第7話 小休止
目が覚めた。見慣れた天井が目に入って、いつもの朝が来たとホッとした。カーテンの隙間から朝日が入ってる。お腹も空いている。枕元に手を伸ばし、携帯を探した。新着の通知はニュースサイトのお知らせだけだった。消して元あったところに放ると、支給された端末に手が触れた。その瞬間、昨日のことがやっぱり現実だったのかと、溜息が出た。ちょっと考えて端末を見ると、トマスからメッセージが入っていたが、開かなかった。ひどく喉が渇いて、ベッドから這い出た。
キッチンで水を飲むと、食道から胃にむかってひんやりしたものが落ちていく。カーテンを開けて眼下の道は、通勤、通学で人々が慌ただしく往来しているのが見えた。僕もちょっと前まではあそこにいたな、と思うと何だかとても遠くに来てしまったような気がした。
何も食べる気がしなくて、ぼんやりテレビを見ながらコーヒーを飲んだ。天気予報では今日も晴れ。洗濯日和というものの、洗濯機をまわすほど洗濯ものもない。掃除機をかけるのは億劫で、することが思いつかずソファに沈み込んだ。
この仕事を受ける時にピーターからの話しでは、亡くなった人の魂を『写真』に捉える、僕はシャッターを押すだけの筈だった。別に霊は見慣れているし、怖いとかはない。でもアレは苦しい。僕は毎回あんなに身体の中をジェットコースターが駆けるような思いをするんだろうか。気を抜いたら、多分ジェットコースターに自分の正気を持っていかれるような、そんな恐怖を感じた。
そして何よりも、昨日の松岡さんは亡くなった人ではなかった。僕がシャッターを切ったら死んだのだ。僕は松岡さんの命を奪う立場にない、行ってみれば、生命維持装置を赤の他人の僕がそのスイッチを切ったようなものだ。それはどう考えたって正しくないし、道理に合わない。仮に誰かがそれをやるとしたら、それは寿命を決めている神様か家族かであるはずだ。やれと言われてはいそうですか、とやっていいものではないはずだ。他の写真師は、いったいどう折り合いをつけているのだろう。この仕事をしているのは絶対僕だけじゃないはずだ。こんなことなら、父さんに仕事のことを聞いてみるべきだった。できる出来ないの問題ではなくて、向き不向きだって絶対あるはずだ。
ただ、父さんはもういない。他に相談できる人、思い浮かぶ顔はこの仕事を振ってきている張本人だ。相談相手にはならない。
出るのは溜息ばかりで、結局その日は何もしないまま一日は終わった。
翌日も目が覚めると、昨日と全く同じで、もはやそれが昨日だったか一昨日だったか、寝ぼけていると曖昧になるくらいだったが、あっちの端末はトマスからの未読が1件増えていたのが見えたので、今日は昨日ではないことがわかって少しホッとした。とは言え、また朝からコーヒーを飲み、昼に近所のコンビニをうろつき、昼寝をして携帯を見て、大して空腹を覚えることもなかったので、何となくロング缶を数本並べるくらい飲んでボンヤリしてたら、また朝が来て驚いた。
そんな風に過ごしていたら、トマスからの未読件数が20件を超えた。トマスは悪い奴ではなさそうだった。最初はあんなに自分を毛嫌いしている風ではあったけれど、仕事はそれに関係なく終えていたし、玄関先で最後に見た時には心配してくれているようだった。1回しか任務には出かけてはいないけれど、こうも毎日メッセージを送ってくるのは意外と気が長いのか、鈍いのか、職務に忠実なのか。任務リストには何も表示されないので、正直放っておいてくれて全然かまわないのだけれど。
それにしても、こんなに人からの干渉が鬱陶しいと思うようなケースって今までなかった。人付き合いはあまり得意でなかったし、あえて人と関わりたいと思えなかったからだ。
ベランダを見やると、夕暮れ時だった。今日も一日、何もせずに終わってしまった。何もなく終わったことに安堵しながら、何か気まずい居心地の悪いものが、子供の頃に提出物の期限が過ぎているのに提出できていないようなそんな気分だ。いい年して、僕はまだこんなことをしている。
そしてそろそろ2週間が経つ頃、ピーターから昔のように自分の携帯に電話が来た。これは出ないといけない気がして、おそるおそる画面をスワイプした。
『こちらに遊びにくるといい、風は涼しくて過ごしやすいから』
そう言われた翌日の昼下がり、僕は函館の地にいた。
ピーターは仕事をしないことを咎めることなく、気が塞ぐようだったら気分転換に函館観光でもするといい、と電話口で軽い調子で言った。用件だけ話し終わると、あっさり通話は切られ、何だか肩透かしを食らった気分だった。
待ち合わせに示された目的地は観光地にもなっていて、礼拝堂を見学したり周囲で写真撮影をしている人で賑わっていた。その様子を遠巻きに眺めながらベンチに座っていると、突然頭上から声が降ってきた。
「函館へようこそ。旅は順調だったかな?」
僕を呼び出した張本人が僕の顔を覗き込んでいた。
今日はヒマなんだ、とピーターはうそぶいて僕を街に連れ出した。観光というよりも、近所の散歩という方が正しかったかも知れない。観光名所らしきところを歩いたような気もするし、そうでなかったような気もするし。ピーターは慣れた様子で観光名所を案内してくれたが、惜しむらくは、僕の鬱々とした頭は流れるようなピーターの説明は流れるままに、ボンヤリした頭にはあまり記憶が残らなかった。たまに吹く風がひんやりと冷たく、自分が外地にきたのだなと感じた。
あまり食欲がなかったので、夕飯を食べずに日が暮れる頃、函館山に登った。展望台からの夜景を見たときは、鬱々とした気持ちを忘れた。
「美しいですよね。あの光の下には人間が色んな想いを抱えて生きていて、誰一人同じ人はいない。そういう意味では、人間は本質的に孤独なはずなのに、こうしてみるとそれぞれが大きな存在の一部となっている。好むとも好まないにも関わらず、お互いが必要なのです。私はそんな矛盾を抱えた人間を愛すべき生き物だと思っています。」
夜景に見入って何も言わない僕に、
「死が怖いですか?」
いきなり聞かれてピーターの方を振り返った。
「人は死に怯えます。それはその先が見えないからではなく、今ある全ての関わりをその瞬間に全て断ち切ると考えるからです。まあ、あと痛いとかありますがそれは一旦、置いておいて」
「あなたは怖くないんですか?」
ピーターの横顔は灯りを受けていたが、感情は読み取れなかった。
「我々の理解する死とは、節目の一つに過ぎません。季節が変わるようなものととらえています。次に新たな身体を得て目が覚めるまで、魂はそれぞれの時間を戻しながら時がくるまで待機し、またこの世に戻り寿命を歩む、その繰り返しです。
人を形作るものとは肉体なのか、記憶なのか、それとも魂という本質なのか。唯一目に見えない魂の本質、これが我々の考えるところのその人がその人である為に必要なものです。例えば、私の身体にあなたの父上の記憶が入っていて、父上の身体に私の記憶が入っていたとしたら、あなたの父上はどちらと考えますか?」
答えに詰まると、
「それでは、あなたの父上は穏やかな存在感をもつ人物だったとして
猛々しい存在感を放つ父上の肉体、穏やかな存在感の私の肉体、いずれもあなたとの記憶がなかったら、父上の肉体を持つ人は、あなたの父上ですか?」
「…まあ、遺伝子検査をすれば親子関係は証明できるかと」
見当違いな答えなことは自分でよくわかっていた。そんなことをピーターは聞いていない。
「記憶とは、通常肉体に刻まれます。人生観を変えてしまうようなことがない限り、魂に記憶が刻まれることはありません。
つまり、魂とは環境に反応する受容体で、人間の言うところの『感性』というものに近いのではないかと我々は考えています。
「記憶は過去から今現在のものなので、未来の存在を保証することはできません。ただ、魂は過去も未来も変わらずそこに存在するので、人の存在の証明としては、魂とする方が妥当ではないかと思います。」
すっかり黙ってしまった僕をみて、ピーターは喋り過ぎました、と小さく咳払いし、
「つまり私が伝えたいのは、写真師の仕事は魂を役目を終えた肉体から引き取り、次の誕生にむけて休ませる為の手伝いということです。決して殺人ではありません。」
ピーターは僕の罪悪感を和らげようとしていたのだと、ようやく気付いた。僕の表情が緩んだのだろう、彼は穏やかに、
「私の話しを信じる必要はありません。君は君の神を信じればいいのです。そうすればきっと救われます。何しろそれが唯一と言って良いくらいの彼の仕事なわけですから。」
そう言われたら急にお腹が鳴った。
「君の身体は大変素直ですね、何か食べて帰りましょう」
小さく笑いながら、ピーターは僕を促して歩き出した。
***
連れて行かれた何の変哲もない町中華、身なりの良いピーターは店内ではかなり浮いていたが、店主はピーターと目が合うと、おう、と言ってカウンターに水を置いた。ピーターは、腰を下ろしながら、私は餃子と塩ラーメン、仕事は終わったのでビールつけますけど、君はどうしますか?と、相変わらずのせっかちぶりを発揮してくれた。店内は賑わっていたが、ピーターの声は大きくないはずなのによく聞こえた。
瓶ビールとグラスが2つ置かれると、ピーターはさっさと注ぎ、では我々に乾杯と言ってとっとと飲み始めた。
程なくして澄んだスープの塩ラーメン、餃子、半チャーハンと次々と並べられた。何となく、ピーターはこういう食事は好まないのではないかと思っていたのだが、そんな僕をよそに、つぎつぎに平らげていく様はなかなか痛快だった。
僕も負けじと熱々のラーメンを勢いよくすすると、
「あいかわらず良い食べっぷりですね」
ピーターは愉しそうに目を細めた。
僕の記憶が正しければピーターと食事をしたことはない、今日が初めてだ。きっと他の写真師と間違えたのだろうと特にそれには言及せず、ピーターが目を離した隙にの餃子を一つ失敬した。肉汁が熱くて舌を火傷した。
「熱いでしょう?」
ニヤニヤしながらそう言いながら、ピーターは残りの餃子を皿ごと僕のほうに押しやった。
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