17 因縁の戦い①

「マルツィア!」


 夕日にさざめく金色の大海原が、突如として漆黒の炎に包まれた。不快なものではない。むしろ、安堵を覚える闇のほむら


 ほとんど感覚の失われた身体を、誰かが抱き締めている。魂の記憶に浸っていたマルツィアの意識が浮上すると、先ほどまで目の前にあった海は消え、代わりに黒い炎に隔てられた薄暗い水路と、すぐ側にある愛おしい青年の姿が、霞む視界にぼんやりと映った。


「ミ、ネ、さん」

「喋らなくて良い」


 胸に深々と刺さった短剣を避けるようにして、ミネの温もりが私を包んでいる。


 痛い。傷が、脈打ち焼けるように痛む。けれどそれと同じくらいに、心が痛い。


「私、やっと、思い出したのに。もう、お別れなんですね」


 ミネが目を見開き、マルツィアの顔を凝視する。それから半分泣いたような笑みを浮かべ、マルツィアの頬を撫でた。


「まさか、前世の記憶が? ならば、どの生が一番楽しかった?」

「蟻……」

「そうか、私もだ」


 声を出した途端、血泡が込み上がり弱々しく咳き込んだが、吐き出し切ることができない。身体に力が入らず、肺が自分の血に浸されて溺れそうだ。


「マルツィア、死ぬな。気を確かに持て」

「だいじょ、うぶ。また、どこ、かで、生まれ変わる。迎えに、きて」


 これまでも、そうして何度も見つけ出してもらったのだ。やっと再会できたと思ったのに、すぐに別れるのは確かに悲しい。けれど、これは永遠の別れではない。それなのに、ミネはどうして泣いているのだろう。


 不意に、ミネの滑らかな頬を伝った雫がぽつりと落ちて、マルツィアの首筋を流れた。


「ミネ、さん?」


 鉛となったかのように重たい腕を持ち上げ、震える指先で愛おしい頬を撫でる。


 辺りには黒く優しい炎が燃え盛り、マルツィアたちを半球状に覆い外界から守っている。永遠に続けと思えるほど心地の良い二人きりの世界を切り裂くように、炎の壁の外から冷淡な女の声が届いた。


高峰焔夜那大神たかみねほやなのおおかみの闇のほむら。厄介ですね。朝の宝玉がなければ打ち破るのは骨が折れるでしょう。いかがしましょうか、我が神」

「放っておけ。あの娘の肉体はもう長くない。ああして焔の殻にこもったとて、魂を永遠にあの場所に留めるわけにはいかぬのだから、そのうち出て来るだろう」

「では、ここで待ちましょうか」


 アンナと白竜の声だ。首を回して顔を向ければ、炎を隔てた向こう側に、見慣れた娘と長髪の青年の影があった。アンナが、人型をとった白竜と並んでいる。それも、ミネの真の名を呼び、敵の隣に立っている。


「アン、ナ。どうして」

「マルツィア、あのような者は気にするな。大丈夫。私が、何とかしてそなたをこの肉体に繋ぎ留める。楽園になど行くな」

「楽園」


 その言葉でマルツィアは、ああ、と理解した。そうだ、死した魂は楽園へ行く。この国には、輪廻など存在しない。何度も何度も生まれ変わることはない。マルツィアは魔術都市ハルーンの人間だ。かつてミネと過ごした故郷のことわりでは動かない。つまり命を落とせば、もう二度とミネとは出会えないのだ。


「マルツィア、マルツィア」


 ミネの涙は止まらない。まるで雨に打たれたかのように、マルツィアの肌が濡れた。一粒、また一粒と首筋を伝い、胸へと流れて傷口に集まった。その時だ。


「え?」


 最初に困惑の声を上げたのは、誰だっただろう。


 マルツィアの胸から、朝日のように鮮烈な白光がほとばしる。次の瞬間、ミネの胸元から夜闇のように穏やかな黒い光が溢れ出た。それらはそれぞれに収斂しゅうれんし、やがて白い宝玉と黒い宝玉が生まれて宙に舞った。

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