15 あんたのことが嫌いだった

「この辺りで良いでしょう」


 全力疾走の末、息も絶え絶えなマルツィアとは対照的に、アンナは呼吸一つ乱していない。アンナは昔から、体力に自信がある方だっただろうか? 幼い頃から良く知る仲だが、一緒に全力で走ったことなどないので、新たな一面を知ったという気分だ。


 マルツィアはアンナに促され、運河に面した商店に並ぶ樽の側に身を潜める。上体を折り曲げて息を整える間、元メイドは静かな目でマルツィアを見守っていた。


 やがてなんとか調子が戻った頃、マルツィアは辺りを見回してみる。


 竜神らが睨み合う場所、総督府や寺院のある広場から、さほど離れていないらしい。細い水路には、左右に迫るレンガ造りの建物が影を落とし、どこか薄暗い雰囲気が漂っている。普段から日当たりが悪い区画だが、この日はいつもよりもずっと暗い。空を見上げても建物の角度の問題か、白のアレや黒のアレは見えないのだが、巨体が太陽を遮りこちらにまで影を投げているのは確かだろう。


 マルツィアは蛇のような自称ドラゴンの姿を思い浮かべ、ぶるりと身震いをしてから、急な解雇により別れも告げられずにいた友の顔を見つめ、勢い良く頭を下げた。


「ねえ、アンナ。ごめんなさい!」


 束の間息を呑む間が空いて、アンナが小さく息を吐いた。


「このような時に、突然どうしたのです」

「だって、お父様がいきなりアンナを解雇しちゃうから。ごめんなさい、私がちゃんと聖ソリーチェ寺院から使い魔を連れ帰れていたら、こんなことにならなかったのに」


 アンナがヴィスアニ邸を去ったのは、マルツィアが背中に封魔ふうまの刻印を背負った直後だった。ハルーンを追放される出来損ないの娘には、側仕えなど不要だと、父は思ったのだろう。


 当事者であるアンナもその辺りのことは当然心にかかっているはずだろうけれど、なぜかきょとんとした顔で瞬きをしている。やがて理解が追いついたらしく、アンナは、ああと頷いた。


「別にお嬢様のせいでは。それに、結局使い魔を手に入れたのでしょう? あの巨大なへ」

「言わないでっ!」


 実際は使い魔ではないのだし、あれは竜なのらしいが、とにかく蛇もいう単語を聞くだけでぞわりと肌が粟立つのだ。


 勢い良く叫んだ元主人に軽く首を傾けるアンナ。マルツィアは首を振り気を取り直してから、アンナの手を握った。


「とにかく、もう大丈夫。多分、私はハルーンに戻って来ることができるわ。だから、お父様にお願いをして、もう一度アンナを雇ってもらうね。あ、でも、今は総督府で働いているのよね。それなら、ヴィスアニ邸には戻って来られない?」


 ぐい、と迫るマルツィアに、アンナは反射的に軽く上体を仰け反らせて身を引いた。それから、ぽつりと声を落とす。


「もう。お嬢様は本当に」


 そのままじっと見つめ合う。アンナの栗色の瞳が潤んでいる。さぞかし感動的な言葉が飛び出すだろう。……というような間が空いて。


「憎たらしいわ」

「へ?」


 アンナの可愛らしい小さな口から発せられた音は、マルツィアの脳内で意味を結ばない。目を白黒させている間にも、言葉は続く。


「解雇されただなんて失礼しちゃいます。私はね、お嬢様。自分で辞めたんです。どうして? ええ、教えてあげますよ。それはね」


 薄っすらとそばかすの浮かぶアンナの頬が持ち上がり、狂気を帯びた笑みが浮かんだ。


「ハルーンを出たお嬢様を追跡するため。総督府にいれば、それができるもの」

「な、何のために……うっ!?」


 驚愕の声は、突如胸部に走った衝撃により阻まれた。


 何が起こったのか理解するより前に、アンナが冷酷な笑みを顔に張り付けながら、ゆらりゆらりと後ずさる。その両手が鮮血で真っ赤に染まっているのを目にし、マルツィアは自分の身に起こったことを理解した。


 ゆっくりと視線を落とせば、胸に短剣が深々と刺さっている。鈍く銀に煌めく刃を滴る生々しい赤を見た途端、激痛が走り、立っていられなくなる。マルツィアはその場で蹲り呻いた。頭上から、アンナの声が降って来る。


「痛いの? 可哀想ね。でも大丈夫。もうすぐ死ねるもの。死んだら楽になるわ。楽園に行けると良いわねえ」

「どう、して、こんな」

「初めて出会った日から、あんたが気に入らなかったのよ」

「……うそ……」

「本当よ。多分、魂に刻まれた前世記憶のせいだったのね。だって、あんたシノのせいで前世の私は死んでいるんだから。でもまあ、マルツィアお嬢様のこともどんどん嫌いになったわよ。自分は良い子よって顔をしているところとか特にね。白竜様の朝の宝玉を奪った盗人のくせに、清純ぶるのが本当に白々しい」


 前世、白竜、朝の宝玉。耳に覚えはある。けれどそれらはいったい、何なのか。

記憶をたどるうちにマルツィアは、痛みと失血により脈打つようにぼやける視界の中に、懐かしい風景を見た。


 霧がかかる鬱蒼とした森。並ぶのは見慣れない種類の広葉樹。梢の間から覗く空は晴れているけれど、薄雲に覆われたように日差しは柔らかい。


 マルツィアの知らない土地。けれど、確かに記憶にある場所だ。私はこの光景を知っている。

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