少女と春風

田中草履

少女と春風

川沿いの遊歩道は前方にずっと長く続いている。明け方の空は藍色に少しばかり桃色を足した様子で、絵筆でさっと撫でたような雲が輪郭をぼやかして浮かんでいる。かすかに聞こえる水音に気を取られながら歩いていくと、大きな桜の木の下に二人がけのベンチがある。白っぽい花がグレーの影にぼんやり浮かんでいて、そこだけ薄く明るい。少女はしばらく桜を眺めて、それからベンチの端に浅く腰掛けた。ぼうっと川に掛かる橋を眺めていたら、隣に春風が座った。春風は帽子を軽く持ち上げて挨拶をしてきたので、少女も掠れた声で応えた。何かを話さなければならないと思って、

「あの、何をなさっているんですか」

と聞いた。膝に置いていた拳をぐっと握った。

「特に何もありゃしませんよ。お散歩です」

あ、へえ、とだけ咄嗟につぶやいて、あとが続かなかった。

春風は黙り込んだ少女を訝しむわけでもなく尋ねる。

「あなたもお散歩ですか」

「あ、はい、そうです」

上擦った声が飛び出た。春風は少女のじっとりと汗ばんだ手のひらに乾いた風を送って、にっこり微笑んで言った。

「私はあてもなく歩くのが好きでね。特にこの季節は美しいお花がたくさん咲いているもんですから、ついつい香りを纏いたくなるんですよ」

途端に少女の周りを優しい匂いが包み込んだ。これはばら、これはたんぽぽ、これは菜の花、これはつつじ………。

「この間見に行ったネモフィラのお花畑でも良い匂いがしましたよ。さあ、どうです?」

柔らかな水色のそよ風が少女の顔の周りを二周してから流れていった。春風は檸檬色の背広を脱ぐと、少女の肩にふわりとかけた。

「こうしておけば、あなたに染みついた桜の香りも纏うことができます」

そう言って、ぱちりとウインクした。お茶目な表情に、少女はほっとしてくすくすと笑った。

「とっても良い匂いですね。私も春はお花が綺麗で好きです」

「そうですよね。ええ、ええ、そうですとも」

「明け方の空もこんなに綺麗だったなんて、知りませんでした」

「綺麗でしょう、綺麗でしょう。御覧なさい、あんなに影の薄い月がこちらを見ていますよ」

「本当だ。綺麗ですね」

「そうでしょう。そうですとも」

春風が話すと、足元に短く生えた若草が口から滑り降りたかすかな風にさらららと音を立てた。春風は少女の前髪の一束を撫でた。少女と春風はしばらくの間月を眺めて、夜明け前の肌寒さが月を美しく見せるのだと熱心に話し合った。少女は春風が月の色について語るのを目を輝かせて聞いていたし、月の繊細な丸みの魅力を話しながら舌が少し乾くのを感じた。春風は少女と話す間にころころと表情を変え、心地の良い黄緑色の風を漂わせては少女の髪をはためかせた。時折春風の起こした乳白色の風が頭上の桜の枝を揺らして、花びらがちらほら舞い降りてきて愉快だった。木の枝がしゃらしゃらと鳴るのに耳を傾けていた。

「今日はどこまで散歩に行かれるおつもりで?」

「ああ、今日は、………」

少女が言葉を詰まらせていると、春風はごく小さな風の塊をリズムよく少女に当てながら黙ってこちらを見ていた。

「あっ、今日は、遠くまで、行こうと思って」

口に出してみれば案外簡単なことだと感じた。ただ、遠くまで歩けばよかった。川沿いの遊歩道を何処まででも歩いていけばよかった。春風は目を細めて言った。

「そうですか。そうですね。隣町ならついて行きますよ」


少女と春風はベンチを後にして、川沿いをゆっくり歩き始めた。春風の革靴はコンクリートに当たって機嫌よく音を立てた。少女は空が赤みを帯びていくのを眺めた。彼らは太陽に向かって少しずつ歩いた。その間、少女は春風に話しかけなかったし、春風も少女と言葉を交わそうとする素振りは見せなかった。ただ、彼らの呼吸と風の音だけが少女を取り巻いていた。春風のかすかな花の香と首筋を撫でるそよ風が、沈黙のとげを優しく落としていった。時々春風の方を向くと、決まって春風は少女と目を合わせて薄紫色の風で前髪を跳ね上げた。


随分長く歩いたようだった。茜色をべったり塗りたくった空は夜明けの合図を今か今かと待っている。川面はなおも薄暗く揺れている。少女の頭の片隅に母の腕のようなあたたかな思い出が蘇る。

朝日がさっと彼女の顔にさした。瞳は七色の光を混ぜ合わせてできた綺麗な色をしていた。春風は彼女の睫毛を震わした後、耳の横を柔らかく撫でつけていった。

川の流れる音が響く。小鳥が鋭く鳴いて羽ばたいていった。彼女はしばらく立ち止まっていたが、そのうち歩き出すだろう。春風はじきに夏草の匂いをつれてくる。春が終わる。

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少女と春風 田中草履 @naninunenoR43

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