7 遥か昔の記憶のようなもの?

 胸が苦しい。内側から強く握り潰されるように痛み、今にも涙が零れてしまいそうだ。


 こうしている間にも、大切な存在が仇敵との闘いで傷つき、消え去りかけている。


 私は人間なので、肉体が朽ちても輪廻りんねの輪に戻り、生まれ直すことができる。けれどあのお方は違う。神と呼ばれる、人知を超越する存在であり、その死は消滅と同義となる。


 私が死んでも必ずまた、あのお方は生まれ変わった私を見つけ出してくれる。ならばこの世の生など惜しくはない。


 だから、私は走る。走らねばならないのだ。


 夜の終わり、あけぼのの光が空の片隅を照らし始める頃。私の神との神が世界に対して均等に影響力を持つ時刻。朝が生まれる直前に、彼の神の巫女らが神器を整える儀式が執り行われる。彼の神がほんの束の間無防備になる瞬間だ。


 あわいの時刻、その僅かな時間を縫って、私は彼の神の力を削ぐための策を巡らせた。そして今日、実行に移す時が来た。


 篠笹しのざさの茂る山道を駆け、目的の岩屋いわやにたどり着く。斜面にぽっかりと空いた入口には、白い紙垂しでのついた注連縄しめなわが仰々しく私を見下ろしている。


 岩屋の主は、朝と水を司る神。対して、私が仕えるのは夜と火を司る神。朝が夜を照らして殺し、やがて夜の訪れと共に闇が光を覆いつくすように、もしくは水が火を消し火が水を蒸発させるように、両者は太古の昔から相容れない存在だった。そして戦いが激化して、もう何十年も経っている。


 私は決意の印に大きく息を吸い込んでから、小さな黒い宝玉が埋め込まれた腕輪を掲げ、注連縄の下へと進み出た。その途端、きん、と強烈な耳鳴りに襲われる。


 私はあのお方から授けられた護身の腕輪に祈り、そこに秘められた神力しんりきで我が身を守りながら敵神の岩屋へと足を踏み入れた。


 朝露に濡れる森のような、しっとりとした空気が漂う空間だった。その最奥、小さな祭壇の上に土師器はじきが並び、供物を盛るための高杯たかつきには清い水が薄く張られている。その隣、微かに開かれた神棚の隙間から、昇り始めたばかりの朝日のような淡い白光が漏れ出していた。これが、敵神の力の源の一つである朝の宝玉。


 私はごくりと唾を呑み込んで、神棚に手を伸ばす。納められていた白い珠を取り、懐に仕舞い込んだ。その時だ。


「誰……?」


 幼い少女の声が背中を打った。


 振り返れば、聖水の入ったかめを抱いた幼い巫女が、恐怖と驚きを全身に張り付かせてこちらを見上げている。そばかすの浮いた愛嬌のある顔にどこか強い既視感を覚えたが、今はそれどころではない。


 私は反射的に、神力が立ち昇る水を湛えた高杯を手で払って落とし、出口に向けて駆けだした。


 けれどここは、彼の神の本拠地だ。岩屋の側道から年齢も様々な巫女たちが現れて、すぐに囲まれてしまった。


「不届き者め。捕らえよ」


 年配の巫女の号令により、私を拘束しようと巫女たちが迫って来る。捕まり神器を取り返されてしまえば元も子もない。私は咄嗟に、先ほど奪った宝玉を口に押し込み呑み込んだ。


「なっ……」


 巫女たちが絶句するのを尻目に、私は涙を浮かべながら、大きな珠が食道を突き破らんとしながら徐々に胃に落ちていく痛みに耐えた。


「吐き出せ、吐き出すのだ」


 強く肩を揺すられて、胃部を両手で圧迫される。けれど宝玉は胃の中を焼きながら転がるだけだ。


 それどころか朝の宝玉は、私の全身を保護していた夜の神力によって溶かされて、徐々に私の一部となっていくのが感じられる。


 神に仕える巫女たちにもそれがわかったようで、青い顔をしながら唇を引き結び、私を荒縄で拘束して奥へと連行した。


 夜明け前、ほとんど光のない水底のような青暗い空間。あの手この手を使って宝玉を吐き出させようとされたものだから、身体中がぼろぼろだ。先ほどまで感じていた脈打つような激痛さえ、次第に麻痺してしまい、鈍く疼くだけだった。


 ずるり。


 不意に、何かが地を這う音が岩壁に反響した。


 ずるり、ずるり。


 彼の神が帰ってきた。その身は傷つき、全身を怒りに支配されている。私ははっきりと理解した。朝の宝玉を奪い、聖水の張られた高杯を割ったことで、敵神は一時的に力を失い、戦いに耐えられなくなり敗走したのだろう。


 神の、中性的な声が響く。


「巫女よ、人間の分際で神器を奪うとは。己の神に対して健気なことであるが、肉体という器に魂と神器が同時に存在するなどいびつなことだ。このままでは、おぬしの魂が身体から追い出されるぞ。神器を早々に我に返すのだ」

「お断りします」

「ならば仕方がない。無用な殺生は好まぬが……屈しぬというならば、奪い返すのみ。さあ、巫女よ」


 声が頭上から降って来る。


「全てを捧げ、我の糧となれ」


 鋭い牙に魂を捕らえられる。そのまま身体から引き抜かれ、私は白い神の口内に吸い込まれかけた。その時、ふと気づいた。


 肉体という器に魂と神器がそれぞれ存在しているのではない。夜の神力に朝の神力が溶かされたおかげで、私の魂と朝の宝玉ほとんど完全に混ざり合っている。ならば私は神の属性を魂に宿しているのであり、朝そのものだ。どうにかして、この場を逃げきることができるかもしれない……。


 白い神に吸い込まれる直前、岩の裂け目から、ちかっ、とあけぼのの光が差し込んだ。傷を負った肉体から脱した私は、身軽だった。私は光に身を任せ、朝日と同化して敵の手をすり抜ける。そのまま意識を手放し、今生こんじょうに別れを告げた。


 ぼんやりと薄れていく世界の中、私の精神は、ひたすらにあのお方のことだけを思っていた。


 ――ああ、私のお仕えする神様。私が消えてしまったら、あなたは悲しんでしまうでしょうか。あなたが涙を流すことを考えると胸が痛みます。だからどうか、泣かないで。


 私はちっとも嘆いておりません。だって、私が朝の宝玉を呑み込んだことで、敵神からあなたをお守りすることができたのです。それに、私はまた生まれ変わる。最初に添うてから、これまで何度もそうしてくれたように、再び私を見つけ出してください。


 止まらない輪廻の輪の中で、私は永劫にあなたを愛し、あなたにお仕えします。


 魂に刻まれるほど、狂おしく愛おしい、私の大切な方。

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