第5話 守護
「お前が新しい写真師か。」
目の前に立った若い男は、品定めするように僕を見上げた。何故か高飛車な物言いをする若者に、僕は若干の苛立ちを覚えながら、笑顔で答えた。
「どうも。イザヤだ。」
宜しく、と手を出したが、トマスはチラリとそれを見ると、車はあっちだ、と歩き出した。何やらとてつもなく嫌われてしまっているようだった。
「僕、何か気に障るようなことしたかな」
会ってまだ1分だけど、と口の中で呟きながら一応聞いてみた。だが、トマスはぎろりと音がしそうなほどの目力でこちらを睨むだけだった。
年の頃にして20代前半か、身長は気持ち僕よりも背が低く華奢な印象だった。ロングTシャツに細見のパンツ、スニーカーの足元で学生のようにも見えるのだが、姿勢が良くこざっぱりしているので、妙に落ち着いて見えた。ただ、何やら僕に対して思うところがあるのか、無駄に圧が強かった。
『君の守護にトマスをつけるよ。彼は若いけど腕が立つ。きっと君と仲良くなれるだろう。』
先週、ピーターから次の仕事の連絡があった。非力なただの撮影担当に単独行動は許されておらず、必ず現場を仕切る『守護』と動くようにと言われている。そして現れたトマスなのだが。
よくわからない敵意をむき出しにされ、コミュニケーションをとろうにもああとかうんとか無言で取り付く島がない。別にお友達になる必要はないのだけれど、一応命を預けるわけだから、もう少し知りたいとは思う。それにこんなに自分のことを嫌がる彼に来てもらったことが何だか申し訳なくすら思えて思わずため息が出た。
「何だよ」
と間髪入れず、視線は前方から外さないで言ってきた。どうも僕のことは好きではないが、気にはかけてもらっているようだった。
「いや、てっきりピーターと仕事をするのかと思ってたので…」
次の瞬間、急ブレーキが踏まれた。
ああ、目は心の窓って習ったのはいつだったかな。標語ポスターとかで描かされたな、と考えながらトマスの瞳をみた。目から出るのは涙とか殺人光線とかだけじゃなく、怒りも溢れるんだな。でもなんとなく純度100%の怒りという感じでない、何かが混じってる。
もう、目は三角になってるし、言葉の端々とげとげしく、そしてそれを1ミリも隠そうともしないものだから。僕が彼の地雷を踏んだのは明らかだった。
「あの人は無茶苦茶忙しいんだぞ。新入りのお前の世話してるヒマなんてあるわけないだろ。直接リクルートされたからって調子にのんなよ」
いつも飄々として胡散臭い笑顔を貼り付けているおじさんは、どうやらただのおじさんではないようだった。
なんだ、これは怒りというカモフラージュをまとった嫉妬だ。
そうとわかると、ちょっと気が楽になった。からかうつもりで、
「悪いね、ピーターとは旧い知り合いでね。高校時代からの知り合いなんだ」
と、軽くマウントをとってみたら、
「は?こっちは日露戦争からの知り合いだっつうの」
ああ、ピーターもトマスも人間ではないことぐらい、知っていたよ。
誰も教えてくれなかったけどね。
そう、たいしたことじゃない。そんなこと。
「一応聞くんだけど、君、年いくつ?」
「132、お前は?」
「…32」
「若いな」
「...そうだね」
君より若いね。100才ぐらい。
体から力が抜ける。僕はシートに身体を預けて目を閉じた。もはや考えるのも絡むのも面倒くさかった。
トマスがこちらの様子を伺っている気配はしたが、僕はこのままこの場をやり過ごすことにした。
***
その施設に到着すると、トマスは訪問者記録に名前を書き入れ、ほれ、と僕にボールペンをよこした。同伴者の欄に「諫谷史郎」と書くと、お前若いのに字がきれいだな、と手元を覗き込んだトマスが感心して言った。そりゃどうも、と言いかけて、トマスの崩した達筆すぎる字体が目に入り閉口した。
「君の方こそ書道の師範か何かやってるの?達筆だね」
廊下を歩きながら話しかけると、まさか、とスマホをいじりながら鼻で笑った。その立ち姿はどうみても20代、100才サバよんでも誰も文句言わないだろうな、とぼんやり思いながら、
「歩きスマホは危ないぞ」
と、声をかければ、へーいと舐めた返事をよこした。無駄に今時な後ろ姿だった。
病室のカーテンを開けると、そこには黄色く萎れてしまった老人が口を半開きにしてボンヤリと空虚な目でベッドによこになっていた。呼びかけにも反応はなかったが、微かに呼吸する音が聞こえた。
「あー松岡さん、87才ね。お待たせしました、っと」
端末に目を落としながらトマスは後ろ手にカーテンを閉めた。そして僕を見ると、
「写真師殿、準備はいいか?」
さあ、お手並み拝見だ、と呟くとやおら老人の額をがしっと鷲掴みにした。そんな手荒に何してんだ!と、止めようとした瞬間、小さく風が巻いた。
誰だこれ?
目の前には50代くらいの男性がベッドに座っていた。スーツを着て髪もきれいに整い、堂々とした男性だった。
「松岡太一さんで合ってますか?」
トマスは目の前でどこか安堵の表情を浮かべている男性に確認をする。
「はい、松岡です。お世話になります。」
と、よく通る声で頭を下げた。眼下に横たわる松岡に空気を入れたらこうなるか?と思うようなハリのある肌と声だった。
トマスはこちらこそ、と端末から視線だけ上げて男に微笑み、それじゃあ本人確認させてもらいますね、と端末を操作しながら淀みなく続けた。それはまるでクレジットカードのお客様センターのオペレーターのようにスムーズすぎて、情報が全く頭に入ってこなかった。
「確認完了です。それでは撮影に入りますけど何か質問はありますか?」
松岡と呼ばれた男は静かに首を横にふった。トマスはそれを確認すると、
「では松岡さん、お疲れ様でした。今生最期に今日一の笑顔、お願いします」
写真師殿、と声をかけられピントを合わせると、画面越しに目が合い、松岡が微かにほほ笑んだ。口から言葉が紡がれなかった代わりに、彼の視線から想いが彼の記憶と共に流れ込んできた。その勢いに身体が支配されそうになる。体の中を得体のしれない膨大な何かが駆け巡り、呼吸が浅くなっていく。視覚も聴覚もここにはない何かに奪われそうで、額にぶわりと汗が噴き出るのを感じた。僕の異変にトマスは気付くと、僕の背後に回り耳元に口を寄せると、スリーカウントだぞ、と囁いた。背中にトマスの指があてられ無言でカウントを始めた。心臓が早鐘のようで、耳の奥には自分の鼓動と松岡の音が大きく響き、もはや心臓を吐きそうだった。
トマスの合図に合わせて震える指でシャッターを切った瞬間、耳の奥でこだましていた松岡の記憶の音も、視覚の奥を駆け抜けた松岡の記憶も一瞬で消えると同時に、男の姿も光の粒が空気に溶けてしまったかのように目の前から消えてしまった。
部屋の静けささえうるさく感じるそこには、呼吸をしない老人が静かに横たわっているだけだった。先ほどまで半分開いていた虚ろな目は閉じられ、口元にはカメラ越しに見た男性と同じほほ笑みが残っていた。
トマスは僕の震える手の中にある写真を見ると、これで正真正銘、写真師デビューだな、と口の端を上げてこちらを見上げた。
だが、僕は自分の中を縦横無尽に駆け抜けたその何かを抱えきれず、それは堪えきれない嗚咽という形で僕の身体から涙とこぼれた。
「おーよしよし、大丈夫だぞー」
トマスはふざけて大袈裟にに僕の背中をさすったが、必死に嗚咽を堪えて震える肩に気付くと溜息をつきながら僕の頭を掻き抱き、
「1分だけ肩かしてやる。好きなだけ泣け」
その言葉を聞いて、ぐっと、喉の奥が鳴った気がした。それが涙が溢れる音なのだと僕は32年生きて初めて知った。
人の人生分の喜怒哀楽を受けとめることなんて僕にできない。
でもそんなことよりも何よりも
僕はたった今、目の前の老人の命を肉体から引き取ってしまった。そしてそれが自分の仕事と理解したとき、自分の仕事に絶望した。
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