくりと身体を起こし、隣に座り直す。
そして身体を向け直すなり、深々と腰を折った。
「――ごめんなさい、灯里さん。私があの日のことで覚えているのは、とある少年の肩に噛みついて血を吸ったことだけ。顔も名前も、憶えていません。私に出来るのは頭を下げて、あなたの望むままに私を捧げることだけです」
震えた声。
髪が覆う表情は見透かせない。
しかし、膝の上で硬く握られた両手が、乃蒼の気持ちを代弁していた。
けれども。
その謝罪で俺の何かが変わることは、ない。
「……俺は怒ったり、乃蒼に責任を感じて欲しいとも思ってない」
「…………」
「昔の記憶は俺の方がないから、そのことで乃蒼に嫌悪感も抱いてない。だから、俺は高校生の早夜月乃蒼と過ごした時間を優先したい」
「……だとしても、灯里さんには酷いことをしています」
「それはもう済んだことだ。対価も貰ってる」
乃蒼に血を吸われる代わりに、色んな事を世話される日々。
内容を考えたら俺が貰い過ぎの契約である。
しかも、その気があるなら乃蒼の全てを思いのままに出来てしまう。
流石にそれはしないけど、俺はこの生活で満ち足りていた。
「これ以上、俺は何を望んだらいい?」
「……それ、は」
押し黙ってしまう乃蒼。
陽射しで透ける銀髪の向こう。
空にも似た青い瞳が逡巡に揺れていて。
「――私は、必要ありませんか?」
潤んだ声が、こだました。
―――
実は十四話目くらいからその日のうちに話を考えて書いているので終着点がまだわからない。
でもそろそろ一区切りだからね。
なんかいい感じになるといいね。
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