第6話 僕の少し前の話し

  

 父の入院は思っていたよりも長引き、実家の写真館は臨時休業が続いた。電話番を引き受けたが、予想通りそれは鳴ることはなく、週末に出向いて空気の入れ替えをしたり、機材の簡単なメンテナンスをした。好きか嫌いかを感じるよりも前に父の仕事を手伝い始めていたので一通りの知識があったが、自分で撮影するのは好きではなかった。何故なら昔から自分が写真を撮ると、必ずと言っていいほど心霊写真になったからだ。

周囲は気味悪がったが、父だけはそんな写真を面白がってくれて、史郎は筋がいいと褒めてくれた。ただし、写真を撮る相手は家族だけか景色にするように、と最後は必ず幼い自分に言い含めるのだった。


 高校生になると、小遣い稼ぎにオカルトサイトに写真の投稿を始め、大学に上がる頃にはサイト運営者から写真の撮影依頼を受けるようになった。それでも父の教えは守り人を撮影することはなかった。自分が撮る写真は近所の公園でも駅前の駐輪所でも、どこでも「心霊スポット」になったので、どこかにわざわざ出かけるまでもなく、横着して近場で撮影を重ねていたら、いつの間にか自分の家の近所は有名な心霊スポットになってしまった。以来、撮影は自分の生活圏外ですると決めていた。

 

 大学時代に初めて特別と思える相手に出会い、めでたくお付き合いすることになった。浮かれた自分は、親の忠告を忘れ家族以外の写真を、彼女と二人で肩を寄せ合って自撮りした。だが、気合が入り過ぎたのか、ものすごくはっきりと彼女の後ろに立つ霊を捉えてしまった。その写真は即座に加工して背後の3人目を消したものの(加工アプリの性能には本当に感心する)、せがまれるままに二人で自撮りしても、グループ写真になってしまうことが想像できたので、その後はそれとなく断り続けたら、気づいたら彼女は同じグループの友人の彼女になっていた。

どうも知らぬ間に彼女にフラれていたようだった。そしてそれを知ったのは仲間内で自分が最後で、しかも自分が知らなかったことを誰も知らなかったというなんとも間抜けな結末だった。

 あの夏の蒸し暑い夜、失恋=ヤケ酒という安直な思考に導かれるまま、近所の陽気な大将がいる小さい居酒屋(町内会の掃除で知っていた)の暖簾をくぐった。人は自棄になると何か得体のしれない力を纏う典型だった。いつもの自分だったら絶対に入れない、カウンターとテーブルが2つしかない、おそらく常連しかいないような、そんな店に躊躇なく足を踏み入れた。

 

 案内されるままカウンター席に座った。ぼんやりとテレビの野球中継を見ながらビールを飲んで、瓶が空くころ、店に入って来た中年の背の高い男が隣に座った。香水ではないが、何かお香のような、でも線香ではない匂いが一瞬香ったような気がした。ビールを頼みつつ、僕が唐揚げにかぶりついているのをみると、いい食べっぷりですねぇと笑いながら話しかけてきた。普段だったら絶対そんなことはないはずなんだが、慣れない酒に見事に呑まれ、気づいたら僕はその男相手に、大泣きしながら愚痴るという、だいぶはた迷惑な飲み方をしてしまった。だが、その眼鏡の男はずっと、うんうん、とニコニコして相槌を打っていた。そういう時は泣いて飲んで泣くと、大体すっきりするもんです。飲みがたりませんね、とわんこそばのように焼酎を注がれた。その晩はその男にしこたま飲まされ、僕の記憶はそこから若干あいまいだ。


 なんとか帰宅し(未だにどうやって帰ったはナゾ)慣れない酒を煽ったせいで悪酔いして夜中吐きまくり(便器ボールは友達)、締め切った暑いトイレに籠り、何でフラれて辛い自分がこんな吐いて辛い思いをしなきゃいけないんだ?と、自分以外責めを負うものが見つからず、余計に悔しくて吐きながら地団太を踏んだ(実際にはそんな器用なことはできない、あくまで脳内イメージだ)


 アルコールで靄がかった思考は、翌日の夕方に差し掛かる頃、少しずつ形を作り自分のもとに戻ってきた。だがその途端、体中が汗でべたつくその不快感を認識し、一気に現実に引き戻された。


 エアコンも入れずに窓も閉まったままで、西日が部屋に入り始めじりじりとカーテンの隙間から肌を刺した。ベッドも枕もぐっしょりと汗で濡れていた。堪らずベッドを降りると、勢いよく窓を開け放った。むっとする生暖かい風とセミの鳴く声が部屋に流れ込んだ。もはや一日が終わろうとしていた。


 西日が眩しくて目を細めながら、ふと、このままだと明日の朝が来ても、そのまた翌朝がきても、自分はずっと一人でいる予感がした。夏の湿度で重くなった空気が眼下にみえる町の屋根まで霞ませるような、自分も街もその輪郭は曖昧で、自分が水に垂らされる一滴の墨汁のように、やがて誰の目の前からも見えなくなってしまい、排水溝に吸い込まれ、そして僕がいた痕跡を何一つ残すことなく世界は素知らぬ顔で明日を迎えるような気がした。


 こんな奇妙な才能(もしあれを才能と呼んでいいのなら)がいつか消える日がくることを期待して、それまで息をひそめてずっと隠そうと腐心してきたけれど、多分これは消えないことはうっすら気づいていた。否、そんなこと、とうの昔にわかっていた。何故なら、こんなに長い間消え失せてしまうことを願っていたのに、それを願うのと同じくらい、喜ぶ父の顔が見たくて撮影に勤しんでいた自分がいたからだ。


 あー、もう無理だ。


 自分の中の大いなる矛盾に耐えられなくなった僕は、才能という自分の一部を拒否することをやめた。


 全開にした冷たいシャワーを浴びながら、大きく息と声を吐き出すと、吐き出しただけ身体が軽くなる気がした。僕の初めての失恋と、これまで僕と世界を隔てていたそれ、何なら僕に絡みついていた重りのようなそれは、べたつく汗と共に排水溝にきれいに流れていった。風呂場から出て髪を拭きながら再び開け放った窓辺に立った。自分の身体が空っぽになったように軽くなっていた。


 山並みの向こうに落ちた太陽が空を赤くし、目の前の街には灯りがまばたき始めた。どの色も鮮明で、ベランダから見上げる頭上の夜空さえこんなにも色鮮やかな闇だったのかと、僕はまるで新たな眼を得たような気分だった。

 世界が輪郭を持ち、その中の自分も輪郭をもち、もはや自分はここに在るのだということをなかったことにはできなかった。生きている世界はこんなにもはっきり遠くまで広がっていたのかと、ついさっきまで気づかなかった自分が、もはや知らない人物のように思えた。


 頭も体もすっきりしたところで、例の居酒屋が開店するちょっと前に謝りに行った。お会計をした記憶もなかったのだが、大将は笑いながら、ああ、あれなら隣の席のお客さんが払ってくれたから大丈夫だよ、家に無事に帰れて良かった、と朗らかに言った。あの親切な男は僕を家まで送ったとのことだった。初めて来たお客さんだったようで、大将も連絡先は知らないと言っていた。

 見知らぬ男に家まで送ってもらったのは、ちょっと危機意識が足りなかったと思いつつ、ごちそうになった上、言われたように、ひとしきり飲んで泣いて騒いだら、すっきりしてしまった。世の中には、ただの親切な人がいるもんなんだな、と何となく神様に感謝した。


 そんな学生時代を過ごした僕は、卒業後会社員になった。毎日同じ時間に起きて出社して、デスクでコンビニで買ったおにぎりを食べ、仕事して、たまにお客さんや上司にしかられ、電車に揺られて寝床に帰る、金曜日だけちょっと寄り道してみたりするものの、逆に疲れてしまってまっすぐ帰宅すればよかったと後悔する。特段取柄もない、同調圧力には抵抗しないし、老人や妊婦に席を譲る勇気も持ち合わせていない、聞かれなければ話すことも思い浮かばないので黙っていると、『怒ってる?』と心配され、友人と呼べる友人もなく、たまに思い出したりすることもあるけれど、だからと言って同窓会の案内はいつも欠席に〇を付けて返信していた。人と交わらない程度に人の近くに身を置くという社会の中での人との丁度良い距離感をみつけ、(はたから見れば淋しい独り身に見えたと思うが)自分の日常に僕は満足していた。ただ、例外として、忘れた頃になんとなく連絡が来て、細々とやり取りが続いていたのは、件のオカルトサイトの運営者、雀部ささべだった。

 雀部とは実際に会ったことはなく、メールでのやりとりのみだった。高校時代からなので、かれこれ10年近い付き合いになる。当初は仕事の依頼がほとんどであったが、やがて撮影のアドバイスから始まったやり取りは、仕事のぼやきであったり、スーパーで野菜が高いだの、近所の工事がうるさいなど、他愛もない日常の情報交換が多くなった。やたら和菓子の話しを好んでするものだから、てっきり年配の男性だと思っていて、何となく親戚のおじさんと話す感覚で話していたのだが。その思い込みが大きく違っていることを、僕は父の葬儀で知った。


 

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