第21話 送る人
ピーターが泣いたあの夜のことは、今でもちょっとよく思い出せない。あまりにもショックで涙すら出ず、彼も言えることと言えないことがあるのだろう。言葉は少なく、ただ函館で自分から引継ぎを受けてくれと繰り返すばかりだった。彼の声はどこか遠くで響いているように聞こえた。
「俺があなたの言うことを聞かなかったことがありますか?」
あまりにも念押しをするように何度もいうのでたまりかねてそう言うと、
「お前はあの時、私の言うことを聞かなかった」
それを言われて俺は返す言葉がなかった。
***
久しぶりに降り立った函館空港は季節など関係ないかのように観光客でにぎわっていた。ピーターは仕事で迎えに来られないので、バスで市街へ向かう。
外は雪で真っ白だ。あんなにカラカラに乾燥していたところから来ると、何だかホッとする。バスに揺られながら端末に目をやる。案の定仕事が1件も入っていない。
ピーターに言われた通りアガタにイザヤを託したが大丈夫だろうか。イザヤはきちんとしているから、きっとアガタを怒らせるようなことはないだろう。
アガタは小言が多い。あの人は昔から厳しくていつも俺が何かしでかさないか目を光らせていた。仕事はきっちり、非番の時だって背筋がピンと伸びていて、俺がするようにソファに横になったり、寝転んで漫画を読んだりしているのを見たことがない。きちんとすることに情熱を注いでいるんだろう。
アガタは多くを語らないが、彼女は俺の中に誰かを見ている。さみしそうな顔をしたり、ひどく優しい顔をしたりする。それを本来受け取るべき人間が自分ではないことは何となく昔から分かっているが、それでもしんどい時は、わからないフリをしてアガタに抱きしめてもらうのが常だった。アガタは昔からそんな俺を軽々と抱き上げると何も言わないでただ、低い声で何か口ずさみながら背中をぽんぽんとしてくれた。俺は母を知らないが、きっと母はこういうものなのだろうと思っている。
結局、アガタが俺たちに目を光らせていたというのは、つねに俺たちに問題がふりかかっていないか目を光らせていたのであって、常に俺達に向けられていた彼女の関心事は、俺たちが心地よく健やかに過ごしているかだったのだ。そう気づいたのは最近のこと。イザヤと仕事を始めて転生の道を進む人だけではなく、その傍らにいる『送る人』を観察するようになったからかもしれない。
アガタのような存在が母でないなら何なんだ。俺の知りうる限り該当するのは天使ぐらいだ。
は?俺は今何と言った?
***
既に夕暮れだった。市電に乗り換え教会の近くの家に着くと、ピーターはまだ帰っていないようだった。そういえばこの間、女がいたっけと思い出し、何となく洗面台の様子を見たが、ピーターの歯ブラシや髭剃りがある以外は、特段他人の気配はなかった。別に住み着いているようではなくてちょっとホッとした。まるで単身赴任の夫の浮気チェックだなと苦笑した。
2階に上がり、空いている一室に荷物をおくと、ひとしきり部屋を見て回った。特に変化はなかったので、安心するとピーターの部屋に入った。
部屋の荷物は少ないが、よく知っているオードトワレの匂いがした。ピーターが函館に異動になった際にプレゼンとしたものだった。なくなる頃に自分が持ってきているものだ。
今朝は朝からN堂に入ってポールと打合せをしてきてた。俺の異動について小難しい話しをされたが、俺が気もそぞろなことに業を煮やしたポールは珍しく舌打ちした。
普段は温厚なフリをして柔和な笑顔の下にその本性を上手く隠しているポールが珍しくイライラした様子を隠しもしなかった。
「ずいぶんご機嫌斜めですね。」
小ばかにしたように聞こえたのか、ぎろりと音がしそうなほどの目力で睨まれると、
「君が彼を送ることに、僕はとてもじゃないが納得できない」
急に言われて、思わず、はい?と声が出てしまった。
「…僕が彼を送りたかった」
苦虫をかみつぶしたような顔でポールが言った。
「君が殺したようなものなのに」
こいつもピーターと俺の因縁を知っているのか。きっとポールも生前はも祐之進の関係者だったのだろう。
「君みたいなやつは、せいぜいここに1人置いて行かれるがいいさ」
何も言わない俺に、ポールは吐き捨てるように言った。
東京にいると守護の活動人数が多いせいかこういうことがたまにある。ピーターはまあまあ有名人(そりゃあ教区長をやってるくらいだから)で、それを結果的に死に至らしめた俺はまあまあな悪人とみなされる。
何だったか、アバズレの子供はアバズレだとか?まあ、自分の容姿を見れば父親が日本人じゃなかったんだろうなとは思う。ただ、全く母親回りの記憶がないのだ。
今も昔も祐之進は周囲に愛されている、自分だって彼が好きだ。
だから余計に彼を害したと罵られることが、顔も思い出せない母親を淫売と罵られることよりも遥かに心を抉るのだ。
***
ああ、しんどい。俺はそのままピーターのベッドに横になった。
ポールの話は長かったし、一方的に罵られて不愉快だったし、とにかく言いたいことを飲み込むのが辛かった。好きなだけ言い返せたらどんなに痛快だろう。俺が教区長なんかに指名されなければもっと好きに言えたのに。咄嗟に悲しげなピーターの顔が浮かんで何も言えなくなってしまったのだ。
こんな時は極力何も考えないようにする。
日はとうに暮れて、カーテンが引かれていない窓からは街灯の光が入り天井が白く光っていた。時折通る車のライトが光っては消えていく。それが何だか眩しくて目を閉じた。
俺はピーターを殺していない。ピーターは勝手に死んだのだ。流行り病で死んだと聞いた。俺が死んだ後、俺の後釜を雇わずにいたから仕事が忙しくて、寝る暇もなく働いて体調を崩した。そしてほどなくして流感にかかりあっという間に死んでしまった、そうアガタが教えてくれた。
ピーターはバカだ。とっとと新しい使用人を雇い入れればよかったのに。アガタだって、新しい下男を雇うように、もっとピーターにちゃんと進言するべきだったのに。特殊技能があるでもない俺の代わりなんていくらでもあの時の函館にはいたはずだったのに。新しい使用人を入れて、仕事を適正人数で回していたらピーターは身体を壊すこともなかったのに。
こんな子供っぽい八つ当たりじみた事しか思いつかなくて、自分の元から離れるピーターを詰る言葉が浮かばず、かわりに涙が溢れた。
もしピーターが俺と出会ってなかったら、ピーターは死んでなかった。アガタだって、俺がいなければ失った誰かを日々思い出さずに済んだのに。
俺の大事な人達は、俺と出会ったことで悲しい目に会っている。俺ばかり彼らからの好意と善意を受け取っている。なぜだろう、自分も同じように彼らを大切にしたいのに。
それが出来ない自分は、やっぱりポールの言う通り、彼らから離れてここに留め置かれるのが良いのだろう。ピーターは転生して今度こそ幸せになり、アガタもいずれ転生の道に戻れるといい、俺から遠いどこか明るいところへ。
2人の幸せを願うとズキリと背中が痛んだ。切り落とした翼の根元だ。
背中も頭も心も、全部痛かった。うつ伏せになり濡れた頬を枕で拭ったところで、
「ずいぶん積極的なお誘いだね」
ドアの縁に寄りかかりながら、ピーターがからかうように言った。
「背中が痛むんですよ」
肩越しに軽く睨むと、ピーターはおや?と言いながら近寄りベッドに腰を下ろした。
「泣いていたのか?」
「あくびしただけです。」
ああ、あくび。そう呟くと、俺の頭に手をやり、猫を撫でるように撫でた。
「変わりないか?」
「あるわけないでしょう?こないだ会ったばかりだ」
「そう?」
そう言って立ち上がると、クローゼットを開きネクタイを外し始めた。
そんなピーターをベッドから眺めていると、
「何?」
答えずに眺めていると、
「言いたいことあるなら言ってごらん。」
「そのネクタイ、もらっていいですか?」
ピーターは手に持っていたネクタイを見ると、くすっと笑って、
「謙虚だね、この家にあるものは全部お前にあげるよ。」
あ、家自体は教会の資産だからあげられないけど、と笑いながら付け加えた。
「一番欲しいものはもらえないんですね」
思わず零れた言葉が妙に響いた。それはきっと俺の真意を感じとったピーターの動きが一瞬止まり、本音が零れた自分の呼吸もまた一瞬止まったからだ。
だが、ピーターはすぐに何もなかったかのように着替えを終えると、
「悪いね、家のことは表と相談してくれ。」
さ、夕飯行にこう、そう言って俺の手を掴んだ。この手が俺を救ってくれた。俺を助けて守って励ましてくれた手だ。俺は父親を知らない、いたとしたらこういうものだろうか?でも、自分は彼に父性を求めたことも自分の父親を投影したことも一度もなかった。
強い力で引き上げられ、勢い余って彼の腕の中に倒れ込んだ。
「自分の使ってた香水に包まれるのは妙な気分ですね」
するとピーターはおかしそうに、
「奇遇だね、僕も同じことを言おうと思ってた。」
そう言って俺の首元にに鼻先を埋めた。
「何やってんですか」
「ネコ吸い」
そう言って俺をぎゅうぎゅうと抱きしめ、そこから逃げ出そうとする俺は、まさに飼い主の猫吸いから逃走しようとする猫そのものだった。ひとしきり離せ、離さないとふざけると、俺達は夕飯を食べに家を出た。
※※※
ただ、彼に喜んで欲しい、彼に幸せになって欲しい、彼が笑うなら何故か自分も幸せな気持ちに包まれるのだから笑ってほしい。だからもし、彼が悲しんだりすることがあれば、俺は彼をなぐさめ、そして悲しませる原因を突き止めて排除するだろう。例えそれが自分を傷つけるとしても。
俺はこの感情の名前を知らない。
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